じはじめて息《や》む、今周廻|寛《ひろ》さ畝《ほ》ばかりなるべし、水|清※[#「轍」の「車」に代えて「さんずい」、第3水準1−87−15]《せいてつ》にして涸れず〉とあれば、支那でも地陥《じすべ》りと蛟と螺を相関わるものとしたのでその訳を一法螺吹こう。インド人サラグラマを尊んで韋紐《ヴィシュニュ》の化身とし蛇また前陰の相とす、これは漢名石蛇で、実は烏賊《いか》や航魚《たこぶね》とともに頭足軟体動物《ケファロポタ》たるアンモナイツの多種の化石で、科学上法螺と大分違うが外相はやはり螺類だ、その状蛇や蛟が巻いた像に似居る故これを蛇や蛟の化身と見て地陥りは蛇や蛟の化身たる螺の所為と信じたものか、サラグラマは仏典に螺石と訳し(『毘奈耶破僧事』十一)一の珍宝としあり、鶴岡八幡宮神宝の弁財天蛇然の自然石なるを錦の袋に入れて内陣にあり(『新編鎌倉志』一)というもこれか。近時化石学上の発見甚だ多きに伴《つ》れて過去世に地上に住んだ大爬虫遺骸の発見夥しく竜談の根本と見るべきものすこぶる多い。しかし今とても竜の画のような動物は前述鱗蛇、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]飛竜などのほかにも世界に乏しからぬ。したがって亡友カービー氏等が主張した、過去世に人間の遠祖が当身《そのみ》巨大怪異の爬虫輩の強梁跋扈《きょうりょうばっこ》に逢った事実を幾千代後の今に語り伝えて茫乎《ぼうこ》影のごとく吾人の記憶に存するものが竜であるという説のみでは受け取れず、予はかかる仏家の宿命通説のような曖昧な論よりは、竜は今日も多少実在する※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]等の虚張《こちょう》談に、蛇崇拝の余波や竜巻地陥り等諸天象地妖に対する恐怖や、過去世動物の化石の誤察等を堆《つ》み重ねて発達した想像動物なりというを正しと惟《おも》う。
 竜譚の発達に最も力を添えたは海蛇譚で、海蛇の事は予在外中数度『ネーチュル』その他でその起原を論戦したが、事すこぶる煩わしいからここには略して竜譚に関する分だけを述べよう。『玉葉』四十に寿永三年正月元日伊勢怪異の由を源義仲の注進せる内に、元日の夜大風雨雷鳴|真虫《まむし》蛇打ち寄せられ津々に藻に纏われてあるいは二、三石あるいは四、五石(石は百か)皆生きあり、両三日を経て紛失しおえぬ、およそ昔も今も真虫海より打ち上げらるる事は伊勢国に候《そうら》わず、件《くだん》の蛇海より来り寄す云々と見ゆ。これすなわち海蛇で鰻様に横|扁《ひらた》き尾を具え海中に限って住むがインド洋太平洋とその近海に限る、およそ五十種あり(第六図)。知人英学士会員ブーランゼー方で見たはインド洋産七、八フィートあった、熊野で時々取るを予自ら飼い試みるにブーランゼー始め西人の説に誤謬多し、そのうち一論を出し吹き飛ばしてくれよう。『唐大和尚東征伝』や蘭人リンスコテンの『東印度紀行《ヴォヤージュ・エス・アンドリアンタル》』(一六三八年アムステルダム版、一二二頁)を見ると、昔はアジアの南海諸処に鑑真のいわゆる蛇海すなわち海蛇夥しく群れ居る所があったらしい、『アラビヤ夜譚』のブルキア漂流記に海島竜女王|住処《すみか》を蛇多く守るといい、『賢愚因縁経』に大施が竜宮に趣く海上無数の毒蛇を見たとあり、『正法念処経』に〈熱水海毒蛇多し、毒蛇気の故に海水をして熱せしめ一衆生あるなし、蛇毒を以《もちい》る故に衆生皆死す〉と見ゆる、海蛇はいずれも毒牙を持つからの言《こと》だ、これら実在のものと別に西洋には古来海中に絶大の蛇ありと信ずる者多く、近年も諸大洋で見たと報ずる人少なからず、古インドに勇士ケレサスバ海蛇を島と心得その脊《せ》で火を焼く、熱さに驚き蛇動いて勇士を顛倒したと言い、十六世紀にオラウスが記したスウェーデンの海蛇は長《たけ》二百フィート周二十フィート、牛豕羊を食いまた檣《ほばしら》のごとく海上に起《た》ちて船客を捉え去ったといい、明治九年頃チリ辺の洋中で小鯨二疋一度に捲き込んだ由その頃の新聞で見た。