、死後いずこへ往くか判らぬ、一切世界衆生の業力《ごうりき》に由《よ》りて成り、成っては壊《くず》れ、壊れては成り、始終相続いて断絶せぬ、それから竜が雨を降らすに、口よりも眼鼻耳よりも出さず、ただ竜に大神力ありて、あるいは喜びあるいは怒れば雨を降らす、この四をいうのじゃ(『大明三蔵法数』十一、十八)。
『正法念処経』にいわく、瞋痴多行《おこりどおし》の者、大海中に生まれて毒竜となり、共に瞋悩乱心毒を吐いて相害し、常に悪業を行う。竜が住む城の名は戯楽《けらく》、縦横三千|由旬《ゆじゅん》、竜王中に満つ、二種の竜王あり、一は法行といい世界を護る、二は非法行で世間を壊《やぶ》る、その城中なる法行王の住所は熱砂|雨《ふ》らず、非法行竜の住所は常に熱沙|雨《ふ》り、その頂あり、延《ひ》いて宮殿と眷属を焼き、全滅すればまた生じて不断苦しみを受く、法行竜王の住所は七宝の城郭七宝の色光あり、諸池水中衆花具足し、最上の飲食《おんじき》もて常に快楽し、妙衣厳飾|念《おも》うところ随意に皆あり、しかれどもその頂上常に竜蛇の頭あるを免れぬとある。今も竜王の像に、必ず竜が頭から背中へ噛《かじ》り付いたよう造るは、この本文を拠《よりどころ》としたのだろ。さて竜に生まるるは、必ずしも瞋痴《ばかにおこ》った者に限らず、吝嗇《けち》な奴も婬乱な人も生まれるので、吝《けち》な奴が転生した竜は相変らず慳《しわ》く、婬《みだら》なものがなった竜は、依然多淫だ。面倒だが読者が悦ぶだろから、一、二例を挙げよう。
『大毘盧遮那加持経《だいびるしゃなかじきょう》』に、人の諸心性を諸動物に比べた中に、広大なる資財を思念するを竜心と名づけた。わが邦で熊鷹根生というがごとし。今日もインドで吝嗇漢《しわんぼう》嗣子なく、死ねば蛇と化《な》って遺財を守るという(エントホヴェン輯『グジャラット民俗記《フォークローアノーツ》』一一九頁)。すべてインドで財を守る蛇はナガ、すなわち載帽蛇《コブラ・デ・カペロ》で、多くの場合に訳経の竜と相通ずる奴だ(後に弁ずるを読まれよ)。『賢愚因縁経』四に、波羅奈国の人苦心して七瓶金を蓄え、土中に埋み碌《ろく》に衣食せず病死せしが、毒蛇となってその瓶を纏《まと》い数万歳を経つ、一朝自ら罪重きを悟り、梵志《ぼんし》に托し金を僧に施して、蛇身を脱《のが》れ天に生まれたとあり。『今昔物語』十四なる無空律師万銭を隠して蛇身を受けた話、また聖武天皇が一夜会いたまえる女に金《こがね》千両賜いしを、女死に臨み遺言して、墓に埋めしめた妄執で、蛇となって苦を受け、金を守る、ところを吉備大臣《きびのおとど》かの霊に逢いて仔細を知り、掘り得た金で追善したので、蛇身から兜率天《とそつてん》へ鞍替《くらがえ》したちゅう話など、かのインド譚から出たよう、芳賀博士の攷証本に見るは尤も千万だ。降って『因果物語』下巻五章に、僧が蛇となって銭を守る事二条あり。『新著聞集《しんちょもんじゅう》』十四篇には、京の富人溝へ飯を捨つるまでも乞食に施さざりし者、死後蛇となって池に住み、蓑《みの》着たように蛭《ひる》に取り付かれ苦しみし話を載す。
婬乱者が竜と化《な》った物語は、『毘奈耶雑事』と『戒因縁経』に出で、話の本人を妙光女とも善光女とも訳し居るが、概要はこうだ。室羅伐《スラヴァスチ》城の大長者の妻が姙《はら》んだ日、形貌《かお》非常に光彩《つや》あり、産んだ女児がなかなかの美人で、生まるる日室内明照日光のごとく、したがって嘉声《かせい》城邑《じょうゆう》に遍《あまね》かった。しかるところ相師あり、衆と同じく往き観て諸人に語る、この女後まさに五百男子と歓愛せんと、衆曰くかかる尤物《べっぴん》は五百人に愛さるるも奇とするに足らずと、三七日《さんしちにち》経て長者大歓会を為《な》し、彼女を妙光と名づけた。