硯友社の沿革
尾崎紅葉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夙《かね》て

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自分|一人《ひとり》で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)後※[#二の字点、1−2−22]《のち/\》

 [#…]:返り点
 (例)遊[#二]松島[#一]記

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)めい/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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夙《かね》て硯友社《けんいうしや》の年代記《ねんだいき》を作つて見やうと云《い》ふ考《かんがへ》を有《も》つて居《ゐ》るのでありますが、書いた物は散佚《さんゐつ》して了《しま》ふし、或《あるひ》は記憶《きおく》から消え去つて了《しま》つた事実などが多い為《ため》に、迚《とて》も自分|一人《ひとり》で筆《ふで》を執《と》るのでは、十分な事を書く訳《わけ》には行かんのでありますから、其《そ》の当時《たうじ》往来《わうらい》して居《を》つた人達《ひとたち》に問合《とひあは》せて、各方面《かくはうめん》から事実を挙《あ》げなければ、沿革《えんかく》と云《い》ふべき者を書く事は出来《でき》ません、
其《これ》に就《つい》て不便《ふべん》な事は、其昔《そのむかし》朝夕《あさいふ》に往来《わうらい》して文章を見せ合つた仲間の大半は、始《はじめ》から文章を以《もつ》て身を立《たて》る志《こゝろざし》の人でなかつたから、今日《こんにち》では実業家《じつげふか》に成《な》つて居《を》るのも有れば工学家《こうがくか》に成《な》つて居《を》るのも有る、其他《そのた》裁判官《さいばんくわん》も有る、会社員も有る、鉄道の駅長も有る、中《なか》には行方不明《ゆくへふめい》なのも有る、物故《ぶつこ》したのも有る、で、銘々《めい/\》業《げふ》が違《ちが》ふからして自《おのづ》から疎遠《そゑん》に成《な》る、長い月日には四|方《はう》に散《さん》じて了《しま》つて、此方《こちら》も会ふのが億劫《おくゝふ》で、いつか/\と思ひながら、今だに着手《ちやくしゆ》もせずに居《を》ると云《い》ふ始末《しまつ》です、今日《こんにち》お話を為《す》るのは些《ほん》の荒筋《あらすぢ》で、年月《ねんげつ》などは別《べつ》して記憶《きおく》して居《を》らんのですから、随分《ずゐぶん》私《わたし》の思違《おもひちが》ひも多からうと思ひます、其《それ》は他日《たじつ》善《よ》く正《たゞ》します、
抑《そもそ》も硯友社《けんいうしや》の起《おこ》つたに就《つい》ては、私《わたし》が山田美妙《やまだびめう》君《くん》(其頃《そのころ》別号《べつがう》を樵耕蛙船《せうかうあせん》と云《い》ひました)と懇意《こんい》に成《な》つたのが、其《そ》の動機《どうき》でありますから、一寸《ちよつと》其《そ》の交際《かうさい》の大要《たいえう》を申上《まをしあ》げて置く必要が有る、明治十五年の頃《ころ》でありましたか東京府の構内《かうない》に第二中学と云《い》ふのが在《あ》りました、一《ひと》ツ橋《ばし》内《うち》の第一中学に対して第二と云《い》つたので、それが私《わたし》が入学した時に、私《わたし》より二級上に山田武太郎《やまだたけたらう》なる少年が居《を》つたのですが、此《この》少年は其《そ》の級中《きふちう》の年少者《ねんせうしや》で在《あ》りながら、漢文《かんぶん》でも、国文《こくぶん》でも、和歌《わか》でも、詩《し》でも、戯作《げさく》でも、字も善《よ》く書いたし、画《ゑ》も少しは遣《や》ると云《い》つたやうな多芸《たげい》の才子《さいし》で、学課《がくくわ》も中