『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』十一版二十四巻にかかる大海蛇譚の原因は海豚《いるか》や海鳥や鮫や海狗や海藻が長く続いて順次起伏して浮き游《およ》ぐを見誤ったか、また大きな細長い魚や大烏賊を誤り観《み》たか、過去世に盛えた大爬虫プレシオサウルスの残党が今も遠洋に潜み居るだろうと論じ居る。『甲子夜話』二十六に年一、二度佐渡より越後へ鹿が渡海するに先游ぐもの頸《くび》と脊のみ見え、後なるはその頷を前の鹿の尾の上に擡《もた》げて游ぎ数十続く、遠望には大竜海を游ぐのごとく見ゆとある、今も熊野の漁夫海上に何故と知らず巨※[#「魚+賁」、第4水準2−93−84]《おおえび》などの魚群無数続き游ぎ、船坐るかと怖れ遁《に》げ帰る事ありとか、またホーズと呼ぶ長大の動物尾も頭も知れず連日游ぎ過ぐるに際限を見ず、因って見込みの付かぬをホーズもない事というと聞く、かかる物実際存否の論は措《お》いてとにかく西洋に大海蛇の譚あるようにインドや支那で洋海に大竜棲むとし海底に竜宮ありと信ずるに及んだのだ、また俗に竜宮と呼ぶ蜃気楼も蜃の所為とした、蜃は蛇のようで大きく腰以下の鱗ことごとく逆に生えるとも、※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]竜《あまりょう》に似て耳角あり背鬣紅色とも、蛟に似て足なしともありて一定せず、蜃気楼は海にも陸にも現ずる故|最寄《もより》最寄で見た変な動物をその興行主が伝えたので、蜃が気を吐いて楼台等を空中に顕わすを見て飛び疲れた鳥が息《やす》みに来るを吸い落して食うというたのだ(『類函』四三八)。また月令季秋雀大水に入って蛤《はまぐり》となり孟冬《もうとう》雉大水に入って蜃となる、この蜃は蛤の大きなものだ、欧州中古|石※[#「虫+劫」、第4水準2−87−51]《かめのて》が鳧《かも》になると信じわが邦で千鳥が鳥貝や玉※[#「王+兆」、第4水準2−80−73]《たいらぎ》に化すと言うごとく蛤類の肉が鳥形にやや似居るから生じた迷説だが、邦俗専ら蜃をこの第二義に解し蛤が夢を見るような画を蜃気楼すなわち竜宮と見るが普通だ。
[#「第6図」のキャプション付きの図(fig1916_06.png)入る]
 インド、アラビア、東南欧、ペルシア等に竜蛇が伏蔵を守る話すこぶる多い、伏蔵とは英語でヒッズン・トレジュァー、地下に匿《かく》しある財宝で、わが邦の発掘物としては曲玉や銅剣位が関の山だが、あっちのは金銀宝玉金剛石その他|最《いと》高価の珍品が夥しく埋まれあるから、これを掘り中《あ》てた者が驟《にわ》かに富んで発狂するさえ少なからず、伏蔵探索専門の人もこれを見中てる方術秘伝も多い。『起世因本経』二に転輪聖王《てんりんじょうおう》世に出《い》づれば主蔵臣宝出でてこれに仕う、この者天眼を得地中を洞《とお》し見て有王無王主一切の伏蔵を識《し》るとあるから、よほど古くより梵土で伏蔵を掘って国庫を満たす事が行われたので、『大乗大悲分陀利経』には〈諸大竜王伏蔵を開示す、伏蔵現ずる故、世に珍宝|饒《おお》し〉という。前文に述べた通り伏蔵ある地窖《あなぐら》や廃墟や沼沢には蛇や蜥蜴類が多く住み、甚だしきは※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を蓄《か》って宝を守らせた池もある故、自然とこれらの動物をあるいは神物あるいは吝人が死後竜蛇になって隠財を守ると信じたのだ、さてかの国々の蛇は大抵水辺を好み沙漠に棲むものまでも時に湖に游ぐ事あり(バルフォル『印度事彙』三巻五七四頁)、予が毒竜の現物と上に述べた鱗蛇は在インドの英人これを水蜥蜴と通称するほど水辺を好み、蛟竜の本品たる※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]が水に住むは知れ切ったところだ、かつ伏蔵もとより地下に限らず沼沢中に存するも多き故竜を以て地下また水中の伏蔵主とししたがって財宝充満金玉荘厳せる竜宮が地下と水中にありとしたのだ、ヒンズ教に地下に七住処ありて夜叉《やしゃ》、羅刹《らせつ》等住み最下第七処パタラに多頭《ヴァスキ》竜王諸竜を総《す》べて住むというは地底竜宮で『施設論』六に〈山下竜宮あれば、樹草多きに及ぶ、山下竜宮なかれば、樹草少なきに及ぶ〉とあり、水中の竜宮は有名な無熱池を始め河湖泉井までもすこぶる例多く秀郷が往ったのも琵琶湖底にあったのだ。