ジットシンは呪言を書いた宝石を右臂の皮下に納めおったので、百事思うままに遂げたというは人造如意珠すなわち能作生珠だろう(フォンフュゲル『|迦※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、205−2]弥羅および西克王国遊記《カシュミル・ウント・ダス・ライヒ・デル・シエク》』巻三、頁三八二)、『大智度論』に竜象獅鷲の頭に赤玉あり、欧州で蛇王バリシスク宝冠を戴き(ブラウン『俗説弁惑《プセウドドキシア・エピデミカ》』三巻七章ウィルキン注)、蟾蜍《ひきがえる》の頭に魔法と医療上神効ありてふ蟾蜍石《ブフォニット》ありなど(一七七六年版ペンナント『英国動物学《ブリチシュ・ゾオロジー》』三巻五頁)多く言ったは、交通不便の世に宝玉真珠等の出処を知らぬ民が、貴人の頭上に宝冠を戴くごとく希有《けう》の動物の頭にかかる貴重物を授くと信じたからで、後世その出処がほぼ分ってもなお極めて高価な物は竜蛇の頭より出ると信じたのであろう。
右様に竜が戦いに負けて人に救いを求めた話が少なからぬに、馬琴はその『質屋庫』三にそれらを看過して一言せず、湖の竜が秀郷の助力を乞うた譚をただただ唐の将武が象に頼まれて巴蛇《うわばみ》を殺し象牙を多く礼に貰うて大いに富んだてふ話を作り替えたものと断じたは手脱《てぬか》りだ(馬琴が言うた通り巴蛇象を食い三年して骨を出すと『山海経《せんがいきょう》』にあれば古く支那で言うた事で、ローマのプリニウスの『博物志《ヒストリア・ナチュラリス》』八巻十一章にも、インドの大竜大象と闘うてこれを捲き殺し地に僵《たお》るる重量で竜も潰《つぶ》れ死すと見ゆ)、『質屋庫』より数年前に成った伴蒿蹊《ばんこうけい》の『閑田次筆《かんでんじひつ》』二やそれより七十年前出来た寒川辰清《さむかわたつきよ》の『近江輿地誌略』十一に引いた通り、『古事談』に次の話あれば勇士が竜を助けて鐘を得た話は鎌倉幕府の代既にあったのだ。その文を蒿蹊が和らげたままに概略を写すとこうだ。三井寺の鐘は竜宮より来た、時代分らず昔粟津の冠者てふ勇士一堂を建つるため鉄を求めて出雲に下る、海を渡る間大風|俄《にわか》に船を覆《くつがえ》さんとし乗船の輩泣き叫ぶ、爾時《そのとき》小童小船一艘を漕ぎ来り冠者に乗れという、その心を得ねどいうままに乗り移ると風浪|忽《たちま》ちやむ、本船はここに待つべしと示し小船海底に入りて竜宮に到る、竜宮の殿閣奇麗言うべからず、竜王出会いて語《いえ》らく、従類多く讐敵に亡ぼされ今日また害せらるべし、因って迎え申したから時至れば一矢射たまえと乞う、諾《うべな》いて楼に上って待つと敵の大蛇あまたの眷属《けんぞく》を率いて出で来るを向う様《ざま》に鏑矢《かぶらや》にて口中に射入れ舌根を射切って喉下に射出す、大蛇退き帰るところを追い様にまた中ほどを射た、竜王出でて恩を謝し何でも願いの品を進《まいら》すべしという、冠者鐘を鋳んと苦辛する状《さま》をいうと、竜王甚だ易《やす》き事とて竜宮寺に釣るところの鐘を下ろして与う、粟津に帰り一所に掲げ堂を建つ、広江寺これなり、時移ってかの寺破壊の後わずかに住持の僧一人鐘の主たりしが、藤原清衡砂金千両を三井寺僧千人に施す、その時、三綱某五十人の分を乞い集め五十両を広江寺の法師に与う、法師悦んでかの鐘を売り三井寺に釣る、広江寺は叡山の末寺なれば衆徒この事を洩《も》れ聞いて件《くだん》の鐘主の法師を搦《から》め日あらず湖に沈めたとある、誠に『太平記』の秀郷竜宮入りはこの粟津冠者の譚から出たのだ、さて秀郷竜王を助けた礼に俵米巻絹ともに取り用いて尽きざるを貰うたというた原話は『今昔物語』十六の第十五語だ。