の「法」にあてはまらない新事実が生まれたとする。その際とらるべき最も合理的な手段は、その新事実のために一つの例外を設けることであらねばならぬ。それはきわめて明らかな理屈である。しかし人間は多くの場合その合理的な途をとろうとしない。なんとかしてその新事実を古い「法」の中に押し込もうと努力する。それがため事実をまげること――すなわち「嘘」をつくこと――すらあえて辞さないのである。
ですから法律発達の歴史を見ると、「嘘」は実に法律進化の仲介者たる役目を勤めているものであることがわかります。イギリス歴史学派の創始者 Henry James Sumner Maine はその名著『古代法』の中において、またドイツ社会学派の鼻祖 Jhering は不朽の大著『ローマ法の精神』の中において、この事実を指摘しています。そうして幾多の実例を古代法律の変遷現象中に求めています。しかしこの現象は決してひとり人智未開な古代にのみ限った事柄ではありません。文明が進歩してきわめて合理的に思惟し行動しうるようになったとうぬぼれている近世文明人の世の中にも、その事例は無数に存在するのです。
例えば「過失なければ責任なし」という原則は、ローマ法以来漸次に発達して、ことに第一八世紀末葉このかた全く確立するに至った原則です。現にわが民法にも欧米諸国の法律においてもこの原則が明らかに採用されています。けれども、最近物質文明の進歩、大工業の発達とともに、使う本人にとってはきわめて便利ではあるが、他人にとってはきわめて危険なやっかいな品物が、かなりたくさんに発明されました。また一般文化施設の必要上どうしても使わねばならぬ――否、少なくとも使えば便利ではあるが――その結果とかく他人に損害を与えやすいものがたくさん発明されました。自動車、汽車、大工場、貯水池、ガスタンクのたぐいがすなわちこれです。これらの品物はきわめて便利です。けれども、同時に危険なものです。ことにこれらの品物の利用によって損害を与えられた人々が、従来の「過失なければ責任なし」との原則に従って、みずから加害者の「過失」を立証するにあらずんば損害賠償を求めえないものだとすると、多数の場合に事実上、賠償請求の目的を達することができない。例えば、先日深川でガスタンクが爆発した。会社は不可抗力だと称し、被害者は会社の過失だという。もしも被害者が損害賠償を請求したければ会社の「過失」を立証せねばならぬというのが、従来の原則です。しかしタンクは爆発してすでに跡形もない今日、被害者ははたしてそんな立証ができるでしょうか。それは全く不可能であるか、または少なくともきわめて困難です。そうしてそれは自動車によってひき殺された人、貯水池の崩壊によって殺されたり財産を失ったりした人々にとってすべて全く同じことです。そこで近世の社会は従来の「過失責任主義」に対して、「無過失賠償責任」の原則を要求するに至ったのです。
立法者としては適宜にその新要求をいるべき新法令を制定すべき時がきたのです。「過失」のみが唯一の責任原因ではない。そのほかにも賠償責任の合理的原因とするに足るべき事例がある。それを基礎としてまさに新しい法律を制定すべき時が来たのです。学者も動きました。立法者も多少動きました。ドイツを初め諸国において制定された自動車責任法はその実例の一つです。けれども諸国の立法者が遅疑して進まず、またドイツの学者が紙上に無過失責任論を戦わせている間に、事実上一大躍進を遂げたものはフランスの裁判所です。
フランスの裁判所は、本来主観的であるべき「過失」の観念を客観化せしめました。これこれの場合には当然過失あるものと客観的に決めてしまって、主観的な本来の意味の過失いかんを問わなくなりました。むろん口では「過失」といっています。しかし、そのいわゆる「過失」は実は「違法」ということと大差なくなりました。かくしてドイツの学者が正面から堂々と無過失責任の理論を講究し論争している間に、フランスの裁判所は無言のうちにその同じ目的を達してしまいました。そうしてその際使われた「武器」はすなわち「嘘」です。フランスの裁判所は「嘘」を武器として新法理を樹立したのです。
