くは妾を見るなかれ〉、これは今日ポリネシア人に鮫を族霊《トテム》とする輩が事に触れて鮫の所作を為すごとく、姫が本国で和邇を族霊とし和邇の後胤と自信せる姫が子を産む時自ら和邇のごとく匍匐《は》ったのであろう、言わば狐付きが狐の所作犬神付きが犬神の所作をし、アフリカで※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]神が高僧に詑《つ》く時言語全く平生に異なり荐《しき》りに水に入らんと欲し、河底を潜り上って※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]同然泥中に平臥するがごとし(レオナード著『下《ラワー》ニゲル|およびその民俗篇《エンド・イツ・トライブス》』二三一頁)。さて『古事記』にこれより先かの尊豊玉姫の父|海神《わたつみ》のもとより帰国の時一|尋《ひろ》の和邇に乗りて安著し、その和邇返らんとする時|所佩《みはかせ》る紐小刀《ひもがたな》を解いてその頸に付けて返したまいし故その一尋の和邇を今に佐比持神《さひもちのかみ》というと見え、『書紀』に稲飯命《いなひのみこと》熊野海で暴風に遭《あ》い、ああわが祖は天神《あまつかみ》母は海神なるにいかで我を陸にも海にも厄するかと言い訖《おわ》って剣を抜きて海に入り鋤持神《さひもちのかみ》となるとある、この鋤の字を佐比と訓《よ》む事『古事記伝』では詳《つまび》らかならず、予種々考えあり、ここには煩わしきを憚《はばか》って言えぬが大要今日の鶴嘴《つるはし》様に※[#「金+纔のつくり」、第3水準1−93−44]《は》曲ってその中央に柄が付いた鋤を佐比と言い、そのごとく曲った刀を鋤鈎《さひち》というたと惟《おも》う、中古にも紀朝臣|佐比物《さひもち》、玉作佐比毛知など人の名あればその頃まで用いられた農具だ、彦火々出見尊が紐小刀を和邇の頸に附けてその形が佐比様すなわち鶴嘴様になりしよりその和邇を佐比持神というたてふ牽強説で、宣長が「卑しけど雷|木魅《こだま》きつね虎竜の属《たぐい》も神の片端」と詠んだごとく、昔は邦俗和邇等の魚族をも奇怪な奴を神としたのだ、さて鮫の一類に撞木鮫《しゅもくざめ》英語でハンマー・ヘッデット・シャーク(槌頭の鮫)とて頭丁字形を成し両端に目ありすこぶる奇態ながインド洋に多く欧州や本邦の海にも産するのが疑いなくかの佐比神だ、十二年前熊野の勝浦の漁夫がこの鮫を取って船に入れ置き、腓《こむら》を大部分噛み割《さ》かれ病院へ運ばるるを見た、獰猛な物で形貌奇異だから古人が神としたのも無理でない、これで和邇とは古今を通じて鮫の事で神代既に熊和邇、佐比持などその種類を別ちおったと知る、国史に※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]をワニと訓ませ『和名抄』『新撰字鏡』などその誤りを改めなんだは、その頃の学者博物学に暗かった杜撰《ずさん》で、今も北国や紀州の一部である鮫をワニと呼ぶ通り、国史のワニは決して※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]でなく鮫だという事を明治二十六年頃の『日本』新紙に書いた人があったがなかなかの卓説だ、御名前を忘れたが一献差し上げたいから知った人があらばお知らせを乞う、昨年十月の『郷土研究』に記者が人を捕る鮫の類は深海に棲む動物で海岸に起ったこのワニの譚に合わず、鮫すなわちワニという説は動物分布の変遷てふ事を十分考察せぬ者の所為と評しあったが、この記者自身が動物分布の変遷を一向構わぬらしい、鮫の住所様々なるは『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』十一版二十四巻に便宜のためこれを浜辺、大海、深海底と住所に随って序《つい》で論じあるで判《わか》る。アフリカ、南米、濠州等には川に鮫住む事多く昔江戸鮫が橋まで鮫が来たとは如何《いかが》だが、『塩尻』五三に尾張名古屋下堀川へ鰹群来した事を記して、漁夫いう日でり久しき時鮫内海に入り諸魚を追うて浜近く来るとあり。