しと。大抵|族霊《トテム》たる動物を忌んで食わぬが通則だが、南洋島民中に烏賊《いか》を族霊としてこれを食うを可《よ》しとするのもある(『大英類典』第九版トテムの条)。ドイツ人がもと族霊たりし兎を殺し食うも同例で、タスマニア人が老親を絞殺して食いしごとく身内の肉を余所《よそ》の物に做了《してしま》うは惜しいという理由から出たのだろ。サウシの書(前出)に若いポルトガル人が群狼に襲われ樹上に登って害を免がれ後日の記念にその樹を伐り倒し株ばかり残して謝意を標《しる》した。カーナーヴォン卿その株を睹《み》由来を聴いて、英人なら謝恩のためこの樹を保存すべきに葡人はこれを伐った、所|異《かわ》れば品《しな》異るも甚だし、以後ここの人がどんな難に遇うを見ても我は救わじ、救うて御礼に殺されちゃ詰まらぬと評したとある。先祖来護りくれた族霊を殺し食うてその祭を済ますドイツ人の所行これに同じ。しかし日本人も決して高くドイツ人を笑い得ず、予が報国の微衷もて永々《ながなが》紀州のこの田舎で非常の不便を忍び身命を賭して生物調査を為《な》し、十四年一日のごとく私財を蕩尽《とうじん》して遣《や》って居るに、上に述べた川村前知事ごとき渝誓《ゆせい》してまで侮辱を加え来る者がすこぶる少なからぬからというて置く。
 民俗学者の説に諸国で穀を刈る時少々刈らずに残すはもと地を崇めしより起る。例せばドイツで穀母《こくのはは》、大母《おおはは》、麦新婦《むぎのよめ》、燕麦新婦《からすむぎのよめ》、英国で収穫女王《とりいれじょおう》、収穫貴婦人《とりいれきふじん》など称し、刈り残した稈《わら》を獣形に作りもしくは獣の木像で飾る、これ穀精《こくのせい》を標すのでその獣形種々あるが、欧州諸邦に兎に作るが多い、その理由はフレザーの大著『金椏篇《ゴルズン・バウ》』に譲り、ここにはただこんな事があると述べるまでだ。グベルナチス説に月女神ルチナは兎を使い出産を守る。パウサニアスに月女神浪人都を立てんとする者に教え兎が逃げ込む林中に創立せしめた譚《はなし》を載す。インドにもクリアン・チャンド王狩りすると兎一疋林に入りて虎と化けた、「兎ほど侮りゃ虎ほど強い」という吉瑞と判じてその地にアルモウー城を建てたという。英国で少女が毎月|朔日《ついたち》最初に言《ものい》うとて熟兎《ラビット》と高く呼べばその月中幸運を享《う》く、烟突《えんとつ》の下から呼び上ぐれば効験最も著しく好《よ》き贈品随って来るとか(一九〇九年発行『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』十輯十一巻)。『古事記』に大国主《おおくにぬし》その兄弟に苦しめられた兎を救い吉報を得る事あり、これらは兎を吉祥とした例だが兎を悪兆とする例も多い。それは前述通りこの獣半男女また淫乱故とも、至って怯懦《きょうだ》故とも(アボット、上出)、またこれを族霊として尊ぶ民に凶事を知らさんとて現わるる故(ゴム、上出)ともいう。すべて一国民一種族の習俗や信念は人類初めて生じてより年代紀すべからざる永歳月を経《へ》種々無限の遭際を歴《へ》て重畳千万して成った物だから、この事の原因はこれ、かの事の起源はあれと一々判然と断言しがたく、言わば兎を半男女また淫獣また怯懦また族霊としたから、兎が悪兆に極《き》められてしもうたと言うが一番至当らしい、さて予の考うるは右の諸因のほかに兎が黠智《かっち》に富むのもまた悪獣と見られた一理由だろ。猟夫から毎度聞いたは猟に出懸ける途上兎を見ると追い懸けて夢中になる犬多く、追えば追うほど兎種々に走り躱《かく》れて犬ために身|憊《つか》れ心乱れて少しも主命を用いず、故に狩猟の途上兎を見れば中途から還《かえ》る事多しと、したがって熊野では猟夫兎を見るのみかはその名を聞くばかりでも中途から?ォ還す。アボットの書(上出)にマセドニア人兎に道を横ぎらるるを特に凶兆とし、旅人かかる時その歩立《かちだち》と騎馬とに論なく必ず引き還す。熟兎や蛇に逢うもまたしかり。スコットランドや米国でもまたしかり。ギリシアのレスボス島では熟兎を道で見れば凶、蛇を見れば吉とすと見ゆ。英国のブラウン(十七世紀の人)いわく当時六十以上の人兎道を横ぎるに逢うて困らざるは少なしと。ホームこれに追加すらく、姙婦と伴れて歩く者兎道を横切るに遭わばその婦の衣を切り裂きてこれを厭《まじない》すべしと。フォーファー州《シャー》の漁夫も、途を兎に横ぎらるれば漁に出でず(ハツリット、同前)。コーンウォールの鉱夫金掘りに之《ゆ》く途中老婆または熟兎を見れば引き還す(タイロル『原始人文篇《プリミチヴ・カルチュール》』巻一、章四)。兎途を横ぎるを忌む事欧州のほかインド、ラプランド、アラビア、南アフリカにも行わる(コックス、一〇九頁)。ギリシアではかかる時その人立ち駐《どま》りて兎を見なんだ
前へ 次へ
全12ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング