その以前には明らかな規定がなかったにかかわらず、学者の多数はいわゆる「便宜主義」(〔Opportunita:tsprinzip〕)と称して、犯罪を起訴するや否やは検事の自由裁量に一任されているものだと主張し、司法官もまたその考えを実行していたのです。「便宜主義」と名を付ければいかにもいかめしくなるが、実をいうと御目付役の見て「見ぬふりをする」のと同じことです。ところがこんどの新刑事訴訟法第二七九条ではついにこれを法文の上に現わして「犯人ノ性格、年齡及境遇並犯罪ノ情状及犯罪後ノ情況ニ因リ訴追ヲ必要トセザルトキハ公訴ヲ提起セザルコトヲ得」と規定するに至った。いわば「嘘」を公認した代りに「嘘つき」の規準を作り、その結果「嘘からまこと」ができたわけなのです。諸君は試みに司法統計のうち「嬰児殺」の部をあけてごらんなさい。今の検事がこの点についていかに多く「見て見ぬふり」をしているかを発見されるでしょう。
四
英米の法律には「名義上の損害賠償」(nominal damages)という制度があります。いったい損害賠償は、読んで字のごとく、実際生じた損害を賠償させることを目的とする制度ですから、たとえ権利侵害があっても、実際上なんらの損害もなければ、損害賠償の義務は発生しないわけです。そこで、例えばわが国においては、甲が乙の所有地内に無断で侵入した場合に、乙から損害賠償請求の訴えが起こされても、その無断侵入の結果、事実乙がなんらの損害もこうむっていなければ、不法行為の成立要件を欠くものとして乙は敗訴せざるをえない。むろんただ合理的に考えれば、乙にはなんらの損害もないのだから、これが賠償を求むべきなんらの権利なきは当然である。けれども甲が乙の権利を侵害したという事実だけは確実です。その点において甲は悪いに違いないのです。ですから権利侵害はあったがなんらの損害もないからという理由で敗訴し、その結果、名目上とにかく敗けたということになり、また同時に、敗訴者として訴訟費用を負担せしめられることは、乙にとってきわめて不愉快なことに違いありません。乙は「賠償はとれずともいい。しかし敗けたくはない」と、こう考えるに違いないのです。この際もしも名目上だけでも乙を勝訴者たらしめることができたら、彼はどれだけ喜ぶでしょう。
英米法の「名義上の損害賠償」は実にこの場合における乙を救う制度です。いやしくも権利侵害があった以上、そこに必ずやなんらかの損害がなければならぬ。その損害の象徴として裁判所は被害者に例えば金一銭を与えるとする。そうすれば被害者はたとえ金額は一銭でもとにかく勝訴したことになり、名目上はもちろん実利的にも訴訟費用の負担を免れるという利益がある。実際、損害の立証は立たぬ。しかし権利侵害があった以上必ず損害があったものとみなして、それを一銭という有形物の上に象徴するところがこの制度の妙味であって、「嘘」の効用のいちじるしい実例の一つです。
現在、わが国の法学者は一般に偏狭な合理主義にとらわれて「損害なければ賠償なし」という原則を絶対のものと考え、「名義上の損害賠償」のごときは英米独特の不合理な制度、とうていわが国に移すべからざるものと考えています。けれども、もしもわが国にこの制度が行われることになったならば、法律を知らぬ一般人の裁判所に対する信頼はどれだけ増大するであろうか、また不法行為法がどれだけ道徳的になるであろうか、私は切にそういう時期の至らんことを希望しているのです。しかし、それにはまず一般法学者の頭脳から偏狭な合理主義を駆逐して、もっと奥深い「合理によって合理の上に」出でる思想を植えつけねばなりません。
五
次に、欧米諸国の現行法はだいたいにおいて協議離婚を認めていません。離婚は法律で定めた一定の原因ある場合にのみ許さるべきもので、その原因が存在しない以上はたとえ夫婦相互の協議が成立しても離婚しえないことになっているのです。この点はわが国の法律と全く違ってきわめて窮屈なものです。しかし、いかな西洋でもお互いに別れ話の決まった夫婦が、そうおとなしくくっつきあってるわけがありません。いかにバイブルには「神の合わせ給える者は人これを離すべからず」と書いてあっても、お互いに別れたいものは別れたいに決まっています。そこで、夫婦の間に別れ話が決まると、お互いにしめしあわせて計画を立てた上、妻から夫に向かって離婚の訴えを起こします。裁判官が「なにゆえに?」ときく。妻は「夫は彼女を虐待せり、三度彼女を打てり」と答える。すると裁判官は被告たる夫に向かって「汝は原告妻のいう所を認むるや?」ときく。そこで、夫は「しかり」と答える。かくすることによって裁判官は欺かれて、離婚を言い渡す。もしくは事実の真相について疑念を抱きつつもなお離婚の判決をくだすのである。ですから、西洋でも実際においては当事者双方の協議によって離婚が行われている。そうしてその際使う道具は一種の「嘘」、一種の芝居です。
法律は人間のために存するものです。人間の思想、社会の経済的需要、その上に立ってこそ初めて法は真に行われるのです。かつては、社会の思想や経済状態と一致した法であっても、その後、社会事情が変わるとともに法は事実行われなくなる。また立法者が社会事情の真相を究めずしてむやみな法を作ったところが、それは事実とうてい行われない。離婚は悪いものだという思想が真実社会に現存しているかぎり、協議離婚禁止の法律もまた厳然として行われる。しかしひとたび、その思想が行われなくなると、法文上にはいかに厳重な規定があっても、実際の需要に迫られた世人は「嘘」の武器によってどんどんとその法律をくぐる。そうしてことはなはだしきに至れば法あれども法なきと同じ結果におちいるのです。
同じことは官吏の責任の硬化現象からも生じます。役人といえども飯を食わねばなりません。妻子も養わねばなりません。やたらに免職になっては妻子とともに路頭に迷わなければなりません。ある下級官吏がたまたまある場所を警戒する任にあたっていた。その際一人の無法な男がおどり出て爆弾を懐中し爆発ついに自殺したと仮定する。なるほど、その男の場所がらをもわきまえない無法な所作は、非難すべきものだとしても、たまたま、その場所で警戒を命ぜられていた役人をして絶対的の責任を負わせる理由はないわけです。その役人が責任を負うや否やはその役人が具体的なその場合において、警備上実際に懈怠があったかどうかによって定まるので、偶然その場所にいあわせたというだけの事実をもって絶対的に定まるものではない。ところが現在わが国に行われつつある官吏責任問題の実際はこの点がきわめて形式的に取り扱われてはいないであろうか。停車場が雑踏した場合に、駅長がいかに気をつけても、中には突き飛ばされて線路に落ちる人もあろう。その際駅長が最善の注意を怠らなかったとすれば、彼にはなんらの責任もないわけです。責任はたまたまその突き飛ばした人ないしは雑踏の原因を作った人々にあるわけです。しかるに今の実際では、その際駅長なり駅員なりの中から、必ずいわゆる「責任者」を出さなければすまさないのではないでしょうか。
責任は、自由の基礎の上に初めて存在する。規則によって人の自由を奪うとき、もはやその人の責任を問うことはできないのです。しかるに、万事を規則ずくめに取り扱う役所なり大会社なりは、使用人の責任までをも規則によって形式的に定めようとします。その結果、責任は硬化し形式化して全く道徳的根拠を失います。
ところが、役人も生きねばならぬ。妻子を養わねばならぬ。その役人が自由を与えられることなしに、責任のみ形式的にこれを負担せしめられるとき、彼らははたして黙してその責任に服するであろうか。否、この際、彼は必ずや形式的責任の発生原因たる「事実」をいつわり、「事実」を隠蔽して、責任問題の根源を断とうとするに決まっています。すなわち、彼は「嘘」をつくのです。