同じことはわが国現在の裁判官もしばしばこれを試みます。その最も顕著な一例は、去る大正九年九月一日の大審院判決に現われた事実です。事件の大要は次のとおりである。ある人が妻子を故郷に残して渡米したが、十分に金を送ってこないので、妻は他人から二、三十円の金を借りて生計の用にあてた。しかるに貸主が返金を請求したところ、妻は「民法第一四条によると妻は夫の許可を得ずに借財をするをえないのだから」といって借財契約を取り消して返金を拒絶した。この場合民法第一七条に列挙した事由のいずれかが存するならば、妻は夫の許可を得ないでもいい。したがって右の契約は取り消しえないことになるのだが、あいにくと本件についてはそういう事情もないので、形式上はどうも妻の言分を採用せねばならぬようであった。ところが裁判所は「夫ガ出稼ノ為ニ、妻子ヲ故郷ニ残シテ遠ク海外ニ渡航シ、数年間妻子ニ対スル送金ヲ絶チタルガ如キ場合ニ在リテハ、其留守宅ニ相当ナル資産アリテ生活費ニ充ツルコトヲ得ルガ如キ特別ナル事状ナキ限リハ、妻ニ於テ一家ノ生活ヲ維持シ子女ノ教養ヲ全ウスルガ為メニ、其必要ナル程度ニ於テ借財ヲ為シ以テ一家ノ生計ヲ維持スルコトハ、夫ニ於テ予メ之ヲ許可シ居リタルモノト認ムベキハ条理上当然ニシテ、斯ク解シテ始テ其裁判ハ悉ク情理ヲ尽シタルモノト謂ハザル可カラズ」という理由で、妻を敗訴せしめた。この場合、妻が許可を得ていないのは事実なのです。しかし得ていないとすると、結果が悪い、貸主に気の毒だ、というわけあいで、裁判所は「許可」を擬制してしまったのです。すなわち事実許可はないのだが、表面上これありたるごとくに装い、それを飾るがために「条理上当然」とか「悉ク情理ヲ尽」すとかいうような言葉を使ったのです。この判決が出たときに、わが国自由法運動の最も熱心な代表者たる牧野博士は「之れこそ民法第十七条の例外が裁判所に依って拡張されたものだ」と解され、これと反対にわが国におけるフランス法派の大先輩たる富井博士はこれを難じて「第十七条の例外が拡張されたのではない、裁判所は事実許可があったと云って居るのだ」といわれた。われわれはこの小論争を傍観して、そこに外面に現われた文字や論理の以外に、両博士の心の動き方をみることができたように思われて非常に興味を感じたのです。「見て見ぬふりをする」フランス流の扱い方と、それを合理的に扱って進化の階梯にしようという自由法的の考え方との対照を見ることができたのです。
八
かくのごとく、歴史上「嘘」はかなりの社会的効用を呈したものであります。現在もまた同じ効用を現わしているものと考えることができます。それは人間というものが、みずからはきわめて合理的だとうぬぼれているにかかわらず、事実は案外不合理なものだということの証拠です。
しかし純合理的に考えると、「嘘」はいかぬに決まっています。あった事をないといい、なかった事をあったというのは、きわめて不都合です。ですから、一般にきわめて合理的であり、したがって、一切の「虚偽」や「妥協」や「伝統」を排斥せんとする革命家は、ほとんど常に「嘘」の反対者です。法律制度として一切の擬制をその中から排斥しようとします。その例は今度のロシヤの労農革命後の法律について多くこれをみることができます。例えば、一九一八年九月一六日のロシヤ法律においては養子制度の全廃を規定しました。そうしてその理由書には「親子法においては、われらの第一法典はあらゆる擬制を排斥して、事実ありのままの状態、すなわち実際の親子関係をただちに表面に現わした。これ単に言葉によってのみならず、事実によって人民をして真実を語ることに慣れしめ、彼らを各種の迷信から解放せんがためだ」といわれているそうです。ですから、法律の中に「擬制」がたくさん使ってあることは合理的に考えてあまり喜ぶべき現象ではなく、むしろそこに法律改正の必要が指示されているものだ、と考えるのが至当です。