嘘の効用
末弘厳太郎

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 法律以外の世界において一般に不合理なりとみなされている事柄がひとたび法律世界の価値判断にあうや否やたちまちに合理化されるという事実はわれわれ法律学者のしばしば認識するところである。そうして私はそこに法律の特色があり、また国家の特色があると考えるがゆえに、それらの現象の蒐集および考察が、法律および国家の研究者たる私にとって、きわめて有益であり、また必要であることを考える。その意味において、私は数年このかた「法律における擬制」(legal fiction, Rechtsfiktion)の研究に特別の興味を感じている。そうして本文は、実にその研究の中途においてたまたま生まれた一つの小副産物にすぎない。これはもと慶応義塾大学において講演した際の原稿に多少の筆を加えて出来上ったものであって、雑誌『改造』の大正一一年七月号に登載されたものである。
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       一

 われわれは子供のときから、嘘をいってはならぬものだということを、十分に教えこまれています。おそらく、世の中の人々は――一人の例外もなくすべて――嘘はいってはならぬものと信じているでしょう。理由はともかくとして、なんとなく皆そう考えているに違いありません。「嘘」という言葉を聞くと、われわれの頭にはすぐに、「狼がきたきた」と、しばしば嘘をついたため、だんだんと村人の信用を失って、ついには本当に狼に食われてしまった羊飼の話が自然と浮かび出ます。それほど、われわれの頭には嘘をいってはならぬということが、深く深く教えこまれています。
 ところが、それほど深く刻みこまれ、教えこまれているにもかかわらず、われわれの世の中には嘘がたくさん行われています。やむをえずいう嘘、やむをえるにかかわらずいう嘘、ひそかにいわれ陰に行われている嘘、おおっぴらに行われている嘘、否時には法律によって保護された――したがってそれを否定すると刑罰を受けるようなおそろしい――嘘までが、堂々と天下に行われているほど、この世の中には、種々雑多な嘘が無数に行われています。
 実をいうと、全く嘘をつかずにこの世の中に生き長らえることは、全然不可能なようにこの世の中ができているのです。
 そこで、われわれお互いにこの世の中に生きてゆきたいと思う者は、これらの嘘をいかに処理すべきか、というきわめて重大なしかもすこぶる困難な問題を解決せねばなりません。なにしろ、嘘をついてはならず、さらばといって、嘘をつかずには生きてゆかれないのですから。

       二

 私は法律家です。ですから、専門たる「法律」以外の事柄については――座談でならばとにかく――公けに、さも先覚者ないし専門家らしい顔をして、意見を述べる気にはなれません。法律家は「法律」の範囲内にとどまるかぎりにおいてのみ「専門家」です。ひとたびその範囲を越えるとただちに「素人」になるのです。むろん「専門家」だからといって絶対に「素人考え」を述べてはならぬという法はないでしょう。けれども、その際述べられた「素人考え」は特に「専門」のない普通の「素人」の意見となんら択ぶところはない。否「専門」という色眼鏡を通して、物事を見がちであるだけ、その意見はとかく一方に偏しやすい。したがって普通の「素人」の意見よりかえって実質は悪いかもしれないくらいのものです。しかも世の中の人々は、ふしぎにも「専門家」の「素人考え」に向かって不当な敬意を表します。普通の「素人」の「素人考え」よりは大いにプレスティージュをもつわけです。例えば、世の中には無名の八公、熊公にして、演劇に関する立派な批評眼を具えているものがいくらもいます。ところが、何々侯爵とか、何々博士とかが少し演劇に関して「素人考え」を述べると、世の中はただちにやれ劇通だとか芝居通だとかいって変に敬意を表し、本人もいい気になって堂々と意見を公表などします。侯爵や博士のくせに芝居のことも人並みにわかる珍しい男だというくらいならばともかく、その男がさも「専門家」らしい顔をして「素人考え」を憶面もなく述べるのをきくとき、また、世の中の人々がこれに特別の敬意を表するのをみるとき、私は全く不愉快になります。かくのごときは実に一種の「不当利得」にほかならないと私は考えています。しかし世の中の「専門家」はとかくこの点を間違えやすい。世の中の人々も、普通にその同じ間違いを繰り返して「専門家」の「素人考え」を不当に尊敬します。私は全く変だと思います。
 私は法律学者です。ですから「法律」および「学問」についてだけはともかくも「専門家」として意見を述べる資格があるのです。だから今ここに「嘘の効用」と題して嘘をいかに処理すべきかという問題を考えるにしても、議論はむろんこれを「法律」および「学問」の範囲内に限りたいと考えます。一般の道徳ないし教育などに関する問題として、いかにも「玄人」らしく意見を述べることはどうも私のがらではありません。
 「法律」の上で、また「学問」一般について、「嘘」は善かれ悪しかれいろいろの働きをしています。それを考えてみることは、ひとり「法律家」にとってのみならず、一般の人々にもかなり興味あることだと思います。ことに私は、私の「法律」および「学問」に対する態度を明らかにするがためには、この「嘘の効用」についての、私の考えを述べることがきわめて重要であり、少なくとも大いに便利だと考えているのです。それが、私のこの稿を起こすに至った主な動機です。