概略を述べると今は昔京に年若き男貧しくて世を過すに便なかりしが、毎月十八日に持斎して観音に仕え百寺に詣る事年来なり、ある年九月十八日に例のごとく寺々に詣るに南|山階《やましな》辺へ行く道の山深き所で五十ばかりなる男一尺ばかりなる小蛇を杖の先に懸け行くを見子細を尋ぬると、われは年来|如意《にょい》と申す物を造るため牛角を伸ぶるにかかる小蛇の油を取ってするなり、若き男その如意は何にすると問うた、知れた事だお飯《まんま》と衣のために売るのだと答う、若き男小蛇を愍《あわれ》み種々押問答の末ようやく納得させ、自分の着たる綿衣に替えて小蛇を受け、この蛇は何処《どこ》に在ったかと問いかの小池に持ち行き放ち、さて寺へ行こうと二町ほど過ぎると十二、三ばかりの女形美なるが微妙の衣袴を着たるに逢う、その女いわくわが父母君がわが命を助けくれた恩を謝せんとて迎えにわれを使わしたとて池の方へ伴《つ》れて行き、暫《しばら》く待ちたまえとてたちまち失《う》せぬ、さて出て来て暫く眼を閉じよという、教えのままに眠入《ねい》ると思うほどに目を開けという、目を開けて見れば微妙《めでた》く飭《かざ》った門あり、また暫く待って七宝で飾った宮殿を過ぎて極楽ごとき中殿に到る、六十ばかりの人微妙に身を荘《かざ》り出で来り、強いてかの男を微妙《いみじ》き帳床に坐らせ、己れは子あまたある末子なる女童この昼渡り近き池に遊ぶを制すれど聴かず、そのまま遊ばせ人に取られて死ぬべかりしを其《そこ》に来合せ命を助けたもうとこの女子に聞いた嬉しさに謝恩のため迎え申したと言って、何とも知れぬ旨《うま》い物を食わす、さて主人いわく己は竜王なり、今度《このたび》の酬《むくい》に如意の珠を進ぜんと思えど、日本人は心|悪《あ》しくて持ちたまわん事難し、因ってかの箱をというて取り寄せ開くと中に金の餅一つあり厚さ二寸ばかり、それを取り出して中より破って片破《かたわ》れを箱に入れ今一つの片破れを男に与えて、これを一度に仕《つか》わず要に随うて片端より破って仕いたまわば一生涯乏しき事あらじという、男これを懐にして今は返ろうと言うに、前《さき》の女子来て例の門に将《つ》れ出で眠らせて池辺に送り出し重ね重ね礼を述べて消え失せた、家に帰れば暫《しば》しと思う間に数日経ていた、この事を人に語らずこの金の餅の片破れを破れども破れども元のように殖《ふ》えて尽きず、入要の物に替えければ万《よろず》の物豊かに極めたる富人として一生観音に仕えたが己れ一代の後はその金餅失せて子に伝わらなんだという。芳賀博士の『考証今昔物語集』にこの話を挙げた末に巻三の十一条および浦島子伝を参閲せよとあるが、浦島子の事は誰も御承知で、『今昔物語』三の十一語は迦毘羅衛《かびらえ》の釈種《しゃくしゅ》滅絶の時、残った一人が流浪して竜池辺で困睡する所へ竜女来り見てこれを愛し夫とし、竜女の父竜王の謀《はかりごと》で妙好|白氈《はくせん》に剣を包んで烏仗那《うじゃな》国王に献じ、因って剣を操りて王を刺し代って王となり竜女を後と立てた談《はなし》で両《ふたつ》ながら本話に縁が甚だ遠い。また考証本にこの竜女を救うてその父から金餅を得た話の出処を挙げおらぬが、予は二十年ほど前に見出し置いたから出さんに、東晋の仏陀|跋※[#「足へん+它」、第3水準1−92−33]羅《ばーどら》と法顕共に訳せる『摩訶僧祇律』三十二にいわく、仏舎衛城に在《いま》す時、南方|一邑《あるむら》の商人八牛を駆って北方|倶※[#「口+多」、第3水準1−15−2]《くしゃ》国に到り沢中に放ち草を食わしむ、時に離車種の者竜を捕り食うが一竜女を捕えた、この竜女|布薩法《ふさつほう》を受けたれば殺心なく、鼻に穴開け縄を通して牽《ひ》かれ行く、商人竜女の美貌を見て慈心を起しとあるが、全体竜女は婉妍人間婦女の比にあらず、今もインドで男子をして魂飛び魄散ぜしむるほどの別嬪を竜女と称うる(エントホヴェンの『グジャラット民俗記』一四三頁)くらい故、この商人も慈心も起せばほ[#「ほ」に白丸傍点]の字でもありやしたろう、この商人離車に一牛を遣るからその竜女を放てというも聴かず、因って種々|糶《せ》り上げて八牛で相談調い竜女を放った、商人こんな悪人はまた竜女を取るも知れぬと心配して、その行く方へ随って行くと一《ある》池の辺で竜が人身に変じ商人に活命の報恩にわが宮へ御伴《おとも》しようと言う、商人いわく汝ら竜の性卒暴、瞋恚《しんい》常なし、我を殺すかも知れぬから御伴は真《ま》ッ平《ぴら》と、竜女いわくわが力|能《よ》くかの離車を殺すも我布薩法を受けた故殺さなんだ、いわんや活命の大恩ある人を殺すべきや、少しく待ちたまえといってまず入り去った、この辺竜宮の門あり、二竜を繋《つな》げり、商人その訳を問うと答うらく、この竜女半月中三日斎法を受く、わが兄弟二人この竜女を守る事堅固ならず、離車に捕わるるに及んだで繋がれいる、何卒《なにとぞ》救い助けたまえ、一体竜宮の飲食に種々ある、一度食うて一生懸って消化するもあり、二十年で消化するも七年でするもあれば、閻浮提《えんぶだい》人間の食もある、君もし宮に入って何に致しましょうと馳走の献立を伺われたら、閻浮提人間の食を望みたまえと、問わぬ事まで教えくれた、ところへ竜女来って商人を呼び入れ宝牀褥上に坐らせ何の食を食わんと欲するかと問うので、閻浮提人間の食を望んだ、すると竜女種々の珍饌を持ち来りさあお一つと来《く》る、商人今ここへ来る門辺に竜二疋繋がれあったが何の訳ぞと問うに、そんな事は問わずに召し上がれという、余りに問い返すので余儀なく彼は過ちある故殺そうと思うと答う、商人汝彼ら殺さずばわれ食事せん、釈《ゆる》さぬ内は一切馳走を受けぬと言い張ったので竜女も我を折り、直様《すぐさま》釈す事はならぬが六ヶ月間人間界へ擯出しようと言ってやがてかの二竜を竜宮から追い出した、商人竜宮を見るに種々の宝もて宮殿を荘厳す、商人汝かく快楽多きに何のために布薩法を受くるかと問うと、我々竜に五事の苦しみあり、生まるる時、眠る時、婬する時、瞋《いか》る時、死ぬ時、本身を隠し得ず、また一日のうち三度皮肉地に落ち熱沙身を暴《さら》すと答う、何が一番竜の望みかと問うと、畜生道中正法を知らぬ故人間道に生まれたいと答う、もし人間に生まれたら何らを求むるかと問うと、出家が望みと答う、出家を誰に就《つ》いてすべきかと問うと、如来|応供《おうぐ》正※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]知、今舎衛城にあって、未度の者を度し未脱の者を脱したもう、君も就いて出家すべしと勧めたのでしからば還ろうと言うと、竜女彼に八|餅金《へいきん》を与え、これは竜金なり、君の父母|眷属《けんぞく》を足《みた》す、終身用いて尽きじと言い眼を閉じしめて神変もて本国に送り届けた、宅では商人の行伴《つれ》来りてこの家の子は竜宮へ往ってしもうたと報《しら》せたので、眷属宗親一処に聚《あつ》まり悲しみ啼《な》く、ところへまたかの者生きて還ったと告ぐる者あり、一同大歓喜で出迎え家に入って祝宴を張った、席上かの八餅金を出して父母に与え、これは竜金で截《き》り取って更に生じ一生用いて尽きず、これを以て楽《らく》に世を過されよ、ただ願わくは父母我に出家を聴《ゆる》せと望み、父母放たざるを引き放ちて祇※[#「さんずい+亘」、第3水準1−86−69]精舎《ぎおんしょうじゃ》に詣り出家したそうじゃ、竜女が殺さるるところを救うたのも、竜宮へ迎えて珍饌で饗応されたのも、殊に餅金を受けて用いれども尽きなんだ諸点が合うて居るから、『今昔物語』の話は北インドの仏説から出たに相違なく、『近江輿地誌略』三九秀郷竜宮より得た十宝中に砂金袋を列せるは、たまたま件《くだん》の餅金を得た仏話が秀郷竜宮入譚の幾分の原話たる痕《あと》を存す、『曼陀羅秘抄』胎蔵界の観音院に不空羂索《ふくうけんじゃく》あり、『仏像|図彙《ずい》』に不空羂索は七観音の一なり、南天竺の菩提流支が唐の代に訳した『不空羂索神変真言経』にこの菩薩の真言を持して竜宮に入りて如意宝珠を竜女より取り、また竜女を苦しめて涙を取り飲んで神通と長寿を得、竜女の髪を採りて身体に繋《か》け、一切天竜羅刹等を服従せしむる等の法を載す、上引の『今昔物語』の文に竜の油を以て如意を延ばすとあるは、この話の主人公たる若者が観音に仕えたとあるに因み、七観音の一
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