酒だったが近年ある人から妻が諫《いさ》めて泣く時その涙を三滴布片に落しもらいそれを袂《たもと》に入れ置くと必ずどんな酒呑みもやまる物と承りましてその通り致し当分めっきりやみました。プリニウスの『博物志《ヒストリア・ナチュラリス》』八巻八一章に兎の毛で布を織り成さんと試みる者あったが皮に生えた時ほど柔らかならずかつ毛が短いので織ると直ぐ切れてしもうたと見ゆ、むやみに国産奨励など唱うる御役人は心得て置きなはれ。『塩尻《しおじり》』巻三十に「或る記に曰く永享七年十二月|天野《あまの》民部少輔《みんぶのしょう》遠幹その領内秋葉山で兎を狩獲信州の林某に依りて徳川殿に献ず、同八年正月三日徳川殿|謡初《うたいぞめ》にかの兎を羮としたまえり松平家|歳首《さいしゅ》兎の御羮これより起る、林氏この時|蕗《ふき》の薹《とう》を献ぜしこれ蕗の薹の権輿《はじまり》と云々」とあるは可《い》い思い付きだ、時節がら新年を初め官吏どもの遊宴には兎と蕗の薹ばかり用いさせたら大分の物入りが違うだろ。本邦では兎に因《ちな》んだ遊戯はないようだが英国には兎および猟犬《ヘヤー・エンド・ハウンド》[#ルビは「兎および猟犬」にかかる]ちゅうのがあって、若者一人兎となってまず出立し道中諸処に何か落し置くを跡の数人猟犬となってこれを追踪《ついそう》捕獲するので一同|短毛褐《ジャージー》を着|迅《はや》く走るに便にす、年中季節を問わず土曜の午後活溌な運動を好む輩の所為《しわざ》だが余り動きが酷《ひど》くてこれに堪えぬ者が多いという(ハツリット『信念および民俗《フェース・エンド・フォークロール》[#ルビは「信念および民俗」にかかる]』一九〇五年版巻一、頁三〇五)。予はそんな事よりやはり寝転んで盃一《ぱいいち》がいいというと読者は今のさき妻の涙で全然酒がやんだといったじゃないかと叱るだろ。それから『今昔物語』に大和国《やまとのくに》に殺生を楽しんだ者ありて生きながら兎の皮を剥《は》いで野に放つとほどなく毒瘡その身を腐爛して死んだと載せて居る。故ロメーンスは人間殊に小児や未開人また猴《さる》や猫に残忍な事をして悦楽する性ある由述べた。すなわち猫が鼠を捉えて直ちに啖《く》わず、手鞠《てまり》にして抛げたりまた虚眠して鼠その暇を伺い逃げ出すを片手で面白そうに掴んだりするがごとし。わが邦の今も小児のみか大人まで蟹の両眼八足を抜いて二※[#「※」は「『契』の上の部分+虫」を上下に組み合わせる、104−6]《つめ》のみで行《ある》かせたり蠅の背中に仙人掌《サボテン》の刺《とげ》を突っ込み幟《のぼり》として競争させたり、警察官が婦女を拘留して入りもせぬ事を根問《ねど》いしたり、前和歌山県知事川村竹治が何の理由なく国会や県会議員に誓うた約束をたちまち渝《ほぐ》して予の祖先来数百年奉祀し来った官知社を潰しひとえに熊楠を憤《おこ》らせて怡《よろこ》ぶなどこの類で、いずれも仏眼もて観《み》れば仏国のジル・ド・レッツが多数の小児を犯姦致死して他の至苦を以て自分の最楽と做《な》したに異ならぬ。川村の事は只今《ただいま》グラスゴウ市の版元から頼まれて編み居るロンドン大学前総長フレデリク・ヴィクトル・ジキンス推奨の『南方熊楠自伝』にも書き入れ居るから外国までの恥|曝《さら》しじゃ。とにかくかかる残忍性多き者が平気でおらるるこの世界はまだまだ開明などとは決して呼ばれぬべきはずだ。さて一寸の虫にも五分の魂でマヤースの『ヒューマン・パーソナリチー』に犬にも幽霊ある事は予も十数年研究していささか得たところあるが不幸にも観る人の心を離れて幽霊という物ある証拠を一も得ない。しかしもし人に幽霊あらば畜生にも幽霊あるべしで、『淵鑑類函』四三一に司農卿|揚邁《ようまい》が兎の幽霊に遇った話を載せ、『法苑珠林』六九に王将軍殺生を好んでその女兎鳴の音のみ出して死んだとある。
 『治部式《じぶしき》』に支那の古書から採って諸多の祥瑞を挙げた中に赤兎上瑞、白兎中瑞とある、赤兎はどんな物か知らぬが、漢末に〈人中に呂布あり馬中に赤兎あり〉と伝唱された名馬の号から推すと、まずは赤馬様の毛色の兎が稀《まれ》に出るを上瑞と尊んだのだろ、『類函』に〈『後魏書《こうぎしょ》』、兎あり後宮に入る、門官検問するに従って入るを得るなし、太祖|崔浩《さいこう》をしてその咎徴《きゅうちょう》を推せしむ、浩|以為《おもえ》らくまさに隣国|嬪※[#「※」は「おんな+嗇」、105−8]《ひんしょう》を貢する者あるべし、明年|姚興《ようこう》果して来り女を献ず〉すなわち白兎は色皙の別嬪が来る瑞兆《しるし》で、孝子の所へも来る由見え、また〈王者の恩耆老に加わりまた事に応ずる疾《はや》ければすなわち見《あらわ》る〉とあって、赤兎は〈王者の徳盛んなればすなわち至る〉と出《い》
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