第三期に小説の筆を執《と》つた者は、美妙斎《びめうさい》、思案外史《しあんぐわいし》、丸岡九華《まるをかきうくわ》、漣山人《さゞなみさんじん》、私《わたし》と五人《ごにん》であつたが、右の大改良後《だいかいりやうご》は眉山人《びさんじん》と云《い》ふ新手《あらて》が加《くはゝ》つた、其迄《それまで》は川上《かはかみ》は折※[#二の字点、1−2−22]《をり/\》俳文《はいぶん》などを寄稿《きかう》するばかりで、とんと小説は見せなかつたのであります、所《ところ》が十三号の発刊《はつかん》に臨《のぞ》んで、硯友社《けんいうしや》の為《ため》に永《なが》く忘《わす》るべからざる一大変事《いちだいへんじ》が起《おこ》つた、其《それ》は社の元老《げんらう》たる山田美妙《やまだびめう》が脱走《だつそう》したのです、いや、石橋《いしばし》と私《わたし》との此《この》時の憤慨《ふんがい》と云《い》ふ者は非常《ひじやう》であつた、何故《なにゆゑ》に山田《やまだ》が鼎足《ていそく》の盟《ちかひ》を背《そむ》いたかと云《い》ふに、之《これ》より先《さき》山田《やまだ》は金港堂《きんこうどう》から夏木立《なつこだち》と題《だい》する一冊《いつさつ》を出版しました、是《これ》が大喝采《だいくわつさい》で歓迎《くわんげい》されたのです、此頃《このごろ》軟文学《なんぶんがく》の好著《こうちよ》と云《い》ふ者は世間《せけん》に地を払《はら》つて無かつた、(書生気質《しよせいかたぎ》の有つた外に)其処《そこ》へ山田《やまだ》の清新《せいしん》なる作物《さくぶつ》が金港堂《きんこうどう》の高尚《こうせう》な製本《せいほん》で出たのだから、読書社会《どくしよしやくわい》が震《ふる》ひ付《つ》いたらうと云《い》ふものです、因《そこ》で、金港堂《きんこうどう》が始《はじめ》て此《こ》の年少詩人《ねんせうしじん》の俊才《しゆんさい》を識《し》つて、重《おも》く用《もち》ゐやうと云《い》ふ志《こゝろざし》を起《おこ》したものと考へられる、此《この》時|金港堂《きんこうどう》の編輯《へんしう》には中根淑氏《なかねしゆくし》が居《ゐ》たので、則《すなは》ち此《この》人が山田《やまだ》の詞才《しさい》を識《し》つたのです、其《それ》と与《とも》に一方《いつぱう》には小説雑誌の気運《きうん》が日増《ひまし》に熟《じゆく》して来たので、此際《このさい》何《なに》か発行しやうと云《い》ふ金港堂《きんこうどう》の計画《けいくわく》が有つたのですから、早速《さつそく》山田《やまだ》へ密使《みつし》が向《むか》つたものと見える、
此方《こちら》は暢気《のんき》なものだから那様《こんな》事《こと》とは些《ちつと》も知らない、山田《やまだ》も亦《また》気振《けぶり》にも見せなかつた、けれども前《さき》にも言ふ如《ごと》く、中坂《なかさか》に社を設《まう》けてからは、山田《やまだ》は全《まつた》く社務《しやむ》に与《あづか》らん姿であつたから、社の方でも山田《やまだ》の平生《へいぜい》の消息《せうそく》を審《つまびらか》にせんと云《い》ふ具合《ぐあひ》で、此《こ》の隙《すき》が金港堂《きんこうどう》の計《はかりごと》を用《もちゐ》る所で、山田《やまだ》も亦《また》硯友社《けんいうしや》と疎《そ》であつた為《ため》に金港堂《きんこうどう》へ心が動いたのです、当時《たうじ》は実《じつ》に憤慨《ふんがい》したけれど、考へて見れば無理《むり》の無い所で、而《さう》して此間《このかん》の事は硯友社《けんいうしや》のヒストリイから云《い》ふと大いに味《あぢは》ふ可《べ》き一節《いつせつ》ですよ、