ようやく成長して容華《すがた》雅麗《みやびやか》に、庠序《ぎょうぎ》超備《すぐれ》、伎楽管絃備わらざるなく、もとより富家故出来得るだけの綺羅を飾らせたから、鮮明遍照天女の来降せるごとく、いかな隠遁仙人離欲の輩も、これを見ればたちまち雲を踏み外す事受け合いなり、いかにいわんや無始時来|煩悩《ぼんのう》を貯え来った年少丈夫、一瞥《いちべつ》してすなわち迷惑せざらんと長口上で讃《ほ》めて居るから、素覿《すてき》無類の美女だったらしい。諸国の大王、太子、大臣等に婚を求めたが、相師の予言を慮《おもんぱか》り、彼ら一向承引せず、ただ彼女を門窓|戸※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]《こゆう》より窺う者のみ多くなり、何とも防ぎようがないので、長者早く娘を嫁せんとすれど求むる者なし。時に城中に一長者ありて、七度妻を娶《めと》りて皆死んだので、衆人|綽号《あざな》して殺婦と言った。海安寺の唄に「虫も殺さぬあの主様《ぬしさま》を、女殺しと誰言うた」とあるは、女の命を己れに打ち込みおわらしむてふ形容詞だが、今この殺婦は正銘の女殺しの大先生たるを怖れ、素女はもちろん寡婦さえ一人も取り合わぬ。相師の一言のおかげで、かかる美容を持ちながら盛りの花を空《むだ》に過さしむるを残念がって、請わるるままに父が妙光を殺婦に遣った心の中察するに余りあり。
殺婦長者既に多くの妻を先立てし罪業を懼《おそ》れ、新妻を娶ると直《す》ぐさま所有《あらゆる》鎖鑰《じょうかぎ》を彼女に附《わた》し、わが家の旧法仏僧に帰依すれば、汝も随時僧に給事して、惰《おこた》るなかれというた。爾来僧を請ずるごとに、妙光が自手給事するその間、美僧あれば思い込んで記《おぼ》え置く。ある日長者外出するとて、わが不在中に僧来らば必ず善く接待せよと言って置き、途上数僧に逢うて、われは所用あって失敬するが、家に妻が居る故必ず食を受けたまえというたので、僧その家に入ると、妙光たちまち地金を露《あら》わし、僧の前にその姿態嬌媚の相を作《な》す。僧輩無事に食い了《おわ》って寺に還り、かかる所へ往かぬが好かろうと相戒めて、明日より一僧も来ない。長者用済み還って妻に問うに、主が出で往った日来た限り、一僧も来らずと答う、長者寺に往って問うに、われら不如法《ふにょほう》の家に入らぬ定めだと対《こた》う。長者今後は必ず如法に請ずべければ何分前通りと切願して、僧輩も聞き入れ、他日来て食を受く、長者すなわち妙光を一室に鎖閉《とじこ》め、自ら食を衆僧に授くるその間、妙光室内でかの僧この僧と、その美貌を臆《おも》い出し、極めて愛染《あいぜん》を生じ、欲火に身の内外を焼かれ、遍体汗流れて死んだ。長者僧を供養しおわり、室を開けて見れば右の始末、やむをえず五色の氈《せん》もてその屍を飾り、葬送して林中に到る。折悪《おりあ》しく五百群賊盗みし来って、ここに営しいたので、送葬人一同逃げ散った。群賊怪しんで捨て去られた屍を開き、妙光女魂既に亡《うせ》たりといえども、容儀儼然活けるがごとく、妍華《けんか》平生に異ならざるを覩《み》、相《あい》いいて曰く、この女かくまで美艶にして、遠く覓《もと》むるも等類なしと、各々|染心《ぜんしん》を生じ、共に非法を行いおわって、礼金として五百金銭を屍の側において去った。天明《よあけ》に及び、四方に噂《うわさ》立ち皆いわく、果して相師の言のごとく、妙光女死すといえども、余骸なお五百人に通じ、五百金銭を獲たと。妙光死して天竺の北なる毘怛吐泉《びたとせん》の竜となり、五百牡竜来って共に常にこれに通じた。世尊諸|比丘《びく》に向いその因縁を説きたまわく、昔|迦葉仏《かしょうぶつ》入滅せるを諸人火葬し、舎利《しゃり》を収め塔を立てた時、居士女《こじのじょ》極めて渇仰して明鏡を塔の相輪中に繋《つな》ぎ、願わくはこの功徳もて後身世々わがある所の室処《へや》光明照耀日光のごとく、身に随《つ》れて出ん事をと念じた。その女の後身が妙光女で、願の趣聞き届けられて、居所室内明照日光のごとくだった。かく赫耀《かがやき》ながら幾度も転生《うまれかわ》る中、梵授王の世に、婆羅尼斯城の婬女に生まれ賢善と名づけ、顔容端正人の見るを楽《よろこ》ぶ。