神というから狼の山の神に近侍し傳令する女巫《みこ》と見立てたのだろ。『抱朴子』に〈山中卯日|丈人《じょうじん》と称える者は兎なり〉。和漢ともにこれを神物として直ちに本名を呼ぶを忌むのだ。兎神が逢蒙をして后※[#「※」は「はね+廾」を上下に組み合わせる、108−6]《こうげい》を殺さしめた話は既に上に述べた。南米のチピウヤン人信じたは大兎神諸獣を率いて水に浮び大洋底より採った砂粒一つもて大地を造り部下の諸獣を人間に化《な》した。しかるに水王たる大虎神これを拒んだので二神争闘今に至るも息《や》まぬと(コラン・ド・ブランチ、二八四頁)。また北米住アルゴンキン人は兎神ミチャボを最高神とし東方に住むとも北方に棲むともいい、人死すればそこへ往くと信ず(『大英類典《エンサイクロペジア・ブリタニカ》』十一版二巻)。仏教薬師十二神中兎神あり。『大集経』二十二に浄道窟の兎天下を遊行《ゆぎょう》して声聞乗《しょうもんじょう》を以て一切兎身衆生を教化《きょうけ》し離悪勧善せしむとあるは兎中の兎仏ともいうべきものありと説いたので、『宝星陀羅尼経』三に仏が首楞厳《しゅりょうごん》三昧《ざんまい》に入ると竜に事《つか》うるもの象に事うるものの眼には竜象と見え兎神に事うるものは仏を兎形に見るとあるから、察するにその頃インドに兎を族霊《トテム》と奉尊する民俗があったらしい、別項虎に関する伝説と民俗とに述べた通り、族霊とは一族とある物との間に切るに切れぬ縁ありと信ずるその物をその一族の族霊というので、予は先年『人類学雑誌』上でわが邦諸神の使い物は多くその神を奉ずる一族の族霊たりし由を説いた。例せば確か兎は気比宮か白山の神使だった、ローマのカイゼルが英国に討ち入った時兎雄鶏鵞を食わぬ民あったと記したが、その風近世まで残り兎を畜《こ》うてこれを殺さんとする者その由を兎に告げると兎自殺したという。ビッデンハムでは九月二十二日イとに白兎を緋の紐で飾り運んでアガサ尊者の頌《ヒムン》を歌い村民行列す。未婚の女これに遇わば皆左手の拇指《おやゆび》と食指を伸して兎に向い処女よ処女よ他《かれ》をここに葬れと唱う。その意味十分に判らぬが昔兎を族霊として厚く葬った遺風とだけは確かに知れる(一九〇八年版ゴム『歴史科学としての民俗学』二八七頁)。西暦紀元六十二年駐英ローマ兵士がイケニ種の寡后ポアジケアを打ちその二女を強姦せしよりポアジケア兵を挙げた時、后まず懐《ふところ》より兎を出しその動作を見て必勝と卜《うらな》い定め臣下皆そのつもりで勇み立ちてたちまちローマ方七万人を鏖殺《おうさつ》したがついに兵敗れて後は自ら毒を仰いで死んだ。これ古ブリストン人が兎を族霊として卜占に用いたのだとゴムは論じた。ただしかの后の当の敵たるローマ人また兎を卜に用い食用として殺さなんだ(ハツリット、同前)。熊楠その卜法の詳しきを知り得ぬが、プリニウス十一巻七三章にブリレツム辺等の兎は二肝あり他所へ移せば一肝を失うとあるを見るといわゆる肝卜法《アンチノボマンシー》をローマ人専ら兎に施したらしい。アボットの『マセドニア民俗』(一〇六頁)にアルバニア人のある種族は今に兎を殺さずまた死んだ兎に触れぬと見ゆ。キリスト教国で復活節に卵を彩り贈るが常で、英国ヨーク州ではこれを小さき鳥巣に入れて戸外に匿し児童をして捜し出さしむるに、スワビアでは兎の卵とて卵とともに兎を匿し、ドイツの諸部ではこの日卵焼の兎形の菓子を作る。わが邦にも古く伏兎という菓子あり、兎に似せた物と聞くが実否は知らぬ。復活節をイースターというはアングロ・サクソン時代に女神エストルをこの節祭ったから起る。思うにこの神の使物が兎で英国(ならびにドイツ等?)有史前住民の春季大祭に兎を重く崇《あが》めた遺風だろうとコックスが説いた(『民俗学入門《アン・イントロダクション・ツー・フォークロール》』一〇二頁)。熊楠|謹《つつし》んで攷《かんが》うるに、古エジプト人は日神ウンを兎頭人身とす、これ太陽|晨《あした》に天に昇るを兎の蹶起《けっき》するに比したんじゃ(バッジ『埃及諸神譜《ゼ・ブック・オブ・ゼ・エジプシアンス》』巻一)。兎を月気とのみ心得た東洋人には変な事だ。コックス説に古アリア人の神誌に、春季の太陽を紅また金色の卵と見立て、後《のち》キリスト教興るに※[#「※」は「しんにょう+台」、110−9]《およ》びこれを復活の印相としたとい、。しからば古欧州にもエジプト同前日を兎と見立てた所もあって卵と見立てたのと合併して、只今|復活節《イースター》にいわゆる兎の卵を贈りまた卵焼の兎菓子を作る事となったのであろう。けだし冬以来勢い微《かす》かなりし太陽が春季に至ってまた熾《さか》んなるを表示したのだ。老友マクマイケル言いしはドイツでは村人この日兎を捕え殺して公宴を張る所多
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