其内《そのうち》に金港堂《きんこうどう》に云々《しか/″\》の計画が有ると云《い》ふ事が耳に入《い》つた、其前《そのぜん》から達筆《たつぴつ》の山田《やまだ》が思ふやうに原稿《げんかう》を寄来《よこ》さんと云《い》ふ怪《あやし》むべき事実が有つたので、這《こ》は捨置《すてお》き難《がた》しと石橋《いしばし》と私《わたし》とで山田《やまだ》に逢《あひ》に行《ゆ》きました、すると金港堂《きんかうどう》一|件《けん》の話が有つて、硯友社《けんいうしや》との関係を絶《た》ちたいやうな口吻《くちぶり》、其《それ》は宜《よろし》いけれど、文庫《ぶんこ》に連載《れんさい》してある小説の続稿《ぞくかう》だけは送つてもらひたいと頼《たの》んだ、承諾《しようだく》した、然《しか》るに一向《いつかう》寄来《よこ》さん、石橋《いしばし》が逢《あ》ひに行つても逢《あ》はん、私《わたし》から手紙を出しても返事が無い、もう是迄《これまで》と云《い》ふので、私《わたし》が筆を取つて猛烈《まうれつ》な絶交状《ぜつかうじやう》を送つて、山田《やまだ》と硯友社《けんいうしや》との縁《えん》は都《みやこ》の花《はな》の発行と与《とも》に断《たゝ》れて了《しま》つたのです、刮目《くわつもく》して待つて居《を》ると、都《みやこ》の花《はな》なる者が出た、本も立派《りつぱ》なれば、手揃《てぞろひ》でもあつた、而《さう》して巻頭《くわんたう》が山田《やまだ》の文章、憎《にく》むべき敵《てき》ながらも天晴《あつぱれ》書きをつた、彼《かれ》の文章は確《たしか》に二三|段《だん》進んだと見た、さあ到《いた》る処《ところ》都《みやこ》の花《はな》の評判で、然《さ》しも全盛《ぜんせい》を極《きは》めたりし我楽多文庫《がらくたぶんこ》も俄《にはか》に月夜《げつや》の提灯《てうちん》と成《な》つた、けれども火は消《き》えずに、十三、十四、十五、(翌《よく》二十二年の二月|出版《しゆつぱん》)と持支《もちこた》へたが、それで到頭《たう/\》落城《らくじやう》して了《しま》つたのです、此《こ》の滅亡《めつばう》に就《つ》いては三つの原因《げんいん》が有るので、(一)は印刷費《いんさつひ》の負債《ふさい》、(二)は編輯《へんしう》と会計との事務《じむ》が煩雑《はんざつ》に成《な》つて来て、修学《しうがく》の片手業《かたてま》に余《あま》るのと、(三)は金港堂《きんこうどう》の優勢《いうせい》に圧《おさ》れたのです、それでも未《ま》だ経済《けいざい》の立たんやうな事は無かつたのです、然《しか》し労《らう》多《おほ》くして収《をさ》むる所が極《きは》めて少いから可厭《いや》に成《な》つて了《しま》つたので、石橋《いしばし》と私《わたし》と連印《れんいん》で、同益社《どうえきしや》へは卅円《さんぢうゑん》の月賦《げつぷ》かにした二|百円《ひやくゑん》余《よ》の借用証文《しやくようしやうもん》を入れて、それで中坂《なかさか》の店を閉ぢて退転《たいてん》したのです、
此《こ》の前年《ぜんねん》の末《すゑ》に私《わたし》を訪《たづ》ねて来たのが、神田《かんだ》南乗物町《みなみのりものちやう》の吉岡書籍店《よしをかしよじやくてん》の主人《しゆじん》、理学士《りがくし》吉岡哲太郎《よしをかてつたらう》君《くん》です、私《わたし》が文壇《ぶんだん》に立つに就《つ》いては、前後《ぜんご》三人《さんにん》の紹介者《せうかいしや》を労《わづらは》したので、其《そ》の第一が此《こ》の吉岡君《よしをかくん》、則《すなは》ち新著百種《しんちよひやくしゆ》の出版元《しゆつぱんもと》です、第二は文学士《ぶんがくし》高田早苗《たかださなゑ》君《くん》、私《わたし》が読売新聞《よみうりしんぶん》に薦《すゝ》められた、第三は春陽堂《しゆんやうどう》の主人|故《こ》和田篤太郎《わだとくたらう》君《くん》、私《わたし》の新聞に出した小説を必《かなら》ず出版《しゆつぱん》した人、其《そ》の吉岡君《よしをかくん》が来て、毎号《まいがう》一篇《いつぺん》を載《の》せる小説雑誌を出したいと云《い》ふ話、そこで新著百種《しんちよひやくしゆ》と名《なづ》けて、私《わたし》が初篇《しよへん》を書く事に成《な》つて、二十二年の二月に色懺悔《いろざんげ》を出したのです、私《わたし》が春《はる》のや君《くん》に面会《めんくわい》したのも、篁村君《くわうそんくん》を識《し》