」、第3水準1−94−55]その身にかつて※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くろ》うた人の魂を蔵《かく》すという(レオナード『下《ラワル》ニゲル|およびその諸民族《エンド・イツ・トライブス》』)。ボルネオには虎と※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を尊び、各その後胤《こういん》と称し、これを盾に画く者あり(ラツェル『人類史《ヒストリー・オヴ・マンカインド》』)。
 これらの諸伝説迷信はいずれも多少竜にも附存す。レオ・アフリカヌスがナイル河の※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]、カイロ府より上に住むは人を殺し、下に住むは人を捉《と》らずといえるも、竜に善性と兇悪あるてふに似たり。昔ルソンで偽って誓文した者※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]に食わるとし(一八九〇年版アントニオ・デ・モルガ『菲列賓諸島誌《スセソス・デ・ラス・イスラス・フィリピナス》』二七三頁)、一六八三年版マリア法師の『東方遊記《イル・ヴィアジオ・オリエンタリ》』四一五頁にいう、マラバルの証真寺に池あり、多く※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を養い人肉を与う。これを証真寺というは、疑獄の真偽を糾《ただ》さんため本人を池に投ずるに、その言真なれば※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]これを免《ゆる》し偽なれば必ず※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]う。偽言の輩僧に賄賂して呪《まじない》もて※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を制し己《おのれ》を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《く》わざらしむと。『南史』にも、今の後インドにあった扶南国で※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を城溝に養い、罪人あらば与うるに、三日まで食わねば無罪として放免すと見ゆ。デンネットの『フィオート民俗記』に、コンゴ河辺に※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]に化けて船を覆《かえ》し、乗客を執《とら》え売り飛ばす人ありといえるは、目蓮等が神通で竜に化した仏説に似たり。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の梵名種々ありて数種皆各名を別にするらしいが、予は詳しく知らぬ。その内クムビラてふはヒンズ語でクムヒル、英語でガリアル、またガヴィアルとて現存※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]群中最も大きく、身長二十五フィートに達し、ガンジス、インダス河より北インドの諸大河に棲み、喙《くちばし》細長く尾の鼻端大いに膨れ起り、最も漢画の竜に似たり。
 マルコ・ポロの紀行に、宋帝占うて百の眼ある敵将にあらずんば、宋を亡ぼし得ずと知ったところ、元将|伯顔《バヤン》の名が、百眼と同音で、宋を亡ぼしたとある。これは確か『輟耕録』にも見えいた。ここをユール注して、近世も似た事あり、インドの讖語《しんご》にバートプールの砦は大※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]にあらざれば陥れ能わずと言うた。さて砦が英軍に取られて梵志がはて面妖なと考えると、英軍の主将名はコムベルメールで、これに近いヒンズ詞《ことば》クムヒル・メールは※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]君の意だから讖語が中《あた》ったと恐れ入ったと書いた。そのクムヒルの原語クムビラの音訳が薬師の十二神将の宮毘羅《くびら》、仏の大弟子の金毘羅比丘《こんぴらびく》、讃岐に鎮座して賽銭を多く占《せしめ》る金毘羅大権現等で、仏典には多く蛟竜と訳し居る。