『出曜経』八に無厭足とて名から大強慾な竜王が己を祀《まつ》りて富を求むる婆羅門を使い富家の財をことごとく地下に没入せしに、富家の主人竜泉に至りわが財宝は正道もて獲たればみだりに竜に取らるべきにあらずとて、金を泉に投ずるに水皆湧き熱し竜王懼れ金を出して皆|還《かえ》したとあり。『続古事談』四に「祇園社の宝殿の中には竜穴ありといふ、延久の焼亡の時梨本の座主《ざす》その深さを量らむとせしに五十丈に及んでなほ底なしとぞ」、これらで見ると地底に水あまねくことごとく海に通ずれば井泉河湖に住む小中竜王の大親分たる大竜王は大海に住み、大海底の竜宮の宏麗《こうれい》泉河湖沼のものに比して格別なる事既に経文より引いたごとく、これ陸地諸水がついに海に入るごとく陸地諸宝も必ず海に帰すとした上、船で運ぶ無量の珍宝財宝が難破のため多く海に沈むからの見解で、近い話は前日八阪丸とともに没した莫大の金額も古人なら竜宮を賑《にぎ》わし居ると信じたはずだ、わが邦の弟橘媛《おとたちばなひめ》古英国のギリアズンなど最愛の夫を救わんと海に入ったすら多く、仏書に風波を静めんとて命よりも尊んだ仏舎利や経文を沈めた譚も少なからず、アフリカのギニアの浜へ船久しく著《つ》かぬ時その民一切の所有品を海に抛げ込んでその神に祈り、ために神官にくれる物一つもなくなる故神官余りかかる大祈祷を好まなんだ由(ピンカートン『航海旅行記全集《ゼネラルコレクション・オヴ・ヴォエイジス・エンド・トラヴェルス》』十六巻五〇〇頁)。されば竜宮に永年積んだ財宝は無量で壇の浦に沈んだ多くの佳嬪らが竜王に寵せられて竜種改良と来るから、嬋娟《せんけん》たる竜女が人を魅殺した話多きも尤もだ、竜宮に財多しというが転じて海に竜王住む故大海に無量の宝ありと『施設論』など仏書に多く見ゆ。
 また鮫《ふか》類にもその形竜蛇に似たるが多く、これも海中に竜ありてふ信念を増し進めた事疑いなし、梵名マカラ、内典に摩竭魚と訳す、その餌を捉《と》るに黠智《かつち》神のごとき故アフリカや太平洋諸島で殊に崇拝し、熊野の古老は夷神はその実鮫を祀りて鰹《かつお》等を浜へ追い来るを祈るに基づくと言い、オランラウト人は鮫と※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を兄弟とす、予の鮫崇拝論は近い内『人類学雑誌』へ出すが、少分《すこし》は六年前七月の同誌に載せた「本邦における動物崇拝」なる拙文に書き置いたからそれに譲るとして、竜と鮫の関係につきここに述ぶるは、上に言うた通りわが邦でタツというはもと竜巻を指した名らしく外国思想入りて後こそ『書紀』二十六、斉明《さいめい》天皇元年〈五月《さつき》の庚午《かのえうま》の朔《ついたちのひ》、空中《おおぞらのなか》にして竜に乗れる者あり、貌《かたち》唐人《もろこしびと》に似たり、青き油《あぶらぎぬ》の笠を着て云々〉など出でたれ、神代には支那の竜と同じものはなかったらしい、『書紀』二に豊玉姫《とよたまひめ》産む時夫|彦火々出見尊《ひこほほでみのみこと》約に負《そむ》き覘《うかが》いたもうと豊玉姫産にあたり竜に化《な》りあったと記されたが、異伝を挙げて〈時に豊玉姫|八尋《やひろ》の大熊鰐《わに》に化為《な》りて、匍匐《は》い逶※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]《もごよ》う。遂に辱められたるを以て恨《うらめ》しとなす〉とあり、『古事記』には〈その産に方《あた》っては八尋の和邇《わに》と化りて匍匐い逶蛇《もこよ》う〉とあり、その前文に〈すべて佗国《あだしくに》の人は産に臨める時、本国《もとつくに》の形を以て産生《う》む、故に妾今もとの身を以て産を為《な》す、願わ
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