法学とは何か
――特に入門者のために
末弘厳太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)彼此《ひし》の
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一 はしがき
一 四月は、毎年多数の青年が新たに法学に志してその門に入ってくる月である。これらの青年に、法学が学問として一体どういう性質を持つものであるかについて多少の予備知識を与えるのが、この文章の目的である。
無論、本当のことは、入門後自らこの学問と取り組んで相当苦労した上でなければわからない。やかましく言うと、法学の科学的本質如何というような根本的の問題は、勉強してみればみるほどかえってわからなくなると思われるほどむずかしい問題で、現に法学の第一線に立っている学者に聴いてみても、恐らくその答はかなりまちまちであろうと考えられるほどの難問である。だから、こうしたむずかしい理論を頭から入門者に説こうとする意思は少しもない。しかし、それにもかかわらず、敢えてここにこの文章を書こうとするのは、次のような理由によるのである。
二 およそ学問に入る入口で、今これから学ぼうとする学問が大体どういう学問であるかについて一応の知識を持っていることが、学習の能率を上げるのに役立つことは、我々が子供の時からの経験でよく知っている。そうした知識を持たないために無用な苦労をした経験を持つ人は、非常に多いのではなかろうか。例えば、私自らが中学四年の時に初めて三角術を教えられた時のことを思い出してみると、これが算術はもとより幾何学に比べても非常にむずかしいように思われたのであるが、後から考えてみると、そのむずかしかった主な原因は、先生が、講義の入口でこの学問が一体どういう目的を持つものであるかを全く教えずに、頭から教科書に書いてあることを教え込もうとしたことにあったのである。その後中学の数学教育も非常に改善されて、今ではこうした弊害は大体取り除かれたように聞いているから、今の青年諸君にこうした経験を語っても、あるいは十分にわかってもらえないのかも知れないが、類似の経験は多少ともすべての人が持っていると思う。ともかく、今自らが学びつつある学問が一体何を目的としているのか全くわからなければ、結局教えられることを暗記するよりほかに学習の方法はないのだから、いつまでたってもなかなか学問そのものを理解できるようにならないのは当然である。
ところで、大学の教育はどうであるかというと、理科や医科のような自然科学系統の学部はもとより文学部のようなところでは、大体そこに入学してくる学生は、初めからその学ぼうとする学問について少なくとも常識程度の知識を持っているのが普通であるように思われるのであるが、法学に志して法学部に入ってくる学生の場合は、一般に事情が著しく違うように思う。私などは、父が長年司法官をしていた関係上、普通一般の学生に比べればかなり法学についての予備知識を持っていた筈であるが、それでさえ、いよいよ入学してみると甚だ腑に落ちないものがあった。どうも自分が予期したものとは大分違った学問を教えられているような気がして、甚だ取っ付きが悪い。仕方がないから先生の講義することをそのままノートすることはしたものの、当分の間は五里霧中で、何のために講義を聴くのだか、全く見当がつかないようなありさまであった。
こういう次第だから、私ほども予備知識を持たない普通一般の学生の迷惑は、恐らく非常なものであったろうと思う。それでも、ともかく大学を出さえすれば官吏にもなれる、一流会社にも採ってもらえることだけは確かであったから、わかろうがわかるまいが一生懸命にノートをとって受験の材料をこしらえるのであるが、こんなことをしているうちに少し心掛けよく本式に勉強した者は、いつとはなしに段々と法学が何であるかを理解して、自然学習に興味を持ってくるようにもなる。しかし私の知っている限り、かなり多数の学生は、卒業するまで何のために法学を学んでいるかを呑み込むことができず、そのため平素はノートを作ることにのみ苦労し、試験期になればそれを丸暗記することに苦労したのが、その頃の実情であった。
もっとも、法学部に入ってくる学生のことだから、彼らのすべてが初めから法学に多少とも興味を持っているに違いないと思うのがそもそもの間違いで、学生の多数は、法学に志しているのではなくして、単に法学部を卒業すること、そしてできればなるべく良い成績で卒業することを志しているにすぎないから、彼らにとっては、学問そのものはどうでもよいのである。だから、卒業後司法官や弁護士のような法律関係の職業に向おうとする少数の学生以外の者にとっては、学問は要するに受験の具にすぎなかったので、私がその後大学に在職している間に高文試験制度が変って法律関係の試験科目が減ると、それを機会に法律学科の学生が急に減って――法学科目の少ない――政治学科の学生が激増したるがごときは、まさにこの傾向を如実に反映したものと言うことができる。
だから、当時我々は、ドイツの或る学者が法学は要するに「パンの学問」Brotwis−senschaft にすぎないと言ったという説を聞いても、深くその意味を考えてみようともしなかった。また、卒業後官庁や会社に入って相当出世した先輩たちの、「大学で習ったことそれ自身は何の役にも立たない、習ったことをすっかり忘れてしまった頃になって初めて一人前の役人なり会社員になれるのだ」というような話を聞いても、なるほどそういうものかなと感心するぐらいのことで、深くその訳を考えてみる気さえ起さなかったような次第であった。今から考えれば――後に記すように――、この先輩の話にも、「パンの学問」にも、なかなか面白い意味があるのだが、当時としては全くそうしたことに気づかないのが実情であった。
