《ぢやう》の間《ま》でしたが、其《それ》に机《つくゑ》を相対《さしむかひ》に据《す》ゑて、北向《きたむき》の寒《さむ》い武者窓《むしやまど》の薄暗《うすぐら》い間《ま》に立籠《たてこも》つて、毎日《まいにち》文学の話です、此《こゝ》に二人《ふたり》が鼻《はな》を並《なら》べて居《ゐ》るから石橋《いしばし》も繁《しげ》く訪ねて来る、山田《やまだ》は出嫌《でぎら》ひであつたが、私《わたし》は飛行自由《ひぎやうじざい》の方《はう》であるから、四方《しはう》に交《まじはり》を結《むす》びました、処《ところ》が予備門《よびもん》内《ない》を普《あまね》く尋《たづ》ねて見ると、なか/\斯道《しだう》の好者《すきしや》が潜伏《せんぷく》して居《ゐ》るので、それを石橋《いしばし》と私《わたし》とで頻《しきり》に掘出《ほりだ》しに掛《かゝ》つた、すると群雄《ぐんいう》四方《しはう》より起《おこ》つて、響《ひゞき》の声に応《おう》ずるが如《ごと》しです、是《これ》が硯友社《けんいうしや》創立《さうりつ》の導火線《だうくわせん》と成《な》つたので、
さて其頃《そのころ》の三人《さんにん》の有様《ありさま》は如何《いか》にと云《い》ふに、山田《やまだ》は勉強家《べんきやうか》であつたが、学科《がくくわ》の方《はう》はお役目《やくめ》に遣《や》つて居《ゐ》て、雑書《ざつしよ》のみを見て居《ゐ》た、石橋《いしばし》は躰育《たいいく》熱心《ねつしん》の遊ぶ方《はう》で、競争《きやうそう》は遣《や》る、器械躰操《きかいたいさう》は遣《や》る、ボートは善《よ》く漕《こ》ぐ、水練《すゐれん》は遣《や》る、自転車で乗廻《のりまは》す、馬《うま》も遣《や》る、学科には平生《へいぜい》苦心《くしん》せんのであつたが、善《よ》く出来ました、試験《しけん》の成績《せいせき》も相応《さうおう》に宜《よろ》しかつた、私《わたし》と来ると、山田《やまだ》とも付《つ》かず石橋《いしばし》とも付かずでお茶を濁《にご》して居《ゐ》たのです、其頃《そのころ》世間《せけん》に持囃《もてはや》された読物《よみもの》は、春《はる》のや君《くん》の書生気質《しよせいかたぎ》、南翠《なんすゐ》君《くん》の何《なん》で有つたか、社会小説《しやくわいせうせつ》でした、それから、篁村翁《くわうそんおう》が読売新聞《よみうりしんぶん》で軽妙《けいめう》な短編《たんぺん》を盛《さかん》に書いて居《ゐ》ました、其等《それら》を見て山田《やまだ》は能《よ》く話をした事ですが、此分《このぶん》なら一二|年内《ねんない》には此方《こつち》も打つて出て一合戦《ひとかつせん》して見やう、而《さう》して末《すゑ》には天下《てんか》を…………などゝ云《い》ふ大気焔《だいきえん》も有つたのです、
処《ところ》へ或日《あるひ》石橋《いしばし》が来て、唯《たゞ》恁《かう》して居《ゐ》るのも充《つま》らんから、練習の為《ため》に雑誌を拵《こしら》へては奈何《どう》かと云《い》ふのです、いづれも下地《したぢ》は好《すき》なりで同意《どうい》をした、就《つい》ては会員組織《くわいゝんそしき》にして同志《どうし》の文章を募《つの》らうと議決《ぎけつ》して、三人《さんにん》が各自《てんで》に手分《てわけ》をして、会員《くわいゝん》を募集《ぼしう》する事に成《な》つた、学校に居《を》る者、並《ならび》に其以外《それいぐわい》の者をも語合《かたら》つて、惣勢《そうぜい》二十五|人《にん》も得《え》ましたらうか、其内《そのうち》過半《くわはん》は予備門《よびもん》の学生でした、
今日《こんにち》になつて見ると、右の会員の変遷《へんせん》は驚《おどろ》く可《べ》き者《もの》で、其内《そのうち》死亡《しばう》した者《もの》、行方不明《ゆくへふめい》の者《もの》、音信不通《いんしんふつう》の者《もの》等《など》が有るが、知れて居《ゐ》る分《ぶん》では、諸機械《しよきかい》の輸入《ゆにふ》の商会《しやうくわい》に居《ゐ》る者《もの》が一人《ひとり》、地方《ちはう》の判事《はんじ》が一人《ひとり》、法学士《はふがくし》が一人《ひとり》、工学士《こうがくし》が二人《ふたり》、地方《ちはう》の病院長《びやうゐんちやう》が一人《ひとり》、生命保険《せいめいほけん》会社員《くわいしやいん》が一人《ひとり》、日本鉄道《にほんてつだう》の駅長《えきちやう》が一人《ひとり》、商館番頭《しやうくわんばんたう》が築地《つきぢ》(諸機械《しよきかい》)と横浜《よこはま》(生糸《きいと》)とで二人《ふたり》、漁業者《ぎよげふしや》と建築家《けんちくか》とで阿米利加《あめりか》に居《を》る者《もの》が二人《ふたり》、地方《ちはう》の中学教員《ちうがくけういん》が一人《ひとり》、某省《ぼうせう》の属官《ぞくくわん》が二人《ふたり》、大阪《おほさか》と横浜