田辺浜の内の浦などいう処は近年まで鮫毎度谷鰹てふ魚を谷海とて鹹水《かんすい》で満ちた細長き谷間へ追い込み漁利を与えた故今も鮫を神様、夷子《えびす》様など唱え鮫というを忌む、日高郡南部町などは夏日海浴する小児が鮫に取られた事少なからず、されば汽船発動機船などなかりし世には日本の海岸に鮫到り害を為《な》す事多かったはずで、『今昔物語』の私市宗平《きさいちのむねひら》、『東鑑』の朝比奈義秀《あさひなよしひで》など浜辺でワニを取った様子皆鮫で※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]にあらず、ハワイやタヒチ等の浜辺に鮫を祭る社あって毎度鮫来り餌を受け甚だしきは祠官を負うて二十|浬《かいり》も游ぎし事エリスの『多島海研究《ポリネシアン・レサーチス》』四、ワイツおよび《ウント》ゲルランド『未開人民史《ゲシヒテ・デル・ナチュルフォルケル》』六等に見ゆ、三重県の磯部大明神にかかる鮫崇拝の遺風ある話は予の「本邦における動物崇拝」に載せた、要するに和邇が鮫にして※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]でなきは疑いを容れず、ただし熱地には※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]が海辺に出る事も鮫が川に上る事もありて動物学の心得もなき民種はこれを混用するも無理ならず、したがってオラン・ラウト人ごとく二者を兄弟としたり、ペルシアの『シャー・ナメー賦』に※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]大海に棲むとしたは有内《ありうち》の事だ。

     本話の出処系統

 上の三章で長たらしく竜の事を論じたは、それが分らぬ内は秀郷竜宮入りの話中の毎事毎項が分らぬからだ、竜の事はなかなか複雑でとても十分にこの誌上で悉《つく》し得ぬが、まず上の三章で勘弁を願うとしてこれからこの話の出処系統論に取り掛ろう。まず『左伝』に鄭大水出で竜時門の外に闘う。『正法念処経』七十に竜と阿修羅と赤海下に住み飲食《おんじき》の故に常に共に闘う、〈また大海あり、名づけて竜満という、諸竜あり、旃遮羅と名づく、この海中に住み、自ら相闘諍す〉。古英国メルリン物語に地下の赤竜白竜相闘って城を崩し、ガイ・オヴ・ワーウィック譚にガイ竜獅と戦うを見、獅に加勢し竜を殪《たお》し獅感じてガイに随うこと忠犬のごとしとある。仏経には竜は瞋恚《しんい》熾盛《しじょう》の者といえるごとくいずれの国でも竜猛烈にして常に同士討ちまた他の剛勢なものと闘うとしたので、既に喧嘩《けんか》通しなれば人に加勢を乞うた例も多い、『類函』三六六に宣城の令張路斯その夫人との間に九人の子あり、張釣りに行って帰るごとに体湿りて寒《ひ》え居る、夫人怪しみ問うと答えて言う、我は竜だ、鄭祥遠も実は竜で我と釣り処を争うて明日戦うはず故九子をして我を助けしめよ、絳※[#「糸+稍のつくり」、第3水準1−90−6]を領《えり》にしたは我、青※[#「糸+稍のつくり」、第3水準1−90−6]は鄭だといった、明日いよいよ戦いとなって九子青※[#「糸+稍のつくり」、第3水準1−90−6]を目的に鄭を射殺し皆竜と化《な》ったとある。同書四三八に『太平広記』を引いていわく、黄※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]湖に蜃(上に出た通り竜の属)あって常に呂湖の蜃と闘う、近邨《きんそん》で善く射る勇士程霊銑方へ蜃が道人に化けて来ていう、われ呂湖の蜃に厄《くる》しめらる、君我を助けなば厚く報ずべし、白練《しろねり》を束ねたる者は我なりと、明日霊銑|邨《むら》の少年と湖辺に鼓噪《こそう》すると須臾《しばらく》して波湧き激声雷のごとく、二牛|相《あい》馳《は》せるを見るにその一|甚《いと》困《くる》しんで腹肋皆白し、霊銑後の蜃に射《い》中《あ》てると水血に変じ、傷ついた蜃は呂湖に帰る途上で死んだとまであって跡がないが約束通りぐっすり礼物を占《せし》めただろう、『続捜神記』から『法苑珠林』に引いた話にいわく、呉の末臨海の人山に入って猟し夜になって野宿すると身長《みのたけ》一丈で黄衣白帯した人来て我明日|讐《かたき