ところで予《かね》て王の舅《しゅうと》と交通した。ある時五百の牧牛人《うしかい》芳園で宴会し、何とよほど面白いが、少女の共に交歓すべきを欠くは残念だ、一人呼んで来るが好《い》い、誰が宜《よか》ろうと言うと、皆賢善女賛成と一決し、呼びに行くと、かの婬女金銭千文くれりゃ行こう、くれずば往かぬというたので、まず五百金銭を与えて歓を得、戯れ済んでまた五百金銭を渡せば如何《いかん》といい、婬女承諾して五百銭を受け、汝ら先往きて待ちおれ、我|※[#「靜」の「爭」に代えて「見」、第3水準1−93−75]飾《みじまい》して後より行こうという。衆去りて後婬女われかく多勢を相手に戯れては命が続かぬ、何とか脱《のが》れようをと案じて、かつて相《あい》識《し》った王舅に憑《たの》みて救済を乞わんと決心し、婢をして告げしめしは、かくかくの次第で、妾|迂闊《うかつ》の難題を承諾したが、何が何でも五百人は一身で引き受けがたい、さりとて破談にせば倍にして金を返さにゃならず、何とか銭も返さず身をも損ぜぬよう計らいくだされたいと頼むと、平常|悪《にく》からぬ女のこと故、王の力を仮りて女を出さず五百銭をも戻さずに、五百人を巻いてしまわせた。爾時《そのとき》辟支仏《へきしぶつ》あって城下に来りしを、かの五百|牧牛人《うしかい》供養発願して、その善根を以てたとい彼女身死するとも残金五百銭を与えて、約のごとく彼と交通せんと願懸《がんかけ》した。その業力《ごうりき》で以来五百生の内、常に五百金銭を与えて、彼女と非法を行うたと仏が説かれた。これで仏の本説は、人の善《よ》き事は善く、悪《あ》しき事は悪しく、箇々報いが来り、決して差し引き帳消してふ事がないと主張するものと判る。すなわち鏡を捧げた功徳で発願通り飛び切りの別嬪《べっぴん》に生まれるが、他の業報《むくい》で娼妓に生まるるを免れず、娼妓営業中五百人を欺いた報いで、牧牛人輩の発願そのまま、五百金銭を与えて死骸を汚さるるを免れぬは、大功は小罪を消し一善は一悪を滅すと心得た今日普通の業報説と大いに差《ちが》うようで、こんな仏説を呑み込み過ぎると、重悪を犯した者は、小善を治めても及び着かぬてふ自暴気味《やけぎみ》を起すかも知れず、今日の小乗仏教徒に、余り大事業大功徳を企つる者なきは多少この理由にも基づくなるべし。
アドルフ・エルトンの『世界周遊記《ライセ・ウム・ジェ・エルデ》』(一八三八年版、二巻一三頁)に、シベリアの露人が、新年に試みる指環占の中、竜てふ名号をいう事あるにより、この占法《うらかた》は蒙古より来れりと断じた。これは蒙古はインドと支那の文物を伝え、この二国が竜の崇拝至って盛んだから、竜てふ名号は蒙古を経て、二国よりシベリアに入ったとの推定であろう。予はこの推定を大略首肯するに躊躇せぬ。しかしかかる物を読んで、竜をアジアの一部にのみ流《おこな》われた想像動物と信ずる人あらば、誤解も甚だしく、実は竜に関する信念は、インドや支那とその近傍諸国に限らず、広く他邦他大州にも存したもので、たとえば、ニューギニアのタミ人元服を行う時、その青年必ず一度竜に呑まるるを要し(一九一三年版、フレザー『不死の信念《ゼ・ビリーフ・イン・インモータリチー》』一巻三〇一頁)、西北米のワバナキインジアンに、竜角人頭に著《つ》きて根を下ろし、伐《き》れども離れぬ話広く行われ(『万国亜米利加学者会報《トランサクチョン・ジュ・コングレス・アンターナチョナル・デー・アメリカニスト》』一九〇六年、クェベック版、九二頁)、西人がメキシコを発見せぬ内、土人が作った貴石のモザイク品に、背深緑、腹真紅、怒眼、鋭牙、すこぶる竜に似たものが大英博物館にあったので、予これは歌川派画工が描いた竜を擬《まね》たのだろと言うと、サー・チャーレス・リードが、聢《しっか》り手に執って見よというから、暫《しばら》く審査すると、全く東半球に産せぬ響尾蛇《ラットル・スネーク》の画の外相だけ東
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