以上《ちういじやう》の成績《せいせき》であつたのは、校中《かうちう》評判《ひやうばん》の少年でした、私《わたし》は十四五の時分《じぶん》はなか/\の暴《あば》れ者で、課業《くわげふ》の時間を迯《に》げては運動場《うんどうば》へ出て、瓦廻《かはらまわ》しを遣《や》る、鞦韆飛《ぶらんことび》を遣《や》る、石ぶつけでも、相撲《すまふ》でも撃剣《げきけん》の真似《まね》でも、悪作劇《わるいたずら》は何《なん》でも好《すき》でした、(尤《もつと》も唯今《たゞいま》でも余《あま》り嫌《きら》ひの方《はう》ではない)然《しか》るに山田《やまだ》は極《ごく》温厚《おんこう》で、運動場《うんどうば》へ出て来ても我々《われ/\》の仲間に入《はい》つた事などは無い、超然《てうぜん》として独《ひと》り静《しづか》に散歩して居《を》ると云《い》つたやうな風《ふう》で、今考へて見ると、成程《なるほど》年少詩人《ねんせうしじん》と云《い》つた態度《たいど》がありましたよ、其《それ》が甚麼《どんな》機《はずみ》で相近《あひちかづ》く事に成《な》つたのであるか、どうも覚えませんけれど、いつかフレンドシツプが成立《なりた》つたのです、
尤《もつと》も段々《だん/″\》話合《はなしあ》つて見ると、五六|才《さい》の時分《じぶん》には同《おな》じ長屋《ながや》の一軒《いつけん》置《お》いた隣同士《となりどうし》で、何《なん》でも一緒《いつしよ》に遊んだ事も有つたらしいので、那様《そんな》事から一層《いつそう》親密《しんみつ》に成《な》つて、帰路《かへりみち》も同じでありましたから連立《つれだ》つても帰る、家《うち》へ尋《たづ》ねて行《ゆ》く、他《さき》も来る、そこで学校外《がくかうぐわい》の交《まじはり》を結《むす》ぶやうに成《な》つたのです、
私《わたし》は程無《ほどな》く右の中学を出て、芝《しば》の愛宕下町《あたごしたまち》に在《あ》つた、大学予備門《だいがくよびもん》の受験科《じゆけんくわ》専門《せんもん》の三田英学校《みたえいがつこう》と云《い》ふのに転学《てんがく》しました、それから大学予備門《だいがくよびもん》に入つて二|年《ねん》経《た》つ迄《まで》、山田《やまだ》とは音信不通《いんしんふつう》の状《かたち》で居《ゐ》たのです、其《それ》には別《べつ》に理由《りいう》も何《なに》も無い、究竟《つまり》学校が違つて了《しま》つた所から、お互《たがひ》に今日《こんにち》あつて昨日《さくじつ》も明日《みやうにち》も無い子供心《こどもごゝろ》に、漠然《ぼうつ》と忘《わす》れて了《しま》つたのです、すると、私《わたし》が二|級《きふ》に成《な》つた時《とき》、山田《やまだ》が四|級《きふ》に入つて来たのです、実に這麼《こんな》意外な想《おもひ》をした事が無い、第二中学に居《ゐ》た時は私《わたし》より二|級《きふ》上《うへ》の山田《やまだ》が、予備門《よびもん》では二|級《きふ》下《した》の組《くみ》に入つて来たのでせう、私《わたし》は何為《どうし》た事かと思ひました、然《しか》し、実に可懐《なつかし》かつたのです、顔を見ると手を把《と》つて、直《たゞち》に旧交《きふこう》が尋《あたゝ》められると云《い》ふ訳《わけ》で、其頃《そのころ》山田《やまだ》も私《わたし》も猶且《やはり》第二中学時代と易《かは》らず芝《しば》に住《す》んで居《ゐ》ましたから、往復《わうふく》ともに手を携《たづさ》へて、議論《ぎろん》を上下《じやうげ》するも大きいが、お互《たがひ》の談《はなし》も数年前《すうねんまえ》よりは真面目《まじめ》に成《な》つた、さて話をして見ると、山田《やまだ》は文章を以《も》つて立たうと云《い》ふ精神《せいしん》、私《わたし》も同断《どうだん》だ、私《わたし》の此《この》志《こゝろざし》を抱《いだ》いたのは、予備門《よびもん》に入学して一年《いちねん》許《ばかり》過《す》ぎての事であるが、山田《やまだ》は彼《か》の第二中学に居《ゐ》る時分から早く業《すで》に那様《こんな》了見《りやうけん》が有つたらしいのです、一年《いちねん》前