人が来て途を横ぎるを俟《ま》ちて初めて歩み出す(コラン・ド・ブランチー、前出)。スウェーデンでは五月節日《メイデイ》に妖巫黒兎をして近隣の牛乳を搾り取らしむると信じ、牛を牛小舎に閉じ籠め硫黄で燻《ふす》べてこれを禦《ふせ》ぐ。たとい野へ出すも小児を附け遣わさず主人自ら牛を伴れ行き夕《ゆうべ》に伴れ帰って仔細に検査し、もし創《きず》つきたる牛あらばこれを妖巫に傷つけられたりと做《な》し、燧石《ひうちいし》二つで牛の上から火を打ち懸けてその害去ると信じ、また件《くだん》の黒兎に鬼寄住し鳥銃も利《き》かず銀もしくは鋼の弾丸を打ち懸けて始めてこれを打ち留め得と信ぜらると(ロイド、前出一五)。以前は熊野の猟師みな命の弾丸とて鉄丸に念仏を刻み付けて三つ持ち、大蛇等|変化《へんげ》の物を打つ必死の場合にのみ用いた。伊勢の巨勢という地に四里四方刀斧入らざる深山あり、その近傍で炭焼く男いつの歳か十月十五日に山を去って里に帰らんとするに妻子を生む。因って二里半歩み巨勢へ往き薬を求め還って見れば小舎の近傍に板箕《いたみ》ほど大きな蹟《あと》ありて小舎に入り、入口に血|滴《したた》りて妻子なし。必然|変化《へんげ》の所為と悟り鉄砲を持ち鉄鍋《てつなべ》の足を三つ欠き持ちて足蹟を追い山に入れば、極めて大なる白猴新産の子を食いおわり片手で妻の髪を掴み軽々と携えて走り行く、後より戻せと呼ぶと顧みて妻を樹の枝に懸けて立ち留まりやがて片手で妻を取り上げその頭を咬《か》む、その時遅くかの時速くその脇下に鍋の足を射込んで殺しおわったが、全体絶大なかなか運ぶべくもあらねばその尾のみ切り取って帰った。白毛|茸生《じょうせい》僧の払子《ほっす》のごとく美麗言語に絶えたるを巨勢の医家に蔵すと観た者に聞いた人からまた聞きだ。すべて化生《けしょう》の物は脇を打つべく銃手必死の場合には鉄丸を射つべしというた。スウェーデンと日本と遠方ながら似たところが面白くて書き付けた。英国の一部には兎が村を通り走ればその村に凶事生ずとも火災ありともいう。明治四十一年四月ハロー市の大火の前に兎一疋市内を通り抜けた由(翌年六月五日の『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』四五八頁)。
 最後に和田垣博士の『兎糞録』はまだ拝見せぬが兎糞には種々珍しい菌類を生じ予も大分集め図説を作りある。備後《びんご》の人いわく兎糞を砂糖湯で服すると遺尿に神効ありと。また予の乾児《こぶん》に兎糞を乾かして硬くなったのを数珠に造りトウフンと名づけて、田辺湾の名物で只今絶滅した彎珠の数珠に代えて順礼等を紿《あざむ》き売った者がある、何してでも儲くりゃ褒められる世の中には見揚げた心底じゃ。
(大正四年一月、『太陽』二一ノ一)

    (付) 兎と亀との話

 『太陽』雑誌の新年号へ「兎に関する民俗と伝説」という長篇を書いたがここには『太陽』へ出さなんだ事ばかり書く。
 第一に小学児童が熟知《よくし》った亀と兎の競争の話について述べよう、これは『イソップ物語』に出たものだ。イソップはギリシアの人で耶蘇《ヤソ》紀元前五百六十年頃生きておった名高い教訓家だが、今世に伝われる『イソップ物語』は決してそんな古いものでなくずっと後の人がイソップに托《かこつ》けて書き集めたものという、しかし何に致せ西洋話本の親方としてその名声を争うものはない、「亀と兎の競争の話」はこの物語に出た諸話の中もっとも名高い物で根気|能《よ》く辛抱して励めば非常の困難をも凌《しの》いで事業を成就し得る事を示したものだから気力ある若い人々が世間へ出る始めにこの話を額の立て物と戴《いただ》き真向《まっこう》に保持して進撃すべしと西洋でいう。この話に種々の異態がある、しかし普通英国等で持て囃《はや》すのはこうである。いわく兎が亀に会うて自分の足|疾《はや》きに誇り亀の歩遅きを嘲ると亀|対《こた》えてしからば汝と競争するとして里程は五里|賭《かけ》は五ポンドと定めよう、さてそこに聞いている狐を審判役としようと言うと兎が承知した。因って双方走り出したが兎はもとより捷疾だから亀が見えぬほど遠く駈け抜けた、ところで少し疲れたらしい、因って路傍の羊歯《しだ》叢中に坐ってうとうとと眠る、己れの耳が長いから亀がゴトゴト通る音を聞くが最期たちまち跳ね起きてまた走り抜きやるつもりだった、しかるに余り侮り過ぎて眠り過ぎた間に亀は遅いものの一心不乱に歩み走ってとうとう目的点へ着いたので兎の眼が覚《さ》めた時はすでに敗けいた。
 欧州外にもこれに似た話があるが件《くだん》の話と異なり、辛抱の力で遅い奴が疾い奴に勝ったのでなくて専ら智力の働きで勝ったとしている。サー・アレキサンダー・ブルドンがフィジー島人から聴き取った話に曰く、鶴と蟹とがどちらが捷《はや》いと相論じた、蟹が言うには何と
前へ 次へ
全12ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング