を除いた故事に拠ると出づ、『菅氏世譜』に政利寛永六年五十九歳で歿したとあるから、文禄中虎を斬った時は三十四、五の時だ。長政罪人を誅するに諸士に命じて見逢《みあい》に切り殺させらる、長政側近く呼んでその事を命じ命を承《う》けて退出する、その形気を次の間にある諸士察して仕置《しおき》をいい付けられたと知った、しかるに政利に命じた時ばかり人その形気を察する能わず、この人天性勇猛で物に動ぜなんだからだと貝原好古が記し居る。『紀伊続風土記』九十に尾鷲《おわせ》郷の地士世古慶十郎高麗陣に新宮城主堀内に従って出征し、手負《ておい》の虎を刺殺し秀吉に献じたが、噛まれた疵《きず》を煩い帰国後死んだとは気の毒千万な。
「虎と見て石に立つ矢もあるぞかし」という歌がある。普通に『前漢書』列伝李広善く射る、出猟し草中の石を見て虎と思い射て石に中《あ》て矢をい没《しず》む、見れば石なり。他日これを射たが入る能わずとあるを本拠とするが、『韓詩外伝』に〈楚|熊渠子《ゆうきょし》夜行きて寝石を見る、以て伏虎と為し、弓を彎《ひ》きてこれを射る、金を没し羽を飲む、下り視てその石たるを知る、またこれを射るに矢|摧《くだ》け
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