》と戦うから助けくれたら礼をしようというたので、何の礼物に及びましょう必ず助けましょうというと、明食時君渓辺に出よ、白帯したのは我黄帯は敵だといって去った、明日出て見ると果して岸の北に声あり草木風雨に靡《なび》くがごとく南も同様だ、唯《と》見《み》ると二大蛇長十余丈で渓中に遇うて相《あい》繞《まと》うに白い方が弱い、狩人射て黄な奴を殺した、暮方に昨《きのう》の人来って大いにありがたい、御礼に今年中ここで猟しなさい、明年となったら慎んで来ないようといって去った、狩人そこに停《とど》まり一年猟続け所猟《えもの》甚だ多く家巨富となった、それでよせば好いに数年の後前言を忘れまた往き猟すると白帯の人また来て君はわが言を用いずここへ死にに来た、前年殺した讐の子すでに長じたから必ず親の仇と君を殺すだろうが我知るところでないと言ったので、狩人大いに恐れて走らんとするところへ黒装束した三人皆長八尺の奴が来て口を張って人を殺したとあるから毒気に中《あ》てたんだろ。芳賀博士はこの話を『今昔物語』十巻三十八語の原《もと》と見定められた、その話は昔|震旦《しんたん》の猟師海辺に山指し出た所に隠れて鹿を待つと、海に二つの竜現われ青赤|※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《く》い合い戦うて一時ばかりして青竜負けて逃ぐ、その夜そこに宿り明日見れば昨と同時にまた戦うて青竜敗走した、面白くてその夜もそこに宿って三日目にまた戦うて青竜例の通りというところを、猟師|箭《や》を矯《た》めて赤竜に射中《いあ》てると海中に入って、青竜も海に入ったが玉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くわ》え出で猟師に近づき吐き置いて海に入った、その玉を取りて家に返りしより諸財心に任せ出で来て富に飽き満ちたというのだ、如意宝珠《にょいほうじゅ》とて持つ人の思いのままに富を得繁盛する珠を竜が持つとはインドに古く行われた迷信で、『新編鎌倉志』に如意珠二種あり、一は竜の頸の上にあり、一は能作生珠と号して真言の法を行うて成る、鶴岡八幡宮の神宝なるは能作生珠だ、その製法呪法は真言の秘法というとある。『華厳経《けごんぎょう》』に一切宝中如意宝珠最も勝るとあり。『円覚鈔』にいう、〈如意と謂うは意中|須《ま》つところ、財宝衣服飲食種々の物、この珠ことごとく能く出生し、人をして皆如意を得せしむ〉。『大智度論』には〈如意珠仏舎利より出《い》づ、もし法没尽する時、諸舎利、皆変じて如意珠と為《な》る〉。『類函』三六四、〈『潜確類書』に曰く竜珠|頷《あご》にあり蛇珠口にあり〉。『摩訶僧祇律』七に雪山水中の竜が仙人の行儀よく座禅するを愛し七|巾《まき》巻きて自分の額で仙人の項《うなじ》を覆い、食事のほか日常かくするので仙人休み得ず身体|萎《くたびれ》羸《や》せて瘡疥を生ず、ところへ近所の者来り若い女に百巻捲かれても苦しゅうないが竜に七巾ではお困りでしょう、よい事がある、竜は天性|慳吝《けんりん》で、咽上に宝珠あるからそれを索《もと》めなさいと教え、竜また来ると仙人彼に汝われをさほど愛するなら如意宝珠をくれというた、竜われこの宝あればごく上饌《じょうせん》と衆宝を出し得るなれ、これは与うべからずとて淵に潜んで再び来なんだと載す。『正法念処経』二九などを見ると宝珠を求めて竜蛇を殺す事多かったらしく、今のインド人も蛇の頭にモホールてふ石あり夜を照らし蛇毒を吸い出す、人見れば蛇自ら呑んでしまいまた自分が好く人に与うるがこれを得る事すこぶる難しと信じ(エントホヴェン編『グジャラット民俗記』一四三頁)、アルメニア人の説にアララット山の蛇に王種あり、その中一牝蛇を選立して女王とす、外国より蛇群来り攻むれど諸蛇脊にかの女王を負う間は敵常に負け却《しりぞ》く、女王に睨《にら》まるれば敵蛇皆力なし、この女王蛇口にフルてふ光明石を含み夜中これを空に吐き飛ばすと日のごとく輝くという(ハクストハウゼン著『トランスカウカシア』英訳三五五頁)。一八三九年死んだ北インド王ラン
前へ 次へ
全16ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング