いかに複雑な法規を作っておいても、世の中のほうが更に一層複雑にできているから、結局法規の予想しない出来事が現れて処置に困ることとなるからである。そこで結局、法規としては単に抽象的な法則を作っておくに止めて、あとは解釈によってそこから複雑な法を導き出すような仕組にするのほかないのである。
 法規がかかる性質のものである以上、個々の具体的事実に当てはまるべき法が解釈を待って明らかになるのは已むを得ないことであるのみならず、ときには解釈者の意見によって何が法であるかについての見解が分れることがあり得るのも已むを得ないことで、それほど世の中そのものが、あらかじめいちいち法を明らかにしておくことができないほど複雑にできているのである。
 かくのごとく、法規が初めから解釈を予定してできている以上、法規を取り扱う者は解釈によって法を明らかにする技術を心得ていなければならない。そして、その技術の種類およびその使い方については自ずから一定の決りがあり、またいろいろの理論もあるから、法学を学ぶ者は、少なくともそれらを習得して、自ら解釈を通して個々の場合に当てはまるべき法を見出す能力を体得する必要がある。従って、講義を聴いたり教科書を読む際にも、教師や著者が与えている解釈の結論にのみ重きを置くことなく、むしろその結論がいかなる理論により、いかなる技術を通して導き出されたかの経路に留意して、自らの解釈能力の涵養に役立たせる努力をしなければならない。
 (2)[#「(2)」は縦中横] 次に、初学者として是非とも知っておかなければならないことは、今でも法律家のあいだには「法秩序の完全無欠性」というドグマが力を持っていることである。例えば、裁判官は必ず法によって裁判しなければならない、裁判は必ず法―事実―裁判という三段論法の形式をとらなければならない、しかもその法は常に、必ずあらかじめ存在する、裁判官はその存在する法を見出してそれによって裁判をしなければならない、ということが一般に信ぜられているものである。裁判は必ず法によってなされねばならない、裁判官が法によらずに勝手な裁判をしてはならないということは、法治国における司法の根本原理で、これは誰にも理解できることであるが、そのよるべき法が、いかなる場合にも常に、必ずあらかじめ存在しているというのはどう考えても不合理である。それにもかかわらず、今なお法律家は、一般にいろいろな方法でその不合理を否定し、法秩序は全体として常に完全無欠であって、解釈よろしきを得れば必要な法を必ず見出し得ると主張しているのである。
 その方法にはいろいろあるが、そのうち最もよく使われるものは「類推」Analogie である。これは例えば、甲という事実に適用せらるべき法が法規の解釈からはどうしても見出されない場合に、幸い甲と類似した乙に関して法があると、それを類推して甲についても類似の法があるというのである。法がない以上類似の事柄に関する法を類推して類似の法的取扱いをすることそれ自身は、法の基本的理念である公平の見地から考えて、必ずしも不合理ではない。しかし、この場合でも、法があるのではなくして実際の必要から法を作っているにすぎないと考えるほうが合理的であるにもかかわらず、多くの学者はこの当然の理を認めないで、類推を解釈の一手段と考え、これによって法を見出すのだと説いている。
 次に、現在行われている多くの教科書を見ると、一方において裁判は必ず既存の法によってなされねばならないと言っていながら、法令の解釈から出てくるのではない法が別にあるということがしばしば書かれている。
 その一つは「判例法」であるが、従来一般の考え方によると、裁判は法令により法令を解釈するによって与えられるもので、それ自身法を作るものではない。そうだとすれば、裁判から法が生れる筈はあり得ないし、判例を根拠として裁判するのも、法によって裁判するのだとは言いがたい訳である。それにもかかわらず、判例法の存在は多くの学者の認めるところであり、現に、判例を根拠として裁判を与えている事例も、実際に少なくない。そして、学者は一般にそれを肯定しているが、その理由に関して十分我々を納得せしめるに足るだけの説明が与えられていないのが現在の実情である。
 次には、「条理」、もしくは「条理法」という法が別にあって、裁判はそれによって与えても差支えない、更に進んでは、法令の解釈から出てくる法が条理と矛盾する場合には、むしろ条理によって裁判すべきであるというような主張をしている学者も少なくないのであるが、その理論的根拠に至ると、人によってその説くところが必ずしも一でないのみならず、それらの説明の中にも、十分我々の理性を満足せしめるに足るものを多く見出しがたいのが実情である。
 八 以上に説明したように、現在法学といわれている学問の大部分は、「何が現行法であるか」の説明に当てられている。そして学者は一般に、これを「解釈法学」と名づけているが、それは法令の解釈を通して法を見出すことが主な仕事になっているためである。しかし、以上の説明でもわかるように、実際には法令の解釈によって法を見出すと言っていながら、実は法を作っていると考えられる事例が稀でないのみならず、場合によっては、全く法令を離れて何が法であるかが説かれていることさえある。そのうえ法令の解釈によって法を見出すといわれている場合でさえも、それによって見出される法が解釈者によって必ずしも一でなく、同じ法規が人々によっていろいろ違って解釈されている場合が少なくない。それでは、一体かくのごとき解釈上の意見の違いはどこから生れてくるのか。
