空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》たり(バッジ『埃及諸神譜《ゼ・ゴッズ・オブ・ゼ・エジプシアンス》』一)、その他の大蛇にも、脚や翼を具えたのがある故、蛇よりは竜夥《りょうなかま》のものだ。西洋の竜とても、ローマの帝旗として竜口を銀、他の諸部を彩絹《いろぎぬ》で作り、風を含めば全体|膨《ふく》れて、開《あ》いた口が塞《ふさ》がれなかった、その竜に翼なし。さてローマ帝国のプリニウスの『博物志《ヒストリア・ナチュラリス》』に、竜の事を数章書きあるが、翼ある由を少しも述べず、故にフ氏が思うたほど、東西の竜が無翼有翼を特徴として区別判然たるものでない。また『五雑俎』に、竜より霊なるはなし、人得てこれを豢《か》う。唐訳『花厳経《けごんぎょう》』七八に、〈人あり竜を調《なら》す法を善くす、諸竜中において、易く自在を得〉、西洋にも昔はそうと見えて、プリニウス八巻二十二章に、ギリシア人トアス幼時竜を畜《か》い馴《な》らせしに、その父その長大異常なるを懼《おそ》れ沙漠に棄つ、後トアス賊に掩撃された時、かの竜来り救うたとある。フ氏は、インドの竜について一言もしおらぬが、『大雲請雨経』に、大歩、金髪、馬形等の竜王を列し、『大孔雀呪王経』に、〈諸《もろもろ》の竜王あり地上を行き、あるいは水中にあって依止を作《な》し、あるいはまた常に空裏を行き、あるいはつねに妙高に依って住むあり(妙高は須弥山《しゅみせん》の事)、一首竜王を我慈念す、および二頭を以てまたまた然り、かくのごとく乃至《ないし》多頭あり(『請雨経』には五頭七頭千頭の竜王あり)云々、あるいはまた諸竜足あるなし、二足四足の諸竜王、あるいは多足竜王身あり〉と見れば、梵土でも支那同様竜に髪あり、数頭多足あるもありとしたのだ。二足竜の事、この『呪王経』のほかにも、沈約の『宋書』曰く、〈徐羨之《じょせんし》云々かつて行きて山中を経るに、黒竜長さ丈余を見る、頭角あり、前両足皆具わり、後足なく尾を曳《ひ》きて行《ある》く、後に文帝立ち羨之|竟《つい》に凶を以て終る〉などあれど、東洋の例至って少ない。しかるに西洋では、中古竜を記するに多くは二脚とした。第一図はラクロアの『|中世の科学および文学《サイエンス・エンド・リテラチュール・オヴ・ゼ・ミッドル・エージス》』英訳本に、十四世紀の『世界奇観』てふ写本から転載した竜数種で、第二図は一六〇〇年パリ版、フランシスコ・コルムナのポリフィルスの題号画中の竜と蝮と相討ちの図だが、ことごとく竜を二脚として居る。この相討ちに似た事、一九〇八年版スプールスの『アマゾンおよびアンデス植物採集紀行』二巻一一八頁に、二尺|長《たけ》の※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]が同長の蛇を嚥《の》んだところを、著者が殺し腹を剖《さ》くと、蛇なお活《い》きいたとあるし、十六世紀にベスベキウス、かつて蛇が蝦蟆《がま》を呑み掛けたところを二足ある奇蛇と誤認したと自筆した(『土耳其紀行《トラヴェルス・インツー・ターキー》』一七四四年版、一二〇頁)。マレー人は、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の雄は腹の外の皮が障《さわ》る故、陸に上れば後二脚のみで歩むと信ず(エップの説、『印度群島および東亜細亜雑誌《ゼ・ジョーナル・オブ・ゼ・インジアン・アーキペラゴ・エンド・イースターン・アジア》』五巻五号)、過去世のイグアノドン、予がハヴァナの郊外で多く見たロケーなど、蜥蜴類は長尾驢《カンガルー》のごとく、尾と後の二脚のみで跳《は》ね歩き、跂《は》い行くもの少なからず、従《よ》ってスプールスが南米で見た古土人の彫画《ほりえ》に、四脚の蜥蜴イグアナを二脚に作《し》たもあった由。
[#「第1図 14世紀写本の竜画」のキャプション付きの図(fig1916_01.png)入る]
[#「第2図 1600年版 竜と蝮の咬み合い」のキャプション付きの図(fig1916_02.png)入る]
