ごときものである以上、そこに行わるべき法律はその「矛盾」した「わがままかって」な要求を充たしうるものでなければなりません。なぜならば、われわれは空想的な「理想国」の法を考えるのではなくて、現実の人間世界の法律を考えるのですから。
 しかるに、従来法を論ずる者の多数は人間を解してかかる「矛盾」した「わがままかって」なものだと考えていないようです。その結果、彼らのある者は、いやしくも人間が「法の前に平等」たらんことを希望する以上、同時に伸縮自在の「法」を要求してはならぬと主張する。そうして現存の「法」がある具体的の場合に、これを適用すると普通の人間の眼から見ていかにも不当だと思われる場合でも、「それは法である。適用されねばならぬ」という一言のもとにその法を適用してしまう。その態度はいかにも勇ましい。しかし、かくのごとくに勇ましくも断行した冷くして固きこと鉄のごとき彼らは、はたして内心になんらの不安もないでしょうか? 否、彼らもまた人間です。美しきを見て美しと思い、悲しきを聴いて悲しと思う人間です。必ずや、かくして人を斬った彼らの心の中には「男の涙」が流れているに違いない。もしも流れていないならば、それは「人間」ではありません。「法」を動かして「裁判」を製造することあたかも肉挽き器械のごときものたるに過ぎません。われわれはかかる器械をして「人間」を裁くべき尊き地位にあらしめることを快しとしません。
 しからば、心中「男の涙」を流しつつ断然人を斬る人々はいかん? 私はその人の志を壮なりとする。しかしながら同時にこれを愚なりと呼ばなければなりません。なぜならば、もしも「法」が全く伸縮しない固定的なものであり、またこれを運用する人間がこれを全然固定的なものとして取り扱ったとすれば、世の中の「矛盾」した「わがままかって」な人間は必ずや「いったい法は何のために存するのか?」といって「法」を疑うでしょう。そうしてその中の正直にして勇気ある者は「法」を破壊しようと計るでしょう。また彼らの中の利口にして「生」を愛する者どもはひそかに「法」をくぐろうと考えるでしょう。「法」をくぐってでも「生」きなければなりませんから。
 彼らの中の正直にして勇気ある者はよく「嘘」をつくに堪えません。「嘘」をつくぐらいならば「命」を賭しても「法」を破壊しようと考えます。彼らは「嘘」をつかずに生きんがために、また子孫をして「嘘」をつかずに生きることをえしめんがために、「法」を破壊せんと計ります。そうして「法」を固定的なものとして考え、固定的なものとして取り扱わんとする人々の最も恐れている「革命家」は実にこの種の「正直にして勇気ある人々」の中から出るのです。
 またそれほど正直でないか、または勇気のない多数の利口者は、「嘘」をついて「法」をくぐろうと計ります。「法」が固定的で、ある事柄が「有」る以上必ず適用されねばならぬようにできている以上、「有」をいつわって「無」という以外「法」の適用を免れる方法はない。「生」を熱愛する人間のこの方法に救いを求める、事や実に当然なりといわねばなりません。「法」を固定的なものとして考え固定的なものとして取り扱わんとする人々はかかる結果を好むのでしょうか? 否、彼らの最も憎みきらうところでなければなりません。しかし彼らがいかに憎みきらっても、「生」を熱愛する人々の「嘘つき」をやめることは事実上不可能です。彼らがこの否むべからざる人生の大事実に気がつかないのだとすれば、それはきわめて愚だといわねばなりません。