 その原因の第一は、広い意味での解釈技術に関する考え方が、人によってかなり違っていることである。その違いは実際上いろいろの形で現れているが、その最も顕著な例としては、或る人々が法令の形式的ないしは論理的解釈を通して法を見出し得る限度を非常に広く考えているのに反して、他の或る人々はそれを比較的狭く考えており、またそれらのなかにもいろいろと程度の差異があるという事実を挙げることができる。つまり、法令解釈の限度を広く考えている人々は、とかく眼の前に置かれている事実の具体的特殊性を無視もしくは軽視して、なるべくすべてを法規の適用範囲に入れてしまおうとする傾向がある。これに反して他の人々は、本来法規はすべて或る型として想定された事実を前提として作られているのだから、たまたま眼の前に置かれた事実がその型の範囲に入れば法規をそのままそれに適用してよいけれども、全くもしくは多少ともその型からはずれた事実にはそのまま法規を適用する訳にゆかない、この場合にはその与えられた事実を解釈者自らが改めて一つの型として考えながら、それに適用せらるべき法を自ら作らなければならないと考えるのである。
 次に、解釈上の意見に差異を生ずる第二の原因は、彼ら各自の法的正義観に差異があり得ることである。ここで法的正義観というのは、広く言えば世界観もしくは人生観と言ってもよいが、この場合には、特に法に即して洗練された法律家独得の世界観であって、世間普通にいう世界観とは趣を異にしたものである。一例を挙げると、かつて、電気窃盗を窃盗罪として処罰すべきや否やが問題になったことがある。当時は旧刑法時代で現在の刑法第二四五条に相当する規定がなかった。それにもかかわらず、わが国の裁判官は――前に一言した――「財物」の意味を広く解釈して、窃盗罪の成立を認めたのであるが、同じ頃ドイツの裁判官は窃盗罪の成立を否定したことがある。この場合、電気窃盗を世間普通の意味で正義に反する行為と考えたことは、確かにドイツの場合でも同じであったに違いないのであるが、恐らく彼らは、なるほど電気窃盗は正義に反する行為には違いないけれども、刑法には罪刑法定主義という大切な基本原則がある、そして窃盗罪に関する刑法の規定はもともと普通有体の物を窃取する場合を予定して設けられたものであるから、みだりにこれを有体物以外のものの窃取にまで拡張して解釈することはよろしくない、この場合電気窃盗を罰することも必要かも知れないが、そのために罪刑法定主義を破るのは刑法全体の建前から見て一層よろしくないと考えたに違いないのであって、そこに、彼此《ひし》の裁判官の間に法的正義観の差異があったと言えるのである。
 かくのごとく、法的正義観は、個々の場合に裁判官が法規の解釈をするについての態度を決定する上に重要な働きをしている。学者の法規解釈が人によっていろいろ違う原因も、多くの場合、各学者それぞれが違った正義観を持っていることにあると言うことができる。法規解釈が純客観的に、無目的に行われるということは事実あり得ない。解釈は、結局技術であり、手段であるにすぎないのであって、それを使うのは人である。従って、その人がいかなる正義観を持っているかによって解釈が違ってくることがあり得るのは当然のことである。
 そうだとすると、いやしくも法学を学ぼうとする者は、単に法規を形式的に解釈する技術を習得するだけでなく、同時にその技術を使うについての指標たるべき法的正義観の涵養に力めなければならない訳であるが、かかる正義観の涵養はどうすればできるのか、現在の法学教育はその点について実際どういうことをしているか。
 九 それには、大体三つの方法がとられていると私は思う。
 第一は、講義なり教科書で法令の解釈をしてみせている間に、教師や著者は――表面上それを口にしないけれども、実は――それぞれ一定の法的正義観に導かれながら、解釈技術を駆使している。彼らはその正義観を特に一定の形式で表現していないけれども、実際には各自それぞれ一定の正義観を持っているのが当然であって、それが自ずから彼ら各自の解釈態度を決定し、解釈となって現れているのである。だから、学生は解釈の形で法令の知識を与えられている間に、一面、解釈技術を習得すると同時に、他面、知らず知らずの間にその教師なり著者が解釈の指標として持っている法的正義観を教え込まれることとなるのである。
 第二は、解釈法学と別に、法哲学というような形で法思想の教育が行われ、その教育を通して法的正義観が理論的に教えられているのが普通である。現在我が国で行われている法哲学の講義においては、先ず第一に法思想史が教えられているのが通例であるが、それは学生に広く法思想の変遷発展した歴史を教えて、彼らが自ずから自己の法思想に批判を加えてその法的正義観を養うことに役立つのである。次には、教師なり著者が自己の抱懐している法的正義観を理論的に展開してみせるのを通例としているが、これによって与えられる思想的訓練が、実際上法令解釈の態度にまで直接影響を及ぼすことは、従来の実情から言うと、むしろ稀である。殊に、法令解釈の具体的体験を持たない学者の法哲学には、そういう傾向が強い。
 第三に、明治このかた我が国の法学教育においては、一般に法史学と外国法が教科目に加えられているが、それらが、教育の主要部分をなしている解釈法学といかなる関係に立つかについては、時代によって考え方の変遷が認められるのみならず、現在でも、学者によって考え方が違っているように思われる。理想の法学体系を考えてみれば――後に述べるように――、法史学および比較法学の研究を通して与えられる法および法に関するデータを豊富に持つことは、我々の法に関する視野を広めるとともに、法的思惟を深めることに寄与し、それがやがて解釈法学にも、また、立法上にも非常に役立つこととなるのは勿論であるから、これらの研究および教育を、もっと法学全体との関係を考えて根本的に考え直してみる必要があるように思うのである。
 以上のように考えてみると、現在我が国の法学は、全体として何となく科学的に体系化されておらない。教育の中心をなしている解釈法学の教育にしても、ただ前々からの伝統を追って行われているだけであって、教育は本来の目的を十分に発揮していないように思われるのである。そして、このこと
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