すのは、しのびがたいことのやうに思はれた。彼は死ぬ一週間前、おばあさんの使ひも兼ねて伊東まで來た。二泊してくつろぐ間に、おばあさんとの生活の將來に就いて、しんみり相談をかけたりもした。私はその時の兄の何か生氣に乏しかつた面持を思ひ浮べ、少年少女の昔から何でも話し合つた仲なのにと、その人のもう亡いことがひどく悲しくなつてきた。書架の前にはおばあさんの明日着るものがきちんと重ねてある。が其處らに漂ふ書物の匂ひは兄の體臭に近かつた。私は身内に何かの滲み入るのを意識しながら、一度すつかり目を通した筈の本の背を、お名殘の心で上から順に見て行つた。數段を占めてゐる露語の大册は、とても讀めたものではない。ただモスクワからやつとの思ひで取り寄せて、しばらくは抱いて歩いてゐたミチューリンだけは直ぐそれと判つた。せめてこれだけは伊東まで、――おばあさんと私の傍へ伴れて行つてやらう。私は豪華なその一册を自分自身の胸に抱き、疊の上に寢そべるやうにして、古ぼけた洋書のつまつてゐる最下段を窺《のぞ》いた。センツベリーとか、ゴルスウァージーとか、ソーローとか、私が學生時代に讀み、外遊の際兄にあづけたものが、ひどくく
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