 大河は洋々として流れる。人間がその河幅を狭めんとして右岸に鉄壁をきずく。水は鉄壁に突き当ってこれを破り去らんとする。しかも、事実それが不可能なことに気づくとき水は転じて左岸をつく。そうしてその軟い岸を蹴破ってとうとうと流れ下る。この際右岸の鉄壁上に眠りつつ太平楽を夢みるものあらば、たれかこれを愚なりとせぬものがあろうか。世の中に「自由法」なることを主張する者があります。そうしてまた「自由法否なり」として絶対的にこれに反対する人もあります。その「反対」する人々は大河をせき止めえた夢をみてみずから「壮美」を感ずる人々です。しかも実は左岸の破り去られつつあることに気のつかない人々です。それらの人々は、すべからく書斎を去り赤煉瓦のお役所を出でて、現実を現実としてその生まれたままの眼をもって、ありのままを直視すべきです。たいして骨を折ることはいりません。ただちに対岸の破壊せられつつあるのに気が付くでしょう。ところが、彼らの中にも利口者があります。口では「法は固定的なものだ」と主張しつつ実際上これを固定的に取り扱って「壮美」を味わうだけの勇気のない人々です。彼らは、従来伝統ないし独断にとらわれて口先では法の「固定」を説きます。しかし、それを行いの上に実現することができない。しからば、彼らはその矛盾した苦しいせとぎわをいかにしてくぐりぬけるか? その際彼らの使う武器は常に必ず「嘘」です。
 むろん、裁判官――ことに保守的分子の優勢な社会または法治国における裁判官――が、かかる態度をとることはやむをえません。なぜならば、彼らはこの方法によってでも「法」と「人間」との調和をとってゆかねばならぬ苦しい地位にあるのですから。ところが、法律上、社会上毫もかかる拘束を受けていない人々――学者――がみずからのとらわれている「伝統」や「独断」と「人間の要求」とのつじつまを合わせるために、有意または無意的に「嘘」をついて平然としているのをみるとき、われわれはとうていその可なるゆえんを発見することができないのです。彼らがこの際採るべき態度は、一方においては法の改正でなければなりません。他方においてはまた、法の伸縮力を肯定し創造することでなければなりません。わずかに「嘘」の方法によって「法」と「人間」との調和を計りえた彼らが、これによって彼らみずからの「独断」や「伝統」を防衛し保存しえたりとなすならば、それは大なる自己錯覚でなければなりません。

       一〇

 われわれの結局進むべき路は「公平」を要求しつつ、しかも「杓子定規」をきらう人間をして真に満足せしめるに足るべき「法」を創造することでなければなりません。
 近世ヨーロッパにおいて、この路を採るべきことを初めて提唱したものは、フランスの 〔Ge'ny〕 でしょう。彼は従前フランスの裁判官が「嘘」によって事実上つじつまを合わせてきたものを合理的に観念せんがために「法」の概念に関する新しい考えを提唱したのです。その結果、まきおこされた自由法運動は、今より十数年前わが国の法学界にも影響を及ぼしはじめました。しかし、当時はただ法学界における抽象的な議論を喚起したるにすぎずして、ほとんど現実の背景をもっていなかった。しかるに、世界大戦以来、わが国一般の経済事情ならびに社会思潮に大変動を生じたため、突如として「法」と「人間」との間に一大溝渠が開かれることになり、ここに先の自由法思想は再びその頭をもたげる機会を見出しました。そうして事実それは「法律の社会化」という名のもとに頭をもたげました。
 それは確かに喜ぶべき現象に違いありません。けれども、この際われわれの考えねばならぬことは、いかに「杓子定規」をきらい「人間味のある裁判」を欲している人々でも、決して「公平」およびその「保障」の欲求をすてているのではないことです。一度フランス革命の洗礼を受けてきた近代人は、むなしき「自由」の欲求がかえって第一九世紀以来の社会的惨禍をひきおこす原因となった事実を十分に承知しつつもなお「自由」をすてようとはいいません。また、彼らは「法治主義」がややもすれば「杓子定規」の原因となることを十分に知っていながら、なおかつこの「公平の保障」をすてようとはいいません。ですから、われわれが「自由法」を唱道し「法の社会化」を主張するとしても、その際寸時も忘れることのできないのは人々に向かってその「自由」と「公平」とおよびその「保障」とを確保することです。
