A王は虜《いけど》られ将士|鏖《みなごろし》にさる、その地数十|頃《けい》血に染みて赤黒く絶えて蘗草《くさ》なしと見ゆ、南インド、マドラスの少し南マイラブルは今日英領だが徳川氏の初世はポルトガルに隷《つ》きサントメと呼んだ、したがってそこから渡した奥縞を桟留機《さんとめおり》とも呼んだ、キリストの大弟子中|尊者《サン》トメ最も長旅し、メデア、ペルシア、大夏《バクトリヤ》、インド、エチオピアまた南米までも教化したと言う、いわゆる南インドの尊者《サン》トメ派は唐代に支那に入った景教と同じくネストリウスの宗見を奉ずる故、同じキリスト教ながら新教旧教またギリシア教より見れば教外別伝の概あり、一六七六年マドリッド版ナヴァワッテの『支那歴史道徳論《トラタドス・ヒストリフス・デラ・モナルチア・デ・チナ》』八六頁に尊者《サン》トメ支那に往けり、後世これを崇めて達磨と称うとしばしば聞いたと筆せるはトメと達磨《タマ》と音近く『続高僧伝』等皆達磨を南天竺から支那へ来たとしたかららしい、尊者《サン》トメ山とてその終焉の蹟現存す、けだし尊者マイラプル王の怒りに触れ刑されて死んだとも孔雀を狩る土人に誤殺されたとも
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