洋の竜に酷《よく》似たと判った。しかるにその後、仏人サミュール・ド・シャムプレーンの『一五九九―一六〇二年西印度および墨西哥』(ナラチヴス・オヴ・ア・ヴォエージ・ツー・ゼ・ウェスト・インジース・エンド・メキシコ、一八五九年英訳)を見るに、メキシコの響尾蛇の頭に両羽あり、またその地に竜を産し、鷲の頭、蜥蜴《とかげ》の身、蝙蝠《こうもり》の翹《つばさ》で、ただ二大脚あり。大きさ羊のごとく、姿怖ろしけれど害を為《な》さぬとあった。因ってかの国にも、古来蛇、蜥蜴などを誇張して、竜の属《たぐい》の想像動物を拵《こしら》えあったと知った。濠州メルボルン辺に棲《す》むと伝えた巨蛇《おろち》ミンジは、プンジェル神の命のままに、疱瘡と黒疫《ペスト》もて悪人を殺すに能《よ》く、最《いと》高き樹に登り尾もて懸け下り、身を延ばして大森林を踰《こ》え、どの地をも襲う。また乾分《こぶん》多く、諸方に遣わして疫病を起す。この蛇来る地の人皆取る物も取らず、死人をも葬らず、叢榛《こもり》に放火して、速やかに走り災を脱れた(一八七八年版、スミス『維多利亜生蕃篇《ゼ・アボリジンス・オヴ・ビクトリア》』巻二)といえる事体、蛇よりは欧亜諸邦の毒竜の話に極めて似居る。例せばペルシアの古史賦『シャー・ナメー』に、勇士サムが殺した竜は頭髪《かみ》を地に※[#「てへん+曳」、第4水準2−13−5]《ひ》いて山のごとく起り、両の眼|宛然《さながら》血の湖のごとく、一たび※[#「口+「皐」の「白」にかえて「自」、第4水準2−4−33]《ほ》ゆれば大地震動し、口より毒を吐く事洪水に似、飛鳥|竭《つ》き、奔獣尽き、流水より※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》を吸い、空中より鷲を落し、世間恐怖もて満たされ、一国のために人口の半ばを喪《うしの》うたと吹き立て、衆経撰『雑譬喩《ぞうひゆ》経』に、昔|賈客《こかく》海上で大竜神に逢う、竜神汝は某国に行くかと問うに、往くと答えると、五升|瓶《がめ》の大きさの卵一つを与え、かの国に行かば、これを大木の下に埋めよ、しからざれば殺すぞという。恐ろしくてその通り埋めてより国中疫病多し、王占いてかの蟒卵《ぼうらん》を掘り出し焼き棄てると疫が息《や》んだ。後日かの賈客、再び竜に逢って仔細を語ると、奴輩《やつら》を殺し尽くさぬは残念というから、その故を問う。我|本《もと》かの国の健児某甲だった。平日力を恃《たの》んで国中の人民を凌轢《りょうれき》せしも、一人としてわれを諫むるなく、為《な》すがままに放置《すてお》いたので、死後竜に生まれて苦しみ居る故に、返報に彼らを殺そうとしたのだといった。また、舎衛国に、一日縦横四十里の血の雨ふる。占師曰く、これは人蟒《じんぼう》が生まれた兆だ、国中新生の小児をことごとく送り来さしめ、各々一空壺中に唾《つばは》かしむれば、唾《つばき》が火となる児がそれだというので試みると、果して一児が人蟒と別った、因ってこれを無人処《ひとなきところ》に隔離し、死刑の者を与えると、毒を吐いて殺す事前後七万二千人、ある時獅出で来て吼声四十里に達したので人蟒を遣わすに、毒気を吐いてたちまちこれを仆《たお》した。のち人蟒老いて死せんとする時、仏《ぶつ》、舎利弗《しゃりほつ》して往き勧めて得脱《とくだつ》せしむ。人蟒われいまだ死せざるに、この者われを易《あなど》り、取次もなしに入り来ると瞋《いか》って毒気を吐くを、舎利弗慈恵を以て攘《はら》い、光顔ますます好《よ》く、一毛動かず。人蟒すなわち慈心を生じ、七たび舎利弗を顧みて、往生昇天したとある。竜気を稟《う》けて生まれてだにこんなだ。いわんや竜自身の大毒遥かに人蟒や蟒卵に駕するをやで、例せば、難陀《なんだ》※[#「烏+おおざと」、第3水準1−92−75]波難陀《うばなんだ》二竜王、各八万四千の眷属あり、禍業の招くところ、悩嫉心を以て、毎日三時その毒気を吐くに、二百五十|踰膳那《ようじゃな》内の鳥獣皆死し、諸僧静かに度を修する者、皮肉変色|憔悴《やせ》萎《しお》れ黄ばんだので、仏|目蓮《もくれん》をして二竜を調伏せしめた(『根本説一切有部毘奈耶』四四)。