 しかるに、近時学者の多く「自由法」を説き「法の社会化」を主張する者をみるに、あるいは「法の理想」といい、あるいは「法の目的」といい、ないしは「公の秩序、善良の風俗」という以外、真に社会の「公平保障」の要求を満足せしめるに足るべきなんら積極的の考察を提出しているのをみることができない。なるほど、それはよくともすれば「伝統」にとらわれやすい、同時にまた精緻な「論理」に足をすくわれて意気阻喪しやすい若者を鼓舞して勇ましく「新組織」への戦いに従事せしめることができよう。また従来深く根を張った「概念法学」「官僚主義」「形式主義」を打破する効力はあろう。しかし、もしも、学者のなすところがそれのみにとどまるならば、その功績はきわめて一時的である。過渡的である。ただ旧きを壊す以外、なんら人類文化のために新しいものを建設するものではない。おそらくは彼らが前門に「概念法学」を打破しえた暁には「公平」と「自由」との要求が後門よりただちに攻めきたりて彼らを撃つであろう。もしかくのごとくんば、みずからたまたま波の頭に立ってその谷にあるものの低きを笑うとなんらの差異があるか。やがては彼らみずからが波谷におちいって追い来る人々の笑いを招かねばならぬ。かかるものにはたしてどれだけの文化的価値があるか、私は心からこれを疑うのである。
 いたずらに、むなしき「理想」を説き「公の秩序、善良の風俗」を云為する者は、結局、裁判官の専制を許容するものでなければなりません。やたらに「自由法」を主張して結局その目的を達した暁に、再び「自由」と「公平」との保障を探し求めるようでは何にもなりません。われわれの求めるところは「自由」や「公平」の保障を保持しつつ、しかも「杓子定規」におちいらないもの、換言すれば「保障せられたる実質的公平」にあるのです。
 従来、裁判の中に「実質的公平」または「具体的妥当性」を現わさんとする者の執った手段にほぼ二種類あります。その一は名判官主義、その二は陪審制度です。名判官をして、自由自在に裁判をさせればとにかく個々の事件に対する具体的に妥当な裁判を得ることができましょう。けれども、かくのごときは現代政治の弊にこりて名君専制主義を謳歌するのと同じ思想です。いったい、私は、「文化」というものはある特殊の人にだけできる事柄を誰にも容易にできるようにすることであり、また学問はそれを容易にできるようにする手段であると考えている。名判官なくんば、名裁判はできないというだけのことならば、それは「法学」の否認でなければなりません。それは結局名工正宗さえあれば、本多光太郎博士はいらぬというのと大差なき議論です。われわれは、名判官にあらずといえども名裁判をなしうるような法、すなわち各具体的の場合について具体的妥当性、実質的公平を確保しうべき法を作らねばならぬ。しからずんばわれわれは「自由法」をかちえた瞬間に再び「自由」と「公平」とを恋うるに至るであろう。
 次にまた、陪審制度は「法」をして同時に「人間」の要求に適合せしめる第二の方法です。名判官専制主義と正反対な手段によってこれと同一の目的を達せんとする方法です。裁判官はとかく「法」本来の目的たる「公平」の要求にとらわれやすい。その結果はややもすれば裁判が「人間性」を失いやすい。それを救うがために、多数の素人を法廷に列せしめて有罪無罪の基本を認定せしめんとするものすなわち陪審制度である。この方法は裁判をしてたえず世間とともに変動せしめ、「法」をしてふだんの伸縮力を有せしめる効がある。けれども、時にはあまりに伸縮性が鋭敏すぎるために各場合の具体的事情に支配されやすく、その結果ややもすれば「理」と「公平」とを欠きやすい。
 この意味において、名判官専制主義と、陪審制度とは各反対の長短を有する。そうして「杓子定規」をきらいつつ、しかも「自由」と「公平」との保障を得んことを希望している現代人を満足せしめるがためには、両主義ともに共通の欠点を有する。

       一一

 わ
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