《ぜん》に其志《そのこゝろざし》を抱《いだ》いた私《わたし》は未《ま》だ小説の筆《ふで》は仇《と》つて見なかつたのであるが、恐《おそ》る可《べ》き哉《かな》、己《おのれ》より三歳《みつ》弱《わか》い山田《やまだ》が既《すで》に竪琴草子《たてごとざうし》なる一篇《いつぺん》を綴《つゞ》つて、疾《とう》から価《あたへ》を待《ま》つ者であつたのは奈何《どう》です、然《さう》云《い》ふ物を書いたから、是非《ぜひ》一読《いちどく》して批評《ひゝやう》をしてくれと言つて百五六中|枚《まい》も有る一冊《いつさつ》の草稿《そうかう》を私《わたし》に見せたのでありました、其《そ》の小説はアルフレツド大王《だいわう》の事蹟《じせき》を仕組《しく》んだもので文章《ぶんしやう》は馬琴《ばきん》を学《まな》んで、実に好《よ》く出来て居《ゐ》て、私《わたし》は舌《した》を巻《ま》きました、なか/\批評《ひゝやう》どころではない、敬服《けいふく》して了《しま》つたのです、因《そこ》で考へた、彼《かれ》が二|年《ねん》晩《おく》れて予備門《よびもん》に入つて来たのは、意味《いみ》無くして遅々《ぐづ/\》して居《ゐ》たのではない、其間《そのあひだ》に余程《よほど》文章を修行《しゆぎやう》したものらしい、増上寺《ぞうじやうじ》の行誡上人《ぎやうかいしやうにん》や石川鴻斎翁《いしかはこうさいおう》の所へ行つたのは総《すべ》て此間《このあひだ》の事で、而《そ》して専《もつぱ》ら独修《どくしう》をした者と見える、何《なん》でも西郷隆盛論《さいごうたかもりろん》であつたか、|遊[#二]松島[#一]記《まつしまにあそぶき》であつたか鴻斎翁《こうさいおう》が始《はじめ》て彼《かれ》の文章を見た時、年の若いに似合《にあ》はぬ筆《ふで》つきを怪《あやし》んで、剽窃《へうせつ》したのであらうと尤《とが》めたと云《い》ふ話を聞きましたが、漢文《かんぶん》も善《よ》く書いたのです、
次《つぎ》に硯友社《けんいうしや》の興《な》るに就《つ》いて、第二の動機《だうき》となつたのは、思案外史《しあんがいし》と予備門《よびもん》の同時《どうじ》の入学生《にふがくせい》で相識《あいし》つたのです、其頃《そのころ》は石橋雨香《いしばしうかう》と云《い》つて居《ゐ》ました、是《これ》は私《わたし》の竹馬《ちくば》の友《とも》の久我《くが》某《ぼう》が石橋《いしばし》とはお茶《ちや》の水《みづ》の師範学校《しはんがくかう》で同窓《どうそう》であつた為《ため》に私《わたし》に紹介《せうかい》したのでしたが、其《そ》の理由は第一|私《わたし》と好《このみ》を同《おなじ》うするし、且《かつ》面白《おもしろ》い人物《じんぶつ》であるから交際《かうさい》して見給《みたま》へと云《い》ふのでありました、是《これ》から私《わたし》が又《また》山田《やまだ》と石橋《いしばし》とを引合《ひきあは》せて、先《ま》づ桃園《とうゑん》に義《ぎ》を結《むす》んだ状《かたち》です、
其内《そのうち》に山田《やまだ》は芝《しば》から一《ひと》ツ橋《ばし》まで通学《つうがく》するのは余《あま》り遠《とほ》いと云《い》ふので、駿河台《するがだい》鈴木町《すずきちやう》の坊城《ばうじやう》の邸内《ていない》に引越《ひつこ》した、石橋《いしばし》は九段坂上《くだんさかうへ》の今の暁星学校《ぎやうせいがくかう》の在《あ》る処《ところ》に居《ゐ》たのですが、私《わたし》は不相変《あひかはらず》芝《しば》から通《かよ》つて居《ゐ》た、山田《やまだ》と益《ます/\》親密《しんみつ》になるに就《つ》けて、遠方《ゑんぱう》から通ふのは不都合《ふつがふ》であるから、僕《ぼく》の家《うち》に寄宿《きしゆく》しては奈何《どう》です、と山田《やまだ》が云《い》つてくれるから、願《ねが》うても無き幸《さいわひ》と、直《すぐ》に笈《きふ》を負《をつ》て、郷関《きやうくわん》を出た、山田《やまだ》の書斎《しよさい》は八|畳
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