しかし人間が案外不合理なものである以上、「擬制」の方法によって事実上法律改正の目的を達することはきわめて必要なことです。イェーリングは上記の『ローマ法の精神』の中においてこの真理を言い表わすがため、「真実の解決方法いまだ備わらざるに先立って擬制を捨てよというのは、あたかも松葉杖をついた跛行者に向かって杖を棄てよというにひとしい」といい、また「もしも世の中に擬制というものがなかったならば、後代に向かって多大の影響を及ぼしたローマ法の変遷にしても、おそらくはもっとはるか後に至って実現されたものが少なくないであろう」といっております。
しかし、「擬制」が完全な改正方法でないことはイェーリングも認めているとおりです。「擬制」の発生はむしろ法律改正の必要を、否、法はすでに事実上改正されたのだという事実を暗示するものとして、これを進歩の階梯に使いたいのです。ことに嘘つきには元来法則がありません。ですから、裁判所がこの方法によって世間の変化と法律との調和を計ろうとするに際して、もしも「嘘」のみがその唯一の武器であるとすれば、裁判所が真に信頼すべき立派な理想をもったものである場合のほか、世の中の人間はとうてい安心していることができません。かりにまた真に信頼すべき立派な理想の持ち主であるとしても、これのみに信頼して安心せよというのは、名君に信頼して専制政治を許容せよというにひとしい考えです。フランス革命の洗礼を受けた近代人がどうしてかよくこれを受け入れましょう。彼らは真に信頼しうべき「人間以外」のある尺度を求めます。保障を求めるのです。
さらにまた、もしも法が固定的であり、裁判官もまた硬化しているとすれば、法律の適用を受くべき人々みずからが「嘘」をつくに至ること上述のとおりです。そうしてこれが決して喜ぶべき現象でないことは明らかです。子供に「嘘つき」の多いのは親の頑迷な証拠です。国民に「嘘つき」の多いのは、国法の社会事情に適合しない証拠です。その際、親および国家の採るべき態度はみずから反省することでなければなりません。また裁判官のこの際採るべき態度は、むしろ法を改正すべき時がきたのだということを自覚して、いよいよその改正全きを告げるまでは「見て見ぬふり」をし、「嘘」を「嘘」として許容することでなければなりません。
九
人間は「公平」を好む。ことに多年「不公平」のために苦しみぬいた近代人は、何よりも「公平」を愛します。「法の前には平等たるべし」これが近代人一般の国家社会に対する根本的要求です。そうして、いわゆる「法治主義」は、実にこの要求から生まれた制度です。
法治主義というのは、あらかじめ法律を定めておいて、万事をそれに従ってきりもりしようという主義です。いわばあらかじめ「法律」という物差しを作っておく主義です。ところが元来「物差し」は固定的なるをもって本質とするのです。「伸縮自在な物差し」それは自家撞着の観念です。例えば、ゴムでできた伸縮自在の物差しを使って布を売る呉服屋があるとしたら、おそらくなにびともこれを信用する人はないでしょう。同じように国家に法律があっても、もしもそれがむやみやたらに伸縮したならば、国民は必ずや拠るべきところを知ることができないで、不平を唱えるに決まってます。
ところが、それほど「公平」好きな人間でも、もしも「法律」の物差しが少しも伸縮しない絶対的固定的なものであったとすれば、必ずやまた不平を唱えるに決まっています。人間は「公平」を要求しつつ同時に「杓子定規」を憎むものです。したがって一見きわめて矛盾したわがままかってなことを要求するものだといわねばなりません。しかし、かりにそれが実際に「矛盾」であり「わがままかって」であるとしても、人間はかくのごときものなのだから仕方がありません。そうして人間がかくの
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