れ仏法の器物なり、過《あやま》つ事なかれとて錫杖にてあばえりけれどついに情なく食いたてまつるとはるかになん聞えしとこそ書きたれとある、弘仁元年に三十七歳とは誤写で確か七、八十歳の高齢で虎に食われたまいしと記憶する、さしも九五《きゅうご》の位に即《つ》きたもうべかりし御方の虎腹に葬られたまいしは誠に畏れ多き事だが、かつて「聞く説《なら》く奈落の底に沈みなば刹利《せつり》も首陀《しゅだ》も異ならざるなり」と詠みたまいしを空海がかく悟りてこそ「如来位までは成り登るなり」と讃めまいらせたなどを攷《かんが》うるとよほど得脱した方と察したてまつる。インドにも親王の御履歴に少しく似た話が『賢愚因縁経』十二に出て居る。仏鷲頭山に在った時|波羅奈《はらな》王の輔相一男児を生むに三十二相備わり満身紫金色で相師感嘆す、その母素性良善ならず、しかるにこの子を姙んでより慈悲厚くなる、因って生れた子を慈氏と名づく、王その高徳あって必ず位を奪わん事を恐れ宮中に召して殺さんとす、父これを愍《あわれ》み子をその舅|波梨富羅国《はりふらこく》の師《し》波婆利に送る、舅に就いて学問甚だ通じければ会《え》を作《な》してその美
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