また『蒹葭堂雑録』に、わが邦で獲た二足の蛇の図を出せるも、全くの嘘《うそ》蛇《じゃ》ないらしい。ワラス等が言った通り、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]や諸蜥蜴が事に臨んで、前二脚のみで走り、またいっそ四脚皆用いず、腹と尾に力を入れて驀《まっしぐ》らに急進するが一番|迅《はや》い故、専らその方を用いた結果、短い足が萎靡《いび》してますます短くなる代りに、躯が蛇また蚯蚓《みみず》のごとく長くなり、カリフォルニアとメキシコの産キロテス属など、短き前脚のみ存し、支那、ビルマ、米国等の硝子蛇《グラス・スネーク》や、濠州地方のピゴプス・リアリス等諸属は前脚なくて、後脚わずかに両《ふたつ》の小刺《こはり》、また両《ふたつ》の小鰭《こひれ》となって痕跡を止め、英仏等の盲虫《ブラインド・オルム》、アジアやアフリカの両頭蛇《アムフィスパイナ》は、全く足なく眼もちょっと分らぬ。『類函』四四八に、〈黄州に小蛇あり、首尾|相《あい》類《たぐ》う、因って両頭蛇という、余これを視てその尾端けだし首に類して非なり、土人いわくこの蛇すなわち老蚯蚓の化けしところ、その大きさ大蚓を過ぎず、行は蛇に類せず、宛転《えんてん》甚だ鈍し、またこれを山蚓という〉。『燕石雑志』に、日向の大|蚯蚓《みみず》空中を飛び行くとあるは、これを擬倣したのか。とにかく蜥蜴が地中に棲んで蚯蚓《みみず》様に堕落したのだが、諸色|交《こもご》も横条を成し、すこぶる奇麗なもある。『文字集略』に、※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]《ち》は竜の角なく赤白蒼色なるなりと言った。※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]わが邦でアマリョウと呼び、絞紋《しぼりもん》などに多かる竜を骨抜きにしたように軟弱な怖ろしいところは微塵《みじん》もない物は、かかる身長く脚と眼衰え、退化した蜥蜴諸種から作り出されたものと惟う。したがって上述の諸例から推すと、西洋で専ら竜を二足としたのも、実拠なきにあらず、かつ竜既に翼ある上は鳥類と見立て、四足よりも二足を正当としたらしい。支那で応竜を四足に画いた例を多く見たが、邦俗これを画くに、燕を背から見た風にし、一足をも現わさぬは、燕同様短き二足のみありという意だろう。
一三三〇年頃仏国の旅行僧ジョルダヌス筆、『東方驚奇編《ミラビリア・デスクリプタ》』にいわく、エチオピアに竜多く、頭に紅玉《カルブンクルス》を戴《いただ》き、金沙中に棲み、非常の大きさに成長し、口から烟状の毒臭気を吐く、定期に相集まり翼を生じ空を飛ぶ。上帝その禍を予防せんため、竜の身を極めて重くし居る故、みな楽土より流れ出る一《ある》河に陥《お》ちて死す、近処の人その死を覗《うかが》い、七十日の後その尸《しかばね》の頭頂《いただき》に根生《ねざし》た紅玉を採って国の帝に献《たてまつ》ると。十六世紀のレオ・アフリカヌス筆、『亜非利加記《アフリカイ・デスクリプチオ》』にいう、アトランテ山の窟中に、巨竜多く前身太く尾部細く体重ければ動作労苦す、頭に大毒あり、これに触れまた咬まれた人その肉たちまち脆《もろ》くなりて死すと。すべて※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》や大蛇諸種の蜥蜴など、飽食後や蟄伏中に至って動作遅緩なるより、竜身至って重してふ説も生じたであろう。インド、セイロン、ビルマ等の産、瓔珞蛇《ダボヤ》は長《たけ》五尺に達する美麗な大毒蛇だが、時に街中《まちなか》車馬馳走の間に睡りて毫《ごう》も動かず、いささかも触るれば、急に起きて人畜を傷つけ殺す(サンゼルマノ『緬甸帝国誌《ゼ・バーミース・エンパイヤー》』二十一章)。仏|竹園《ちくおん》で説法せし時、長老比丘衆中を仏の方向き、脚を舒《の》べて睡るに反し、修摩那比丘はわずかに八歳ながら、端坐しいた。仏言う、説法の場で眠る奴は死後竜に生まれる。修摩那は一週間|経《た》ったら四神足を得べしと(『長阿含経《じょうあごんぎょう》』二十二)。