卒三、四百人弓矢を帯びて三重に兎どもを取り巻き正使副使と若干の大官のみ囲中に馬を馳《は》せて兎を射、三時間足らずに百五十七疋取った。兎雨と降る矢の下に逃げ道を覓《もと》め歩卒の足下を潜《くぐ》り出んとすれば歩卒これを踏み殺しまた蹴り戻す、あるいは矢を受けながら走りあるいは一足折られ三足で逃《のが》れ廻る、囲中また徒士立ちて大なる棒また犬また銃を用いて兎の逃げ出るを防いだとあって、兎狩も大分面白い物らしいが、熊楠はこんな人騒がせな殺生よりはやはり些少《さしょう》ながら四、五升飲む方がずっと安楽だ。文政元年より毎年二月と九月に長崎奉行兎狩に託して人数押《にんずおさ》えを行うた由(『甲子夜話』六四)、いずれそれが済んだ後で一盃飲んだのでしょう。『類函』四三一に〈『張潘漢記』曰く梁冀《りょうき》兎苑を河南に起す、檄を移し在所に生兎を調発す、その毛を刻んで以て識《しるし》と為す、人犯す者あれば罪死に至る〉、何のためにかくまで兎を愛養したフか判らぬ。英国でもゼームス二世の時諸獣の毛皮を着る事大流行じゃったが、下等民も御多聞に洩《も》れずといって銭《ちゃん》はなし兎の皮を用いたので、ロンドン界隈《かいわい》は夥しく兎畜養場が立ったという(サウシ『随得手録《コンモンプレース・ブック》』一および二)。
『礼記』に兎を食うに尻を去ると見ゆるは前述異様の排泄孔などありて不潔甚だしいかららしい。兎肉の能毒について『本草綱目』に種々述べある。陶弘景は兎肉を羮とせば人を益す、しかし妊婦食えば子を欠唇ならしむと言うた。わが邦でも『調味|故実《こじつ》』に兎は婦人懐妊ありてより誕生の百二十日の御祝い過ぐるまで忌むべしと見ゆ。スウェーデンの俗信ずらく、木に楔《くさび》を打ち込んで半ば裂けた中に楔を留めた処や兎の頭を見た妊婦は必ず欠唇の子を生むと、一体スウェーデン人はよほど妊婦の心得に注意したと見えて妊婦が鋸台の下を歩けば生まるる子の喉が鋸を挽くように鳴り続け、斑紋ある鳥卵を食えば子の膚|※[#「※」は「こめへん+造」、101−13]《あら》くて羽を抜き去った鶏の膚のごとし、豚を触《さわ》れば子が豚様に呻《うめ》き火事や創《きず》ある馬を見れば子に痣《あざ》あり、人屍の臭いを嗅げば子の息臭く墓場を行くうち棺腐れ壊れて足を土に踏み入るれば生まるる子|癲癇持《てんかんもち》となるなど雑多の先兆を列《つら》ねある(一八七〇年版ロイド『瑞典小農生活《ビザント・ライフ・イン・スエデン》』九〇頁)。しかし母が妊娠中どうしたら南方先生ほどの大酒家を生むかは分らぬと見えて書いていない。一六七六年版タヴェルニエーの『波斯《ペルシア》紀行』には拝火《ゴウル》教徒兎と栗鼠《りす》は人同様その雌が毎月経水を生ずとて忌んで食わぬとある。果して事実なりや。『抱朴子』に兎血を丹と蜜に和し百日蒸して服するに梧子《きりのこ》の大きさのもの二丸ずつ百日続け用ゆれば神女二人ありて来り侍し役使すべしとある、いかにも眉唾な話だが下女払底の折から殊に人間に見られぬ神女が桂庵なしに奉公に押し掛け来るとはありがたいから一つ試《ため》して見な。欧州にもこれに劣らぬ豪《えら》い話があってアルペルッス・マグヌスの秘訣に人もし兎の四足と黒鳥《マール》の首を併《あわ》せ佩《お》ぶればたちまち向う見ず無双となって死をだも懼《おそ》れず、これを腕に付くれば思い次第の所へ往きて無難に還るを得、これに鼬《いたち》の心臓を合せて犬に餌えばその犬すなわち極めて猛勢となって殺されても人に順《したが》わずと見ゆるがそんなものを拵《こしら》えて何の役に立つのかしら(コラン・ドー・ブランチー『妖怪事彙《ジクショネール・アンフェルナル》』第四版二八三頁)。米国の黒人は兎脳を生で食えば脳力を強くしまたそれを乾《ル》して摩《す》れば歯痛まずに生えると信ず(一八九三年版『老兎巫蠱篇《オールド・ラビット・ゼ・ヴーズー》』二〇七頁)。陳蔵器曰く兎の肉を久しく食えば人の血脈を絶ち元気陽事を損じ人をして痿黄《いおう》せしむと、果してしからば好色家は避くべき物だ。また痘瘡に可否の論が支那にある(『本草綱目』五一)。予の幼時和歌山で兎の足を貯え置き痘瘡を爬《か》くに用いた。これその底に毛布を着たように密毛|叢生《そうせい》せる故で予の姉などは白粉《おしろい》を塗るに用いた。ペピイスの『日記《ダイヤリー》』一六六四年正月の条に兎の足を膝関節込みに切り取って佩ぶれば疝痛《せんつう》起らずと聞き、笑い半分試して見ると果して効いたとある。鰯の頭も信心と言うが護符や呪術《じゅじゅつ》は随分信ぜぬ人にも効く、これは人々の不自覚識《サブリミナル・セルフ》に自然感受してから身体の患部に応通するのだとマヤースの『ヒューマン・パーソナリチー篇』に詳論がある、私なんかも生来の大
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