だ稀《まれ》だったが今は夥しく殖えイングランド、アイルランドまたしかり、オーストラリアとニュージーランドへは最初遊猟か利得のため熟兎を移すとたちまち殖えて他の諸獣を圧し農作を荒らす事言語に絶し種々根絶の方法を講じ居るが今に目的を達せぬらしい。しかしおかげで予ごとき貧生は在英九年の間、かの地方から輸入の熟兎の缶詰を常食して極めて安値に生活したがその仇をビールで取られたから何にも残らなんだワハハハ。日本に熟兎を養う事数百年なるもかかる患害《うれい》を生ぜぬは土地気候等が不適なはもちろん、生存競争上その蕃殖を妨ぐるに力ある動物が多い故と惟《おも》う。しかし熟兎はなくとも兎ばかりでも弱る地方多きは昔よりの事でその害を防ぐ妙案が大分書物に見える。例せば『中陵漫録』五にいわく「兎|蕎麦《そば》の苗を好んで根本より鎌で刈ったごとく一|畦《うね》ずつ食い尽くす、その他草木の苗も同じく食い尽くす事あり、いかようにしても防ぎがたし、これを防ぐには山下の粘土を取り水にてよく泥に掻き立てその苗の上より水を灌《そそ》ぐがごとく漑《そそ》ぎ掛くれば泥ことごとく茎葉の上に乾き附いてあえて食う事なし、苗の生長には障《さわ》らず、およそ圃《ほ》の周り二畦三畦通りもかくのごとくすれば来る事なし、圃の中まで入りて食う事を知らず、米沢の深山中で山農の行うところなり」と、これより振《ふる》った珍法は『甲子夜話』十一に出で平戸《ひらど》で兎が麦畑を害するを避けんとて小さき札に狐の業《わざ》と兎が申すと書く、狐これを見て怒りて兎を責むるを恐れ兎害を止めると農夫伝え行う、この札立つれば兎難必ずやむは不思議だとある。英国にも兎径《ヘヤー・パス》という村や野が数あり兎が群れてその辺を通ったからこの名を生じた。兎の通路は熟兎のよりも一層|判然《はっきり》するという事だが、わが邦の兎道《うじ》などいう地名もこのような起因かも知れぬ。それから支那で跳兎、一名|蹶鼠《げっそ》というはモレンドルフ説にジプス・アンタラツスでこれは兎と同じ齧歯獣だが縁辺やや遠く、『本草綱目』に〈蹶は頭目毛色皆兎に似て爪足鼠に似る、前足わずか寸ばかり、後足尺に近し、尾また長くその端毛あり、一|跳《とび》数足、止まるとすなわち蹶《つまず》き仆《たお》る〉と出づ、英語でジャーボアといいて後脚至って長く外貌習慣共にオーストラリアのカンガルーに似た物だ(第四図[#省略])。『孔叢子《こうそうし》』にこの獣|甘草《かんぞう》を食えば必ず蛩々《きょうきょう》とて青色馬《あおうま》に似た獣と※※[#前の「※」は「うまへん+巨」、後の「※」は「うまへん+虚」、97−3]《きょきょ》とて騾《ら》のごとき獣とに遺《のこ》す、二獣、人来るを見れば必ず蹶を負うて走る、これは蹶を愛するでなくて甘草欲しさだ、蹶も二獣の可愛さに甘草を残すでなく足を仮るためじゃとある、まずは日英同盟のような利害一遍の親切だ、『山海経《せんがいきょう》』に〈飛兎背上毛を以て飛び去る〉とあるも跳eらしい。
 東洋でも西洋でも古来兎に関し随分間違った事を信じた。まず『本草綱目』に『礼記』に兎を明※[#「※」は「めへん+示」、97−8]《めいし》といったはその目|瞬《まばた》かずに瞭然たればなりとあるは事実だが兎に脾臓なしとあるは実際どうだか。また尻に九孔ありと珍しそうに書きあるが他の物の尻には何《いく》つ孔あるのか、随分|種々《いろいろ》と物を調べた予も尻の孔の数まで行き届かなんだ。ただし陳蔵器《ちんぞうき》の説に〈兎の尻に孔あり、子口より出づ、故に妊婦これを忌む、独り唇欠くためにあらざるなり〉、ただ尻に孔あるばかりでは珍しゅうないがこれは兎の肛門の辺《ほとり》に数穴あるを指《さ》したので予の近処の兎狩専門の人に聞くと兎は子を生むとたちまち自分の腹の毛を掻きむしりそれで子を被うと言った。牛が毛玉を吐く例などを比較してこの一事から子を吐くと言い出たのだろ。しかして支那の妊婦は兎を食うて産む子は痔持ちになったり毎度|嘔吐《は》いたりまた欠唇《いくち》に生まれ付くと信じたのだろう。『※雅[#「※」は「つちへん+卑」、97−16]』に咀嚼するものは九|竅《きょう》にして胎生するに独り兎は雌雄とも八竅にして吐生すと見え、『博物志』には〈兎月を望んで孕み、口中より子を吐く、故にこれを兎《と》という、兎は吐なり〉と出づ。雌雄ともに八竅とは鳥類同様生殖と排穢の両機が一穴に兼備され居るちゅう事で兎の陰具は平生ちょっと外へ見えぬからいい出したらしい、王充《おうじゅう》の『論衡《ろんこう》』に兎の雌は雄の毫《け》を舐《な》めて孕むとある、『楚辞』に顧兎とあるは注に顧兎月の腹にあるを天下の兎が望み見て気を感じて孕むと見ゆ、従って仲秋月の明暗を見て兎生まるる多少を知るなど説き出した。わが
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