権によって広い地域にわたって持続的に治安を確立し、大規模生産に不可欠な市場を形成すること、近代国家が種々の経済秩序(例えば商法・統一的貨幣制度など)を創設・保証・維持すること、さらにまた、専門家としての近代的『官僚』が国家の計画的・合理的な経済政策(たとえば財政・金融政策など)を可能ならしめること、などその顕著な場合である」。そして「近代国家の国家活動は、あらかじめ国民に公示された成文法秩序のもとに、専門的かつ無私的な官僚によって、計画性と安定性とをもって執行される」。かくして国家活動が「偶然性・恣意性を脱し、あらかじめ計算しうる(予見しうる berechenber)ものとなる」によって、「企業は安心して国家活動をその企業活動に織りこむことができ」、「近代的工場経営に特徴的な固定投資はこれによってはじめて可能となるのである」。
以上の趣旨を、法学的の立場から更に必要と思われることを補足しながら、綜合して要約すると、次の通りになる。
(1)[#「(1)」は縦中横] 近代社会のあらゆる事柄は、主として官庁・企業等の「大量成員団体」により「組織の力」によって運営されているが、かかる大規模経営の秩序正しい機械のように正確な運営を可能ならしめるためには、一方において経営内部の規律を確保するための行為規範体系を必要とすると同時に、他方ではかかる規律に堪え得るように訓練された官僚的の勤務者群を必要とする。即ち、経営の内部秩序それ自身が極めて法律的であって、すべてがあらかじめ定められた行為規範によって秩序正しく行動することが要求される。
(2)[#「(2)」は縦中横] 資本主義的経営が合理的資本計算によってのみ可能であるように、司法・行政等の国家機能も、あらかじめ定められた法規範に従ってすべて結果を予見し得るように正確に運営されることが必要で、それには、その運営に当る官僚群が、かかる目的に従って規律正しい活動をなし得るように特別に訓練されることが必要である。即ち、法治主義的の司法や行政に信頼してのみ近代資本主義的の経営は可能である。
(3)[#「(3)」は縦中横] 従って、団体と団体との関係、人と人との関係も、すべてあらかじめ定められた法規範によって「結果を予見し得るように」規律されていることが必要で、これあるによってのみ、近代社会の基礎である自由主義的秩序が可能であり、かかる法的保障あるによってのみ、個人の行動の自由とそれを基礎とした民主的社会秩序とが成り立ち得る。
(4)[#「(4)」は縦中横] しかし、同時に注意すべきことは、以上のような法的秩序はあらかじめ不動的に定立された法規範の自動的作用によってのみ成り立つのではなくして、特に法学的の訓練を受けた専門家がその運用に当ることが必要なことである。いかに精密な法規範体系を用意しても、それの自動的作用のみでは法秩序の円滑な運用を期することはできない。法には一面、機械のように正確な規整作用を行う非情的な面があり、それこそまさに法の特徴であるけれども、同時に個々の場合の具体的事情に応じて具体的に妥当な処理が行われなければ、全体として円滑に動かない面を持っている。だから、裁判所はもとよりその他の官庁や企業団体等にも、必ずかかる具体的処理を担当する専門家が必要であって、これあるによってのみ法の機械は円滑に動くのである。彼らは既定の法規範体系の単なる法字引でもなければ、見張人でもない。法学的訓練によって特に習得した法学的のものの考え方を活用して法秩序の円滑な動きを保障すると同時に、ひいては、社会の進展変化に応じて法秩序を成長せしめてゆく働きをするのである。
五 近代社会が特に法学的の訓練を受けた人間を大量的に必要とするのは、近代社会のかくのごとき特徴によるのである。しからば、その所謂法学的訓練とは何か。その意味が一般に十分理解されていないから、法学教育の目的もハッキリせず、法学部卒業生のいかなる能力が――例えば会社などでも――特に役に立つのかが、一般に正しく理解されないのである。
単に学問が職業を得る手段として役立つというだけの意味であれば、すべての学問が「パンの学問」であって、法学だけが特に「パンの学問」だと言われる訳はない。現代の世の中そのものが法学的の素養がある者を沢山必要とするようにできていればこそ、法学を学ぶによって職業を得ることができるのである。従って法学教育それ自身も、結局そういう目的に役立つのだという意識の下に行われなければならず、新たに法学に志す人々も、初めからその理を心得ている必要があるのである。
大学で習ったことそれ自身がそのまま役に立つのではなくして、むしろそれを忘れてしまった頃に初めて一人前の役人や会社員になれるという言葉も、法学教育の真の目的を理解してみれば非常に味わうべき言葉で、学生はもとより、現に法学教育に従事している人々にとっても深い教訓的意味を持っている。大学で教えられた知識がそのまま実際の役に立たないことは、ひとり法学教育に限ったことではない。しかるに、法学の場合に限って右の言葉が特に意味を持つように考えられるのは、従来の法学教育それ自身に欠陥があるからであり、しかも学生が一般にそれに気づいていないからである。現在の法学教育は一般に、主として現行法の知識を与えるという形で行われている。そして学生は一般に、かくして与えられた知識を消化することに全力を挙げているから、法学の教育もしくは学習は、結局現行法を理解し、記憶することを目的とするように考えられるけれども、実を言うと、かくのごとき教育もしくは学習を通して、学生は法学的のものの考え方を教え込まれるのである。そして学生が卒業後職についてから実際上役に立つのは、そのものの考え方にほかならないのである。無論、現行法を知らずに、考え方だけを抽象的に習得する訳にはゆかない。しかし、現行法の教育も、究極においては現行法そのものを教えることを目的とするのではなくして、現行法の理解を手づるとして法学的のものの考え方を会得せしめようというのがその目的である。そしてかくのごとくに考えればこそ、大学の法学教育で現行法のほかに法制史や外国法を教える意味もわかるのであり、現行法の教育としても、もっと目的に適った教え方があるのではないかというようなことも、考え得るに至るのである。