また給孤独園《ぎっこどくおん》で新たに出家した比丘が、坐禅中睡って房中に満つる大きさの竜と現われた、他の比丘これを見て声を立てると、竜眼を覚ましまた比丘となりて坐禅する。仏これを聞いて竜の性睡り多し、睡る時必ず本形を現わすものだと言いて、竜比丘を召し、説法して竜宮へ還し、以後竜の出家を許さなんだ(『僧護経』)。『類函』四三八に、王趙|方《かた》へ一僧来り食を乞い、食|訖《おわ》って仮寝《うたたね》する鼾声夥しきを訝《いぶか》り、王出て見れば竜睡りいた。寤《さ》めてまた僧となり、袈裟一枚大の地を求むるので承知すると、袈裟を舒《の》ばせば格別大きくなる。かくて広い地面を得て、大工を招き大きな家を立てると、陥って池となり、竜その中に住む。御礼に接骨方《ほねつぎのほう》を王氏に伝え、今も成都で雨乞いに必ず王氏の子孫をして池に行き乞わしむれば、きっと雨ふるとある。これは、『阿育《アソカ》王伝』の摩田提《マジアンチカ》尊者が大竜より、自分一人坐るべき地を乞い得て、その身を国中に満たして※[#「よんがしら/(厂+(炎+りっとう))」、第4水準2−84−80]賓国《けいひんこく》を乗っ取った話(『民俗』二年一報、予の「話俗随筆」に類話多く出《い》づ)、また柳田君の『山島民譚集』に蒐《あつ》めた、河童《かっぱ》が接骨方を伝えた諸説の原話らしい、『幽明録』の河伯女《かはくのむすめ》が夫とせし人に薬方三巻を授けた話などを取り雑《ま》ぜた作と見ゆ。とにかくかようの譚は、瓔珞蛇《ダボヤ》など好んで睡る爬虫に基づいたであろう。熱帯地で極暑やや寒き地で、冬中|※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》は蟄伏する(フムボルト『回帰線内墨州紀行《トラヴェルス・ツー・エクエノクチカル・アメリカ》』英訳十九章)。シュワインフルトの『亜非利加の心臓《イム・ハーツュン・フォン・アフリカ》』十四章に、無雨季節には※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]いかな小溜水にも潜み居ると言い、パーキンスの『亜比西尼住記《ライフ・イン・アビッシニヤ》』二十三章に、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]その住むべき水より、遠距離なる井の中に住んで毎度羊を啖《くら》いしが、最後に水汲みに来た少女を捉《と》り懸りて露《あら》われ殺された由見ゆ。支那書に見ゆる蟄竜や竜、井の中に見《あら》われた譚は、こんな事実を大層に伝えたなるべし。それからトザーの『土耳其高地の研究《レサーチス・イン・ゼ・ハイランズ・オヴ・ターキー》』巻二に、近世リチュアニア、セルビア、ギリシア等で、竜《ドラコン》は竜の実なく一種の巨人《おおびと》采薪《たきぎとり》狩猟《かり》を事とし、人肉を食うものとなり居るも、比隣《となり》のワラキア人はやはり翼と利《とき》爪《つめ》あり、焔と疫気を吐く動物としおる由を言い、件《くだん》の竜《ドラコン》てふ巨人に係る昔話を載す。ラザルスてふ靴工、蜜を嘗《な》めるところへ蠅集まるを一打ちに四十疋殺し、刀を作って一撃殺四十と銘し、武者修業に出で泉の側に睡る。その辺に棲める竜かの刀銘を読んで仰天し、ラ寤《さ》むるを俟《ま》ちて請いて兄弟分と為《な》る、竜|夥《なかま》の習い、毎日順番に一人ずつ、木を伐り水汲みに往く、やがてラが水汲みに当ると、竜の用うる桶一つが五十ガロン入り故、空《から》ながら持ち行くに困苦を極む、いわんや水を満たしては持ち帰るべき見込みなし、因って一計を案じ、泉の周囲を掘り廻る。余り時が立つので、見に来ると右の次第故何をするかと問う、ラ答うらく、毎日一桶ずつ運ぶのは面倒だからこの泉を全《まる》で持って帰ろうとするところだ、竜いわく、それを俟つ間に吾輩渇死となる、汝を煩わさずに吾輩ばかり毎日運ぶ事としよう。次にラが木伐《ききり》の当番となり、林中に往き、縄で所有《あらゆる》樹を絆《つな》ぎ居る、また見に来て問うに対《こた》えて、一本二本は厄
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