そういう事情であったから、法学部の講義の中心をなしていた憲法とか民法とかいうようなものは、要するに、現行法制を説明してその知識を与えるのが目的であると学生一般は考えていた。これらの講義を通して法学的なものの考え方を教えるのだということを、意識的に気づくようにはほとんどならなかったのは勿論、現行法の講義と同時に口ーマ法、法制史、法理学、外国法等の講義を与えられても、それと現行法の講義との間にどういう開係があるのかというようなことは全くわからず、また十分教えられもしなかった。殊に外国法のごときは、外国人が先生であった関係もあって、一般の学生にとっては甚だ苦手な科目で、学校では特に外国法奨励のために成績の良い者には賞金をくれたりしていたにもかかわらず、結局この科目も、暗記の対象である以上にはほとんど何らの教育価値もなかったように思う。
私は終戦後大学教育を離れてから既に五年以上を経ているので、今の法学部で一般にどういう教育が行われているかについて、ほとんど何らの具体的知識も持っていない。また、このごろの学生の素養や学習態度等についても、全く無知識である。しかし、およそ法学が学問としてどういう性質を持つものであるかを今でも多くの学生は知っておらず、何とはなしに法学部に入学して、ただ卒業することだけを考えている人が、非常に多いのではないかと私は想像している。そういう学生に、多少法学と法学教育の真の目的がどこにあるかを教えようというのが、この文章を書く目的である。
二 近代社会が法学的訓練を受けた人間を必要とする理由
三 大学に入学してくる青年は、すべて結局は職を求めているのだと言っても言い過ぎではないと思う。しからば、職を求めるために大学教育がなぜ必要なのか、また、少なくともなぜ役に立つのか、その問題を考えることが、大学における教育もしくは学習の目的を理解するために是非とも必要である。殊に法学部の場合には、その必要が最も大きいのであって、ここでは従来この真の理解が十分でないために、教育もしくは学習そのものが著しく能率を害されているように私は考えている。
裁判官や弁護士のような法律的職業に志す者が法学部に入学する目的は大体わかるが、現在法学部に入ってくる学生のすべてが、必ずしも裁判官や弁護士になりたがっている訳ではなく、むしろその大部分は別な職業に向うことを目的としている。それでは彼らは、果して何のために法学部に入ってくるのか。彼らが法学部に学び法学部を卒業することが、なぜ職業を得ることに役に立つのか。もしも法学部の教育が、単に法律的職業を得るのに役立つにすぎないとすれば、今のように数多くの青年が法学部に入りたがる訳はない。また、今のように多数の学生を収容する官公私立の法学部が沢山必要な訳もわからない。どうしても、今の世の中それ自身が全体として法学教育を受けた人間を沢山必要とするようにできているのだと考えなければ、この訳はわからないのである。
そこで我々はこの見地から、現在の世の中の特色、国家社会の特質を考えてみる必要がある。今の国家社会が全体として法学的素養を持つ人間を沢山必要とするようにできているのだと考えなければ、どうしてもこの理由を理解することができないからである。
四 この点で先ず第一に気づくことは、現代の国家が法治主義的にできており、裁判はもとより行政一般が法治主義的に行われていることである。裁判、行政等の国家機能がすべて法治の原理に従って行われている以上、その運用に当る役人に法学的素養が必要なことは言うまでもないし、役所を相手に仕事をする一般国民が、自然、法学的素養を必要とすることになるのも当然だと言わなければならないからである。
ところが、社会学的に今の世の中全体を考察してみると、法治的機構は必ずしも国家にのみ限られていない。会社その他民間の私企業も、その規模が大きくなるにつれて、すべて法治的機構によらなければ秩序正しい能率的の運営を期することができない。否、更に進んで考えれば、資本主義的経営そのものが初めから機械のように信頼し得る法律の存在を条件としてのみ可能なのであって、裁判や行政のような国家機能が法治的でなければならない主な理由もここにあると考えることができる。
この理は従来既に多くの学者によって説かれているところであるが、最近京都大学の青山秀夫教授が著された『マックス・ウェーバー』のなかに、この点が比較的手際よく簡単に説明されているから、便宜上以下にその一斑を説明紹介しながら、更に多少の補足を付け加えてみたいと思う(同書中特に「第四章近代社会の特徴」)。
それによると、先ず第一に、現代社会の特徴としてそこには軍隊・官庁・企業・工場等の「大量成員団体」が多数存在して、そのいずれもが「組織の力」によって、「機械のように」秩序正しく「合理的運営」を行っていることである。そしてそのために、一方では学校という特殊な教育機関に「大量の人間が身分・出生を問うことなく収容され、一定年限の間、専門的知識と規律に対する服従能力とを集団的に教育・陶冶され、やがて一定類型の専門的勤務能力をもつものとして大量的におくり出される」。同時にまた、かかる「専門的勤務能力」は、「しばしば、大衆が理解・習得でき、しかも内部に喰い違いのない無矛盾・斉合的な体系(例えば『教科書』『法典』『操典』など)に編集され、教育はこれにもとづいておこなわれる。実際の勤務にあたって勤務者がこういう無矛盾・斉合的な行為規範にしたがうことが、集団全体のあの「一糸みだれぬ」運営の基礎となるわけである」。このように集団的訓練を身に着けた専門的勤務者によって「事務的に」businesslike 万事が秩序正しく合理的に運営される機構組織を、マックス・ウェーバーは「官僚制」と名づけている。
次に、近代社会の特徴である資本主義の合理的経営は、一面合理的資本計算を基礎としてのみ可能であるように、同時に近代国家の行政・司法における「官僚制」もまた、その必須の前提条件をなしている。「近代国家がその「官僚制」的中央集
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