十二支考(2)
兎に関する民俗と伝説
南方熊楠

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一篇を綴《つづ》る

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)梵名|舎々迦《ささか》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※鼠[#「※」は「ねずみへん+奚」、92−8]《はつかねずみ》

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 この一篇を綴《つづ》るに先だち断わり置くは単に兎と書いたのと熟兎《なんきん》と書いた物との区別である。すなわちここに兎と書くのは英語でヘヤー、独名ハーセ、ラテン名レプス、スペイン名リエプレ、仏名リエヴル等が出た、アラブ名アルネプ、トルコ名タウシャン、梵名|舎々迦《ささか》、独人モレンドルフ説に北京《ペキン》辺で山兎、野兎また野猫児と呼ぶとあった。吾輩幼時和歌山で小児を睡《ねむ》らせる唄《うた》にかちかち山の兎は笹《ささ》の葉を食う故耳が長いというたが、まんざら舎々迦《ささか》てふ《〔という〕》[#「てふ」に「〔という〕」がルビとしてかかる、92−6]梵語に拠《よ》って作ったのであるまい。兎を野猫児とはこれを啖肉獣たる野猫の児分《こぶん》と見立てたのか。ただしノルウェーの兎は雪を潜《くぐ》って※鼠[#「※」は「ねずみへん+奚」、92−8]《はつかねずみ》を追い食う(一八七六年版サウシ『随得手録《コンモンプレース・ブック》』三)と同例で北京辺の兎も鼠を捉るのか知れぬ。日本では専ら「うさぎ」また「のうさぎ」で通るが、古歌には露窃《つゆぬすみ》てふ名で詠《よ》んだのもある由(『本草啓蒙』四七)。また本篇に熟兎と書くのは英語でラビット、仏語でラピン、独名カニンヘン、伊名コニグリオ、西名コネホ、これらはラテン語のクニクルスから出たので英国でも以前はコニーと呼んだ。日本では「かいうさぎ」、また外国から来た故|南瓜《とうなす》を南京《ナンキン》というごとく南京兎と称う。兎の一類はすこぶる多種でオーストラリアとマダガスカルを除き到る処産するが南米には少ない。日本普通の兎は学名レプス・ブラキウルス、北国高山に棲《す》んで冬白く化けるやつがレプス・ヴァリアビリス、支那北京辺の兎はレプス・トライ、それから琉球特産のペンタラグス・フルネッシは耳と後脚がレプス属の兎より短くて熟兎に近い。一八五三年版パーキンスの『亜比西尼住記《ライフ・イン・アビシニア》』にもかの地に兎とも熟兎とも判然せぬ種類が多いと筆し居る。熟兎はレプス等の諸兎と別に一属を立てすなわちその学名をオリクトラグス・クニクルスという。野生の熟兎は兎より小さく耳と後脚短く頭骨小さくて軽い。しかのみならず兎児は毛生え眼開いて生まれ、生まるると直ぐに自ら食を求めて親を煩わさず自活し土を浅く窪《くぼ》めてその中に居るに、熟兎児は裸で盲で生まれ当分親懸り、因って親が地下に深く孔《あな》を掘り通オてその裏《うち》で産育する、一八九八年版ハーチングの『熟兎篇《ゼ・ラビット》』に拠ると原《も》と熟兎はスペイン辺に産しギリシアやイタリアやその東方になかった。古ユダヤ人もこれを知らずしたがって『聖書』に見えず、英訳『聖書』に熟兎《コニー》とあるはヘブリウ語シャプハンを誤訳したのでシャプハン実は岩兎《ヒラクス》を指すとある。岩兎は外貌が熟兎に似て物の骨骼《こっかく》その他の構造全く兎類と別で象や河馬《かば》等の有蹄獣の一属だ。この物にも数種あってアフリカとシリアに産す(第三図[#図は省略]は南アフリカ産ヒラクス・カベンシス)。巌の隙間《すきま》に棲み番兵を置いて遊び歩き岩面を走り樹に上るは妙なり、その爪と見ゆるは実は蹄《ひづめ》で甚だ犀《さい》の蹄に近い(ウッド『博物画譜《イラストレーテッド・ナチュラル・ヒストリー》』巻一)。却説《さて》兎と熟兎は物の食べようを異にす、たとえば蕪菁《かぶ》を喫《くら》うるに兎や鼠は皮を剥《は》いで地に残し身のみ食うる、熟兎は皮も身も食べて畢《しま》う。また地に生えた蕪菁を食うに鼠は根を食い廻りて中心を最後に食うに熟兎は根の一側から食い始めて他側に徹す(ハーチング、六頁)。ストラボンの説に昔マヨルカとミノルカ諸島の民熟兎|過殖《ふえすぎ》て食物を喫《く》い尽くされローマに使を遣《つか》わし新地を給い移住せんと請うた事あり、その後熟兎を猟殲《かりつく》さんとてアフリカよりフェレット(鼬《いたち》の一種)を輸入すと、プリニウスはいわくバレアリク諸島に熟兎|夥《おお》くなって農穫全滅に瀕しその住民アウグスッス帝に兵隊を派してこれを禦《ふせ》がんと乞えりと、わが邦にも狐狸を取り尽くして兎|跋扈《ばっこ》を極め農民|困《くる》しむ事しばしばあるが熟兎の蕃殖はまた格別なもので、古く地中海に瀕せる諸国に播《ひろ》がり十九世紀の始めスコットランドに甚
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