 かく竜てふ物は、東西南北世界中の大部分に古来その話があるから、東洋すなわち和漢インド地方だけの事識れりとて、竜の譚全体を窺うたといわれぬ、英国のウォルター・アリソン・フィリップ氏の竜の説に、すこぶる広く観て要を約しあるから、多少拙註を加えて左に抄訳せり。ついでに述ぶ、前節に相師が妙光女を見て、この女必ず五百人と交わらんといった話を述べたが、一八九四年版ブートン訳『亜喇伯夜譚補遺《サップレメンタリー・ナイツ》』一にも、アラビアで一《ある》女生まれた時、占婦|卜《ぼく》してこの女成人して、必ず婬を五百人に売らんと言いしが中《あた》った事あり、わが邦にも『水鏡』恵美押勝《えみのおしかつ》討たれた記事に「また心|憂《う》き事|侍《はべ》りき、その大臣の娘|座《おわ》しき、色《いろ》容《かたち》愛《めで》たく世に双人《ならぶひと》なかりき、鑑真《がんじん》和尚の、この人千人の男に逢ひ給ふ相|座《おわ》すと宣《のたま》はせしを、たゞ打ちあるほどの人にも座せず、一、二人のほどだにも争《いか》でかと思ひしに、父の大臣討ち取られし日、御方《みかた》の軍《いくさ》千人ことごとくにこの人を犯してき」、いずれも妙光女の仏話から生じたらしいと、明治四十一年六月の『早稲田文学』へ書いて置いた。『呉越春秋』か『越絶書』に、伍子胥《ごししょ》越軍を率いて、その生国なる楚に討ち入り、楚王の宮殿を掠《かす》めた時、旧君たりし楚王の妃妾を強辱して、多年の鬱憤を晴らしたとあった。『将門記《しょうもんき》』に、平貞盛《たいらのさだもり》と源扶《みなもとのたすく》敗軍してその妻妾|将門《まさかど》の兵に凌辱せられ、恥じて歌詠んだと出づ。強犯されて一首を吟《くちずさ》むも、万国無類の風流かも知れぬが、昔は何国《いずく》も軍律|不行届《ふゆきとどき》かくのごとく、国史に載らねど、押勝の娘も、多数兵士に汚された事実があったのを、妙光女の五百人に二倍して、千人に云々と作ったのであろう。
 フィリップ氏曰く、竜の英仏名ドラゴンは、ギリシアにドラコン、ラテンのドラコより出で、ギリシアのドラコマイ(視る)に因《ちな》んで、竜眼の鋭きに取るごとしと。ウェブストルに、竜眼怖ろしきに因った名かとある方、釈《と》き勝《まさ》れりと惟《おも》う。例せば上に引いたペルシアの『シャー・ナメー』に、竜眼を血の湖に比べ、欧州の諸談皆竜眼の恐ろしきを言い、殊に毒竜バシリスクは、蛇や蟾蜍《ひきがえる》が、鶏卵を伏せ孵《かえ》して生ずる所で、眼に大毒あり能く他の生物を睨《にら》み殺す、古人これを猟った唯一の法は、毎人鏡を手にして向えば、彼の眼力鏡に映りて、その身を返り射《い》、やにわに斃死《へいし》せしむるのだったという(ブラウン『俗説弁惑《プセウドドキシア・エピデミカ》』三巻七章、スコッファーン『科学俚俗学拾葉《ストレイ・リープ・オヴ・サイエンス・エンド・フォークロール》』三四二頁以下)。シュミットの『銀河制服史《ゼ・コンクエスト・オヴ・ゼ・リヴァー・プレート》』に、十六世紀に南米に行われた俗信に、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》井中にあるを殺す唯一の法は鏡を示すにあり、しかる時彼自分の怖ろしき顔を見て死すとあるは、件《くだん》の説の焼き直しだろ。わが邦にも魔魅《まみ》、蝮蛇《まむし》等と眼を見合せばたちまち気を奪われて死すといい(『塵塚物語』三)、インドにも毒竜視るところことごとく破壊す(『毘奈耶雑事』九)など説かれた。フ氏曰く、竜は仮作動物で、普通に翼ありて火を吐く蜥蜴《とかげ》また蛇の巨大なものと。