おばあさんに、萬といふお金が入ると云つたら、おばあさんはクロのやうにゲーゲーとでも云ひ出しはしないだらうか。私はもう一度死ぬ一週間前に此處を訪ねた兄の生氣に乏しかつた面持を思ひ浮べ、良ちやんも生きてゐたら好きなお酒を飮めるのにと、胸を締めつけられるやうな悲しさだつた。ことによると出版社が同姓の本家を無視して彼の社に私宛の電報を打つたのは、亡兄の靈の導きによるのかも知れない。――夢心地の數瞬が過ぎると、私は打電の主に、亡兄と老母の爲ならいかなる勞もいとはない旨の返事を認めた。
「おばあさん、吃驚しちやいけませんよ。」
 さう前置して私はおばあさんに「母」上梓のニュースを解り易いやうに傳へた。がおばあさんは九十三年の鍛錬のかひあつてか、さして目の色を變へもしなかつた。
「一周忌の間に合ひますかしら。」
「このせつのことだから、豫定通りには行くかどうか判りませんが。」
「それまではどうしても生きてゐなくちや。」
「その調子なら、ほほ、百まで大丈夫ですよ。でもどうして? 良ちやんにお酒でもお供へになりたいの?」
「それもさうですね。ですけど私はそれはそつくりこちらへお禮に差し上げたいのです。」
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