邦でも昔は兎を八|竅《きょう》と見た物か、従来兎を鳥類と見做《みな》し、獣肉を忌む神にも供えまた家内で食うも忌まず、一疋二疋と数えず一羽二羽と呼んだ由、古ギリシアローマの学者またユダヤの学僧いずれも兎を両性を兼ねたものとしてしばしばこれを淫穢《いんえ》不浄の標識とした(ブラウン『俗説弁惑《プセウドドキシヤ・エピデミカ》』三巻十七章)。ブラウンいわくこれは兎の雌雄ともに陰具の傍《そば》に排泄物を出す特別の腺《せん》その状|睾丸《こうがん》ごときあり、また肛門の辺に前に述べた数孔あり、何がな珍説を出さんとする輩これを見て兎の雌に睾丸あり雄に牝戸ありとしたらしい。しかのみならず、兎の陰部|後《うしろ》に向い小便を後へ放つもこの誤説の原《もと》だったろうと。一七七二年版コルネリウス・ド・バウの『亜米利加土人の研究《ルシャーシュ・フィロソフィク・シェル・レー・アメリカン》[#ルビは「亜米利加土人の研究」にかかる]』巻二、頁九七には兎にも熟兎にも雌の吉舌《クリトリス》非常に長く陽物に酷似せるもの少なからず、これより兎は半男女《ふたなり》といい出したと出づ。支那にも似た事ありて『南山経』や『列子』に〈類自ら牝牡を為《な》す、食う者妬まず〉、類は『本草綱目』に霊狸《じゃこうねこ》の事とす。『嬉遊笑覧』九にいわく「『談往』に馮相詮という少年の事をいって『異物志』にいわく霊狸一体自ら陰陽を為す、故に能く人に媚ぶ皆天地不正の気云々」。これは霊狸の陰辺に霊狸香《シヴェット》を排泄する腺孔あるを見て牡の体に牝を兼ぬると謬《あやま》ったので古来|斑狼《ヒエーナ》が半男女だという説盛んに欧州やアフリカに行われたのも同じ事由と知らる。またブラウンは兎が既に孕んだ上へまた交会して孕み得る特質あるをその婬獣の名を博した一理由と説いたが、この事は兎が殖《ふ》えやすい訳としてアリストテレスやヘロドツスやプリニウスが夙《と》く述べた。それから『綱目』に〈『主物簿』いう孕環《ようかん》の兎は左腋に懐《いだ》く毛に文采あり、百五十年に至りて、環脳に転ず、能く形を隠すなり、王相の『雅述』にいわく兎は潦を以て鼈と為《な》り鼈は旱を以て兎と為る、※惑[#「※」は「勞」の中が「力」ではなく「火」、99−7]《けいわく》明らかならざればすなわち雉《ち》兎を生む〉と奇《あやし》い説を引き居る。『竹生島《ちくぶしま》』の謡曲に緑樹《りょくじゅ》影沈んで魚樹に登る景色あり月海上に浮かんでは兎も波を走るか面白の島の景色やとあるは『南畝莠言《なんぽいうげん》』上に拠ると建長寺僧自休が竹生島に題せる詩の五、六の句〈樹影沈んで魚樹に上り、清波月落ちて兎流れに奔《はし》る〉とあるを作り替えたのだ。予が見たところ兎を海へ追い込んだり急流に投げ込んだりすると直ぐに死んだので右の句はただ文飾語勢を主とした虚構と思っていたが、仏経に声聞《しょうもん》を兎川を渡る時身全く水に泛《うか》ぶに比し、ウッドの『博物画譜《イラストレーテット・ナチュラル・ヒストリー》』巻一に兎敵を避くるに智巧を極め、犬に嗅ぎ付けらるるを避けんとて流水や大湖に躍り入り長距離を泳いで遠方ヨ上陸し、また時として犬に追究されて海に入り奔波を避けずして妙に難を免るるある由記せるを見て、件《くだん》の謡や詩の句はまるで無根でないと知った。
 上述のごとく兎は随分農作を荒らしその肉が食えるから、兎猟古くより諸国に行われた。『淵鑑類函』四三一に后※[#「※」は「羽」と「廾」を上下に組み合わせる、100−2]《こうげい》巴山に猟し大きさ驢《うさぎうま》ほどなる兎を獲た、その夜夢に冠服王者のごとき人が、※[#「※」は「羽」と「廾」を上下に組み合わせる、100−3]にいうたは我は※扶君[#「※」は「宛+鳥」、100−3]《えんふくん》としてこの地の神じゃ、汝我を辱めた罰としてまさに手を逢蒙に仮らんとすと、翌日逢蒙※[#「※」は「羽」と「廾」を上下に組み合わせる、100−4]を弑《しい》して位を奪うた。今に至ってもその辺の土人は兎を猟《と》らぬと見え、また後漢の劉昆弟子常に五百余人あり、春秋の饗射ごとに桑弧《そうこ》蒿矢《こうし》もて兎の首を射、県宰すなわち吏属を率いてこれを観《み》たとあり、遼の国俗三月三日木を刻んで兎とし朋《くみ》を分けて射た、因ってこの日を陶里樺《とうりか》(兎射)と称えたと出《い》づ。これは兎害を厭勝《まじない》のため兎を射る真似をしたのだろ。天主僧ガーピョンの一六八八|至《より》一六九八年間康熙帝の勅を奉じ西|韃靼《だったん》を巡回した紀行(アストレイ『新編紀行航記全集《ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オヴ・ウオエージス・エンド・トラウェルス》』巻四、頁六七六)に帝が露人と講和のため遣わした一行がカルカ辺で兎狩した事を記して歩
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