       三

 私はまず法律の歴史の上に現われたいろいろの「嘘」を二、三例示したいと思う。そうしてその「嘘」が実際上いかなる働きをしたかを考えてみたいと思います。
 法律とか裁判とかいうことを考えると、われわれは、じきに大岡越前守を思い起こします。そうして彼こそは、裁判官の理想、名法官であると考えます。今日われわれの世の中に行われている裁判がとかく人情に適しないとか、人間味を欠いているとか、または裁判官が没常識だとか、化石しているとかいうような小言を耳にするたびに、われわれは大岡裁判を思い起こします。そうしてああいう人間味のある裁判がほしいと考えます。
 しからば、大岡越前守がかくのごとくに賞賛され、否、少なくとも講談や口碑にまで伝えられるほど、その昔において人気があったのは、はたしてなぜでしょうか。私は、不幸にしてこの点に関する学問的に精確な歴史的事実を知りません。いわゆる大岡政談の中に書かれている事実のすべてが、真に大岡越前守の業績であるかどうかについて、毫も正確な知識をもっていません。しかし私にとって、それはどうでも差支えないのです。たとえ、あの話の全部が大岡越前守の真実行った仕事ではないとしても、あれがいわゆる大岡政談となって今日にまで伝わったということは、いかに当時の人々が、あの種の裁判を歓迎したかを明らかに証拠だてるものです。ですから、私が今これからいうところの大岡越前守は、実は大岡政談に現われた大岡越前守を指すのであって、それが歴史的真実と合致するや否やは毫も私の意としないところです。
 大岡越前守の裁判は、なにゆえに人情の機微をうがった名裁判だといわれるのであろうか。一言にしていうと、それは「嘘」を上手につきえたためだ、と私は答えたいと思います。嘘は善いことだとか、悪いことだとかいう論はしばらく別として、大岡越前守が嘘つきの名人であったことは事実です。そうして上手に嘘をつきえてほめられた人です。大岡政談を読んでごらんなさい。当時の法律は、いかにも厳格な動きのとれないやかましいものであった。それをピシピシ厳格に適用すれば、万人を戦慄せしめるに足るだけの法律であった。しかも当時の裁判官はお上の命令であるところの法律をみだりに伸縮して取り扱うことはできぬ。法律は動くべからざるもの、動かすべからざるものであった。この法律のもとで、人情に合致した人間味のある裁判をやることはきわめて困難な事柄です。しかも大岡越前守はそれをあえてしたのです。しかも免職にもならず、世の中の人々にも賞められながら、それをやりえたのです。
 しからばどうしてそれをやりえたか。その方法は「嘘」です。当時の「法律」は厳格で動かすことができなかった。法を動かして人情に適合することは不可能であった。そこで大岡越前守は「事実」を動かすことを考えたのです。ある「事実」があったということになれば「法律上」必ずこれを罰せねばならぬ。さらばといって罰すれば人情にはずれる。その際裁判官の採りうべき唯一の手段は「嘘」です。あった「事実」をなかったといい、なかった「事実」をあったというよりほかに方法はないのです。そうして大岡越前守は実にそれを上手にやりえた人です。
 しかし、これと同じ手段によって裁判の上に人間味を現わしたのは、ひとり大岡越前守のみに限るのではなく、おそらく到るところの裁判官は――むろん時代により場所によって多少程度の差こそあれ――皆ひとしく同様の手段を採るもののように思われます。例えば、ローマのごときでも、奇形児を殺した母をして殺人の罪責を免れしめるがために、裁判官はしばしば monstrum の法理を応用したといわれています。
 ローマでは、たとえ人間の腹から生まれたものでも、それは奇形児で十分人間の形を備えていない場合には、法律上称して monstrum(鬼子)といい、これに与えるに法律上の人格をもってしなかった。この考えは、ローマにおいてはきわめて古くから存在したようであるが、後のユスチニヤン法典中にも法家パウルスの意見として Digestorum Lib. I. Tit. V. de statu hominum L. 14 中に収められている。ところである母が子を生んでみると、それがみにくい鬼子であった。そういう子供を生かしておくのは家の恥辱でもあり、また、本人の不幸でもあると考えて、母はひそかにこれを殺してしまった。やかましく理屈をいえば、それでもやはり一種の殺人には違いない。しかしさらばといって、その母を殺人の罪に問うことは裁判官の人間としてとうてい堪えがたいところである。社会的に考えてもきわめておろかなことです。そこで裁判官は、なんとかして救ってやりたい、その救う手段として考えついたものが、この monstrum の法理です。母は子を殺した、しかし殺したのは人にあらずして monstrum であった、したがって罪にはならぬ。と、こういう理屈をもって憐むべき母を救ったのだということです。
 今日の発達した医学の目からみれば「人」の腹から「人にあらざるもの」が生まれるわけはどうしてもありえないのでしょう。しかし、さらばといって、ローマ人はばかだ、無知だと笑ってしまうのはやぼです。なるほど、それは不合理でしょう。しかしとにかく、これで人の命が救われたのです。そうして当時の人は多分その裁判官を賞賛したに違いありません。
 またわれわれは、徳川時代の御目付役は「見て見ぬふりをする」をもって大切な心得としていたということを聞きます。合理的にやかましくいえば、いやしくも犯罪を発見した以上、御目付役としてはすべてこれを起訴せねばならぬわけです。ところが、それを一々起訴すればかえって世人は承知しない。その結果「見て見ぬふりをする」すなわち「嘘をつく」をもって御目付役の美徳(?)とされていたものです。ところがこの同じ事はひとり旧幕時代のみに限らず明治、大正の世の中にも行われている。刑事訴訟法が今年改正になりました。
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