大学で教えられたことを忘れた頃に初めて一人前の役人や会社員になれるというのも、実を言うと、大学で授けられた知識を手づるとして卒業後実務上の修練を重ねた結果、大学では無意識的にしか習得しなかった法学的の考え方が成熟したことを意味するのであって、大学教育が初めから全く無価値であったという意味ではない。しかし従来大学の法学教育には、一般にこの理合が十分に意識されていない。少なくとも、学生にそういう理解を与える努力が意識的に行われていない。そのため教育と学習の能率が著しく阻害されているように、私は考えるのである。
三 現在の法学と法学教育
六 以上で私は、法学教育の主な目的は、法学的な物事の考え方、もしくは法学的に物事を処理する能力を習得せしめるにあると言った。法学教育を受けて裁判官や弁護士のような職業的法律家になった人々はもとより、普通の役人や会社員などになった人々にとっても、かかる特殊の能力を持っていることが、彼らの職業人としての特色をなしているのだと私は考えている。
それでは、現在我が国の法学教育は、その目的のために何をなしつつあるか、また現在法学は、いかにしてその目的に役立っているであろうか。
この問に答えるために、現在大学で行っている法学教育と法学者によって書かれた著書論文を概観してみると、第一に、内容的に言うと、それは大体、(1)[#「(1)」は縦中横]現行法令を解説したもの、(2)[#「(2)」は縦中横]法制史、ローマ法というような法制の歴史に関するもの、(3)[#「(3)」は縦中横]外国法もしくは比較法学的のもの、(4)[#「(4)」は縦中横]法哲学、法社会学等の名で法に関する一般理論を説いているもの、の四種類に分れている。
第二に、形式的に言うと、法学書のほとんどすべては解説的に書かれており、直接法学的能力の訓練を目的とする形で書かれていない。大学の教育も大部分教説的であって、僅かに演習というような形で直接能力の訓練を目的とした教育が多少行われているにすぎない。
それでは、こうした内容、こうした形式の教育や法学書が、いかにして法学的能力の訓練に役立っているのであろうか。これを理解することは、法学入門者にとって極めて重要であって、さもないと、ややともすると講義や教科書で解説されているものを暗記し、もしくはたかだか理解することが、法学学習の目的であるというような誤解に陥りやすいのである。
七 現在法学教育の大部分は現行法令の解説から成り立っており、法学書も大部分は現行法令の解説に当てられている。これらの解説が現行法令の内容を教えることに役立つのは言うまでもないが、法学教育の見地から考えてそれよりも重要なことは、「解釈」の名の下に法令から法を導き出し、もしくは構成するために使われている「技術」を習得することである。
「解釈」の本質、また「技術」の使い方等については学者のあいだにかなり意見の開きがあって、その詳細を今ここに説くことはできないけれども、解釈技術を体得することは一人前の法律家たり得る最小限度の要件であるから、以下に問題の要点を簡単に説明する。初学者がこの点を一応心得た上で講義を聴いたり教科書を読めば、法学的能力を養う上に非常に役立つと思う。
(1)[#「(1)」は縦中横] 先ず第一に知らねばならないことは、法令はすべて解釈を予定して書かれていることである。無論、個々の法規のなかには、普通の国語知識を持っていさえすればその法的意味を正しく理解し得るものもあるけれども、それはむしろ稀な場合であって、法令法規の大部分は解釈を予定して書かれており、解釈を通して初めて法が何であるかを知り得るようにできている。これは初学者にとっては恐らく不可能なことで、法令が完全にできていさえすれば解釈を容れる余地はないように考えるであろう。現にナポレオン皇帝でさえ、彼の民法典に初めて解釈を加えた本を作られた際に、「わが法典失われたり」という嘆声を発したと伝えられているくらいだから、初学者がそう考えやすいのは至極尤もなことである。
ところが、解釈の必要は法令そのものの本質から来るのであって、一見簡単に見える法規でも、解釈を通して初めて、その法的意味がわかるようにできているのが普通である。いわんや、いくつかの法規の組合せでできている法令は、法規相互の間に一定の脈絡をつけて全体が論理的に矛盾のない一つの統一体をなすような仕組で作られているから、法学的素養のある人の解釈を通してのみ、その法令全体の意味も、また一々の法規に含まれている法が何であるかもわかり得るのである。
理解を助けるために一つの例を引くと、刑法第二三五条の「他人ノ財物ヲ窃取シタル者ハ窃盗ノ罪ト為シ十年以下ノ懲役二処ス」という規定のように、一見平明に見える法規でさえも、これを実際に起る個々の具体的の事件に当てはめることを目的として解釈してみると、一つ一つの言葉の意味について、例えば「財物」とは何か、「他人ノ[#「他人ノ」に傍点]財物」とは何か、また「窃取」とは何かというような具合にいちいち疑問が起り、それをどう解釈するかによって、一定の行為が窃盗罪としてこの規定の適用を受けるかどうかが決るようにできているのである。
それでは、どうしていちいち解釈を経なければ法が何であるかが解らないような法規を作るのか、もっと平明に法そのものを法規として書き表すことはできないものであろうか。それは要するに、世の中の出来事が複雑多岐を極めているから、そのすべてを予想してその一々に適用される法を法規にしようとすると、非常に複雑な法規を作らねばならないことになり、また、たとえ
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