まずそうだが、東洋の竜が千差万別なるごとく、西洋の竜も記載一定せぬ、中世英国に行われたサー・デゴレの『武者修行賦』から、その一例を引かんに、ここに大悪竜あり、全身あまねく火と毒となり、喉|濶《ひろ》く牙大にしてこの騎士を撃たんと前《すす》む、両足獅のごとく尾不釣合に長く、首尾の間確かに二十二足生え、躯《み》酒樽に似て日に映じて赫耀《かくよう》たり、その眼光りて浄玻璃《じょうはり》かと怪しまれ、鱗硬くして鍮石《しんちゅう》を欺く、また馬様の頸《くび》もと頭を擡《もた》ぐるに大力を出す、口|気《いき》を吹かば火焔を成し、その状《さま》地獄の兇鬼を見るに異ならず(エリス『古英国稗史賦品彙《スペシメンス・オヴ・アーリー・イングリッシュ・メトリカル・ローマンセズ》』二版、三巻三六六頁)、フ氏続けていわく、ギリシア名ドラコンは、もと大蛇の義神誌に載せ、竜は形容種々なれど実は蛇なり。カルデア、アッシリア、フェニキア、エジプト等、大毒蛇ある諸国皆蛇また竜を悪の標識とせり、例せばエジプト教のアポピは闇冥界の大蛇で、日神ラーに制服され、カルデアの女神チャーマットは、国初混沌の世の陰性を表せるが、七頭七尾の大竜たり。ヘブリウの諸典また蛇あるいは竜を死と罪業の本とて、キリスト教の神誌これを沿襲せり。しかるにギリシア、ローマには一方に蛇を兇物として蛇髪女鬼《ゴルゴー》、九頭大蛇《ヒドラ》等、諸怪を産出せる他の一方に、竜種《ドラゴンテス》を眼|利《するど》く地下に住む守護神として崇敬せり。例せば医神アスクレピオスの諸祠の神蛇、デルフィの大蛇、ヘスペリデスの神竜等のごとしと。熊楠バッジ等エジプト学者の書を按ずるに、古エジプト人も古支那と同じく、竜蛇を兇物とばかり見ず善性瑞相ありとした例も多く、神や王者が自分を蛇に比べて、讃頌したのもある。
 さてフ氏またいわく、一汎《いっぱん》に言えば竜の悪名は好誉より多く、欧州では悪名ばかり残れり。キリスト教は古宗教の善悪の諸竜を混同して、一斉にこれを邪物とせり、かくて上世《そのかみ》の伝説外相を変えて、ミカエル尊者、ジョージ尊者等、上帝に祈りて竜を誅した譚となり、以前ローマの大廟《カピトル》に窟居《くっきょ》して大地神女《ボナ・デア》を輔《たす》け人に益した神蛇も、法王シルヴェストル一世のために迹《あと》を絶つに及べり。北欧の大蛇《おろち》も、東方南方の大蛇と性質同じく罪悪の主、隠財の守護にして、人が好物を獲るを遮る。故に中世騎士勇を以て鳴る者竜を殺すをその規模とし、近世と余り隔たらぬ時代まで学者も竜|実《まこと》に世にありと信ぜり。ただし研究追々進みては、竜も身を人多き地に置き得ず、アルプス山中無人の境をその最後の潜処としたりしを、ジャク・バルメーンその妄を弁じてよりついに竜は全く想像で作られたものと判《わか》れり。これより前一五六四年死せるゲスネルの判断力、当時の学者輩に挺特せしも、なおその著『動物全誌』(ヒストリア・アニマリウス)に竜を載せたるにて、その頃竜の実在の信念深かりしを知るべしと。
 フ氏曰く、竜の形状は最初より一定せず、カルジアのチャーマットは躯に鱗ありて四脚両翼を具せるに、エジプトのアポピとギリシア当初の竜は巨蛇《おろち》に過ぎず。『新約全書』末篇に見えた竜は多頭を一身に戴《いただ》き、シグルドが殺せしものは脚あり。欧州でも支那でも、竜の形状は多く現世全滅せる大蜥蜴類の遺骸を観て言い出したは疑いを容《い》れず。支那や日本の竜は、空中を行くといえど翼なしと。
 熊楠いわく、支那でも、古く黄帝の世に在った応竜は翼あった。また鄒陽《すうよう》の書に、〈蛟竜《こうりょう》首を驤《あ》げ、翼を奮えばすなわち浮雲出流し、雲霧|咸《みな》集まる〉とあれば、漢の世まで、常の竜も往々有翼としたので、『山海経』に、〈泰華山蛇あり肥遺と名づく、六足四翼あり〉など、竜属翼ある記事も若干ある。結局翼なくても飛ぶと讃えてこれを省いたと、蛇や蜥蜴に似ながら飛行自在なる徴《しるし》に翼を添えたと趣は異にして、その意は一なりだ。フ氏の言いぶり古エジプトの竜も、単に大蛇にほかならぬようだが、日神の敵アポピは、時に大蛇、時に※[#「魚+王の中の
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