 支那で古く蛟と呼んだは『呂覧』に、※[#「にんべん+次」、第4水準2−1−42]飛《しひ》宝剣を得て江を渉る時二蛟その船を夾《はさ》み繞《めぐ》ったので、飛江に入って蛟を刺し殺す。『博物志』に孔子の弟子|澹台滅明《たんだいめつめい》璧《たま》を持って河を渡る時、河伯その璧を欲し二蛟をして船を夾ましむ。滅明左に璧右に剣を操って蛟を撃ち殺し、さてこんな目腐り璧はくれてやろうと三度投げ込んだ。河伯も気の毒かつその短気に恐縮し三度まで投げ帰したので、一旦《いったん》見切った物を取り納むるような男じゃねーぞと滅明滅多無性に力《りき》み散らし、璧を毀《こわ》して去ったと出づ。その頃右|体《てい》の法螺談《ほらばなし》大流行と見え、『呉越春秋』には椒丘※[#「言+斤」、第3水準1−92−1]《しょうきゅうきん》淮津《わいしん》を渡って津吏の止むるを聴かず、馬に津水を飲ます。津水の神果して馬を取ったので、※[#「言+斤」、第3水準1−92−1]|袒裼《たんせき》剣を持って水に入り、連日神と決戦して眇《すがめ》となり勝負付かず、呉に之《ゆ》きて友人を訪《たず》ねるとちょうど死んだところで、その葬喪の席で神と闘って勝負|預《あず》かりの一件を自慢し語ったとは無鉄砲な男だ。その席に要離《ようり》なる者あって、勇士とは日と戦うに表《かげ》を移さず、神鬼と戦うに踵《きびす》を旋《めぐ》らさずと聞くに、汝は神に馬を取られ、また片目にまでされて高名らしく吹聴《ふいちょう》とは片腹痛いと笑うたので、※[#「言+斤」、第3水準1−92−1]大いに怒り、その宅へ押し寄ると、要離平気で門を閉じず、放髪|僵臥《きょうが》懼《おそ》るるところなく、更に※[#「言+斤」、第3水準1−92−1]を諭《さと》したのでその大勇に心服したとある。その後曹操が十歳で※[#「言+焦」、第3水準1−92−19]水《しょうすい》に浴して蛟を撃ち退け、後人が大蛇に逢うて奔るを見て、われ蛟に撃たれて懼れざるに彼は蛇を見て畏ると笑うた。また晋の周処|少《わか》い時乱暴で、義興水中の蛟と山中の虎と併せて三横と称せらるるを恥じ、まず虎を殺し次に蛟を撃った。あるいは浮かびあるいは沈み数千里行くを、処三日三夜|随《つ》れ行き殺して出で、自ら行いを改めて忠行もて顕《あらわ》れたという。
 これらいずれも大河に住んでよほど大きな爬虫らしいから※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の事であろう。支那の※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は只今アリガトル・シネンシスとクロコジルス・ポロススと二種知れいるが、地方により、多少の変種もあるべく、また古《いにしえ》ありて今絶えたもあろう。それを※[#「(口+口)/田/一/黽」、189−4]竜《だりょう》、蛟竜また※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と別ちて名づけたを、追々種数も減少して今は古ほどしばしば見ずなり、したがって本来奇怪だった竜や蛟の話がますます誇大かつ混雑に及んだなるべし。いわんや仏経入りてより、帽蛇《コブラ》や鱗蛇を竜とするインド説も混入したから、竜王竜宮その他種々数え切れぬほど竜譚が多くなったと知る。

     竜の起原と発達(続き)

 上に引いたフィリップ氏の言葉通り、今の世界に絶迹《ぜっせき》たる過去世期の諸爬虫の遺骸化石が竜てふ[#「てふ」に「〔という〕」の注記]想念を大いに助長したは疑いを容《い》れず。『類函』四三七に〈『拾遺記』に曰く、方丈の山東に竜場あり、竜皮骨あり、山阜《さんぷ》のごとし、百|頃《けい》に散ず、その蛻骨の時に遇えば生竜のごとし、あるいはいわく竜常にこの処に闘う、膏血《こうけつ》流水のごとしと。『述異記』に曰く、普寧県に竜葬の洲《す》あり、父老いう竜この洲において蛻骨す、その水今なお竜骨多し、按ずるに山阜|岡岫《こうしゅう》、竜雲雨を興すもの皆竜骨あり、あるいは深くあるいは浅く多く土中にあり、歯角脊足|宛然《さながら》皆具う、大なるは数十丈、あるいは十丈に盈《み》つ、小さきはわずかに一、二尺、あるいは三、四寸、体皆具わる、かつて因って采《と》り取《あつ》めこれを見る、また曰く冀州|鵠山《こくさん》に伝う、竜千年すなわち山中において蛻骨す、今竜岡あり、岡中竜脳を出す〉。