右の例を引いた私は、決して最近わが国に起こったなんらか具体的の事件について具体的の判断をくだしたわけではありません。しかし、現在われわれがしばしば「官吏の嘘つき」という事実を耳にするのは本当です。もし、それが事実とすれば、その根源のいずれにありやを考えることは重大問題ではないでしょうか。私はその原因を「責任の硬化」にあるのだと考えます。
親が全く子の要求をきかずに、親の考えのとおり厳重に育てあげようとすれば、子は必ず「嘘つき」になります。
六
以上に述べた二、三の例をみただけでも、「嘘」が法律上いかに大きな働きをしているかがわかるでしょう。
まず第一に、大岡裁判の例やローマの monstrum の話を聞いた方々は、法制があまりに厳重に過ぎる場合に「嘘」がいかに人を救う効能のあるものであるかを十分理解されたことと思う。そうして、いかな正直者の諸君も、なるほど「嘘」もなかなかばかにならぬと感心されたに違いありません。ことに、一国内の保守的分子が優勢なために、法令が移りゆく社会人心の傾向に十分に追随することができず、その結果「社会」と「法令」との間に溝渠ができた場合に「法令」をしてともかくも「社会」と調和せしめるものはただ一つ「嘘」あるのみです。世の中ではよく裁判官が化石したとか、没常識だとか申します。しかし、いかに化石し、いかに没常識であっても、ともかく「人間」です。美しきを見て美しと思い、甘きを食って甘しと思う人間です。ですから、まのあたり被告人を見たり、そのいうところを聴いたり、いろいろと裏面の事情などを知ったりすれば、「法」はどうあろうとも、ともかく「人間」として、ああ処分せねばならぬ、この裁判せねばならぬと考えるのは、裁判官の所為としてまさに当然のことだといわねばなりません。その際、もしも「法」が伸縮自在のものであればともかく、もしも、それが厳重な硬直なものであるとすると、裁判官は必ず「嘘」に助けを求めます。あった事をなかったといい、なかった事をあったといって、法の適用を避けます。そうして「人間」の要求を満足させます。それは是非善悪の問題ではありません。事実なのです。裁判が「人間」によってなされている以上、永久に存在すべき事実なのです。
また、役人の嘘つきの例をきかれた方々、西洋の離婚の話を読まれた方々は、「法」は現在多数の人々ことに司法当局の人々が考えているように、万能のものではないということを十分に気づかれたことと思う。「法」をもってすれば何事をも命じうる、風俗、道徳までをも改革しうるという考えは、為政者のとかく抱きやすい思想です。しかし「人間」は彼らの考えるほど、我慢強く、かつ従順なものではありません。「人間」のできることにはだいたい限りがあります。「法」が合理的な根拠なしにその限度を越えた要求をしても、人は決してやすやすとそれに服従するものではありません。もしもその人が、意思の強固な正直者であれば「死」を賭しても「法」と戦います。またもし、その人が利口者であれば――これが多数の例だが――必ず「嘘」に救いを求めます。そうして「法」の適用を避けます。ですから、「法」がむやみと厳重であればあるほど、国民は嘘つきになります。卑屈になります。「暴政は人を皮肉にするものです」。しかし暴政を行いつつある人は、決して国民の「皮肉」や「嘘つき」や「卑屈」を笑うことはできません。なぜならば、それは彼らみずからの招くところであって、国民もまた彼らと同様に生命の愛すべきことを知っているのですから。
とにかく「法」がひとたび社会の要求に適合しなくなると、必ずやそこに「嘘」が効用を発揮しはじめます。事の善悪は後にこれを論じます。しかしともかく、それは争うべからざる事実です。
七
人間はだいたいにおいて保守的なものです。そうして同時に規則を愛するものです。ばかばかしいほど例外をきらうものです。
例えば、ここに一つの「法」があるとする。ところが世の中がだんだんに変わって、そ
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