つたのも、此《こ》の新著百種《しんちよひやくしゆ》の編輯上《へんしうじやう》の関係からです、それから又《また》此《こ》の編輯時代《へんしうじだい》に四人《よにん》の社中《しやちう》を得《え》た、武内桂舟《たけのうちけいしう》、広津柳浪《ひろつりうらう》、渡部乙羽《わたなべおとは》、外《ほか》に未《ま》だ一人《ひとり》故人《こじん》に成《な》つた中村花痩《なかむらくわさう》、此《この》人は我楽多文庫《がらくたぶんこ》の第《だい》二|期《き》の頃《ころ》既《すで》に入社して居《ゐ》たのであるが、文庫《ぶんこ》には書いた物を出さなかつた、俳諧《はいかい》は社中《しやちう》の先輩《せんぱい》であつたから、戯《たはむれ》に宗匠《そうせう》と呼《よ》んで居《ゐ》た、神田《かんだ》の五十稲荷《ごとふいなり》の裏《うら》に住《す》んで、庭《には》に古池《ふるいけ》が在《あ》つて、其《その》畔《ほとり》に大《おほ》きな秋田蕗《あきたふき》が茂《しげ》つて居《ゐ》たので、皆《みな》が無理《むり》に蕗《ふき》の本宗匠《もとそうせう》にして了《しま》つたのです、前名《ぜんめう》は柳園《りうゑん》と云《い》つて、中央新聞《ちうわうしんぶん》が創立《そうりつ》の頃《ころ》に処女作《しよぢよさく》を出した事が有る、其《それ》に継《つ》いでは新著百種《しんちよひやくしゆ》の末頃《すゑごろ》に離鴛鴦《はなれをし》と云《い》ふのを書いたが、那《それ》が名を成《な》す端緒《たんちよ》であつたかと思ふ、
武内《たけのうち》と識《し》つたのは、新著百種《しんちよひやくしゆ》の挿絵《さしゑ》を頼《たの》みに行つたのが縁《ゑん》で、酷《ひど》く懇意《こんい》に成《な》つて了《しま》つたが、其始《そのはじめ》は画《ゑ》より人物に惚《ほ》れたので、其頃《そのころ》武内《たけのうち》は富士見町《ふじみちやう》の薄闇《うすぐら》い長屋《ながや》の鼠《ねづみ》の巣《す》見たやうな中《うち》に燻《くすぶ》つて居《ゐ》ながら太平楽《たいへいらく》を抒《なら》べる元気が凡《ぼん》でなかつた、
広津《ひろつ》と知つたのは、廿《にぢう》一年の春であつたか、少年園《せうねんゑん》の宴会《ゑんくわい》が不忍池《しのばず》の長※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]亭《ちやうだてい》に在《あ》つて、其《そ》の席上《せきじやう》で相識《ちかづき》に成《な》つたのでした、其頃《そのころ》博文館《はくぶんくわん》が大和錦《やまとにしき》と云《い》ふ小説雑誌を出して居《ゐ》て、広津《ひろつ》が編輯主任《へんしうしゆにん》でありました、乙羽庵《おとはあん》は始め二橋散史《にけうさんし》と名《なの》つて石橋《いしばし》を便《たよ》つて来たのです、其《その》時は累卵之東洋的《るいらんのとうやうてき》悲憤文字《ひふんもんじ》を書いて居《ゐ》たのを、石橋《いしばし》から硯友社《けんいうしや》へ紹介《せうかい》して、後《のち》に新著百種《しんちよひやくしゆ》に露小袖《つゆこそで》と云《い》ふのを載《の》せました、
それから一時《いちじ》中絶《ちうぜつ》した我楽多文庫《がらくたぶんこ》です、吉岡書籍店《よしをかしよじやくてん》が引受《ひきう》けて見たいと云《い》ふので、直《ぢき》に再興《さいこう》させて、文庫《ぶんこ》と改題《かいだい》して、形《かた》を菊版《きくばん》に直《なほ》しました、是《これ》は新著百種《しんちよひやくしゆ》の壱号《いちがう》が出ると間《ま》も無く発行《はつかう》したので、我楽多文庫《がらくたぶんこ》の第五期《だいごき》に成《な》る、表画《ひやうぐわ》は故《こ》穂庵翁《すゐあんおう》の筆で文昌星《ぶんしやうせい》の図《づ》でした、是《これ》が前《さき》の廃刊《はいかん》した号を追つて、二十二|号《がう》迄《まで》出して、二十
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