件《くだん》の竜葬洲は今日古巨獣の化石多く出す南濠州の泥湖様の処で、竜が雲雨を興す所皆竜骨ありとは、偉大の化石動物多き地を毎度風雨で洗い落して夥しく化石を露出するを竜が骨を蛻《ぬぎか》え風雨を起して去ると信じたので、原因と結果を転倒した誤解じゃ、『拾遺記』や『述異記』は法螺《ほら》ばかりの書と心得た人多いが、この記事などは実話たる事疑いなし、わが邦にも『雲根志《うんこんし》』に宝暦六年美濃巨勢村の山雨のために大崩れし、方一丈ばかりな竜の首半ば開いた口へ五、六人も入り得べきが現われ、枝ある角二つ生え歯黒く光り大きさ飯器のごとし、近村の百姓怖れて近づかず耕作する者なし、翌々年一、二ヶ村言い合せ斧鍬など携えて恐る恐る往き見れば石なり、因って打ち砕く、その歯二枚を見るに石にして実に歯なり、その地を掘れば巨大なる骨様の白石多く出《い》づと三宅某の直話《じきわ》を載せ居る、古来支那で竜骨というもの爬虫類に限らず、もとより化石学の素養もなき者が犀象その他偉大な遺骨をすべてかく呼ぶので(バルフォール『印度事彙』一巻九七八頁)、讃岐小豆島の竜骨は牛属の骨化石と聞いた。つい前月も宜昌附近にかかる化石が顕われて、天が袁皇帝に竜瑞を降したと吹聴された、山本亡羊の『百品考』に引いた『荒政輯要』には月令に〈季夏漁師に命じて蛟を伐つ、鄭氏いわく蛟を伐つと言うはその兵衛あるを以てなり〉とあるを解くとて、蛟は雉と蛇と交わり産んでその卵大きさ輪のごときが埋まりある上に、冬雪積まず夏苗長ぜず鳥雀|巣《すく》わず、星夜|視《み》れば黒気天に上る、蛟|孵《かえ》る時|蝉《せみ》また酔人のごとき声し雷声を聞きて天に上る、いわゆる山鳴は蛟鳴で蛟出づれば地崩れ水害起るとてこれを防ぐ法種々述べおり、月令に毎夏兵を以て蛟を囲み伐つ由あるは周の頃土地開けず文武周公の御手もと近く※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》が人畜を害う事しきりだったので、漢代すでにかかる定例の※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]狩りはなくなった故|鄭《てい》氏が注釈を加えたのだ。それより後は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]ますます少なくなって蛟とは専ら地下の爬虫孵り出る時地崩れ水|湧《わ》き出るを指《さ》す名となったので、その原由は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]が蟄居より出で来るよりも主として雷雨の際土崩れ水出で異様の骨骸化石を露わすにあっただろう、『和漢三才図会』四七、〈およそ地震にあらずして山岳|暴《にわか》に崩れ裂くるものあり、相伝えていわく宝螺跳り出でて然《しか》るなり〉。『東海道名所記』三、遠州今切の渡し昔は山続きの陸地なりしが百余年ばかり前に山中より螺貝《ほらがい》夥しく抜け出で海へ躍《と》び入り、跡|殊《こと》のほか崩れて荒井の浜より一つに海になりたる事、唐土の華山より大亀出でし跡池となり田畠に灌《そそ》ぎしごとしと載す、予の現住地紀州田辺近き堅田浦《かただのうら》に古《いにしえ》陥れると覚ぼしき洞窟の天井なきような谷穴多く(方言ホラ)小螺の化石多し、土伝に昔ノーヅツ(上述|野槌《のづち》か)ここに棲み長《たけ》五、六尺太さ面桶《めんつう》ほどで、頭と体と直角を成して槌のごとく、急に落ち下りて人々を咬《か》んだといい今も恐れて入らず、これ支那の蛟の原由同然かかる動物の化石出でしを訛伝したらしい、小螺化石多く出るから小螺躍び出て地を崩したというはずのところノーヅツなる奇形化石に令名をしてやられて今もその谷穴をノーヅツと称う。ただし『類函』二六、〈福建の将楽県に蛟窟あり、相伝う昔小児あり渓傍の巨螺を見て拾い帰り、地に穴し瀦水《ちょすい》してこれを蓄え、いまだ日を竟《お》えざるにその地横に潰《つい》え水勢|洶々《きょうきょう》たり、民懼れ鉄を以てこれに投
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