《よこはま》とで銀行員《ぎんかういん》が二人《ふたり》、三州《さんしう》の在《ざい》に隠《かく》れて樹《き》を種《う》ゑて居《ゐ》るのが一人《ひとり》、石炭《せきたん》の売込屋《うりこみや》が一人《ひとり》、未《ま》だ/\有るが些《ちよつ》と胸に浮《うか》ばない、先《ま》づ這麼《こんな》風《ふう》に業躰《げふてい》が違つて居《ゐ》るのです、而《さう》して、後※[#二の字点、1−2−22]《のち/\》硯友社員《けんいうしやいん》として文壇《ぶんだん》に立つた川上眉山《かはかみびさん》、巌谷小波《いはやせうは》、江見水蔭《えみすゐいん》、中村花痩《なかむらくわさう》、広津柳浪《ひろつりうらう》、渡部乙羽《わたなべおとは》、などゝ云《い》ふ面々《めん/\》は、此《こ》の創立《さうりつ》の際《さい》には尽《こと/″\》く未見《みけん》の人であつたのも亦《また》一奇《いつき》と謂《い》ふべきであります、
因《そこ》で其《そ》[#ルビの「そ」は底本では「その」]の雑誌と云《い》ふのは、半紙《はんし》両截《ふたつぎり》を廿枚《にぢうまい》か卅枚《さんぢうまい》綴合《とぢあは》せて、之《これ》を我楽多文庫《がらくたぶんこ》と名《なづ》け、右の社員中から和歌《わか》、狂歌《きやうか》、発句《ほつく》、端唄《はうた》、漢詩《かんし》、狂詩《きやうし》、漢文《かんぶん》、国文《こくぶん》、俳文《はいぶん》、戯文《げぶん》、新躰詩《しんたいし》、謎《なぞ》も有れば画探《ゑさが》しも有る、首《はじめ》の方《はう》には小説を掲《かゝ》げて、口画《くちゑ》も挿画《さしゑ》も有る、是《これ》が総《すべ》て社員の手から成《な》るので、其《そ》の筆耕《ひつこう》は山田《やまだ》と私《わたし》とで分担《ぶんたん》したのです、山田《やまだ》は細字《さいじ》を上手《じやうづ》に書きました、私《わたし》のは甚《はなは》だ醜《きたな》い、で、小説の類《るい》は余《あま》り寄稿者《きかうしや》が無かつたので、主《おも》に山田《やまだ》と石橋《いしばし》と私《わたし》とのを載《の》せたのです、此《こ》の三人《さんにん》以外《いぐわい》に丸岡九華《まるおかきうくわ》と云《い》ふ人がありました、此《この》人は小説も書けば新躰詩《しんたいし》も作る、当時《たうじ》既《すで》に素人芸《しろうとげい》でないと云《い》ふ評判《ひやうばん》の腕利《うできゝ》で、新躰詩《しんたいし》は殊《こと》に其力《そのちから》を極《きは》めて研究《けんきふ》する所で、百枚《ひやくまい》ほどの叙事詩《じよじし》をも其頃《そのころ》早く作つて、二三の劇詩《げきし》などさへ有りました、依様《やはり》我々《われ/\》と同級《どうきふ》でありましたが、後《のち》に商業学校《せうげふがくかう》に転《てん》じて、中途《ちうと》から全然《すつかり》筆《ふで》を投《たう》じて、今《いま》では高田商会《たかだせうくわい》に出て居《を》りますが、硯友社《けんいうしや》の為《ため》には惜《をし》い人を殺《ころ》して了《しま》つたのです、尤《もつと》も本人の御為《おため》には其方《そのはう》が結搆《けつかう》であつたのでせう、
それで、右の写本《しやほん》を一名《いちめい》に付《つき》三日間《みつかかん》留置《とめおき》の掟《おきて》で社員へ廻《まわ》したのです、すると、見た者は鉛筆《えんぴつ》や朱書《しゆがき》で欄外《らんぐわい》に評《ひやう》などを入れる、其評《そのひやう》を又《また》反駁《はんばく》する者が有るなどで、なか/\面白《おもしろ》かつたのであります、此《こ》の第壱号[#「第壱号」に丸傍点]を出したのが明治十八年の五月二日[#「明治十八年の五月二日」に丸傍点]です、毎月《まいげつ》壱回《いつくわい》の発行《はつかう》で九号《くがう》まで続きました、すると、社員は続々《ぞく/″\》殖《ふ》ゑる、川上《かはかみ》は同級《どうきふ》に居《を》りましたので、此際《このさい》入社したのです、此《この》人は本郷《ほんごう》春木町《はるきちやう》に居《ゐ》て、石橋《いしばし》とは進文学舎《しんぶんがくしや》の同窓《どうそう》で、予備門《よびもん》にも同時《どうじ》に入学したのでありましたが、同好《どうこう》の士《ひと》であることは知らなかつたと見えて、是《これ》まで勧誘《くわんいう》もしなかつたのでありました、眉山人《びさんじん》と云《い》ふのは遥《はる》か後《のち》に改《あらた》めた名で、其頃《そのころ》は煙波散人《えんばさんじん》と云《い》つて居《ゐ》ました、
此《こ》の写本《しやほん》の挿絵《さしゑ》を担当《たんたう》した画家《ぐわか》は二人《ふたり》で、一人《ひとり》は積翠《せきすゐ》(工学士《こうがくし》大沢三之介《おほさはさんのすけ》君《くん》)一人《ひとり》は緑芽《りよくが》(法学士《はうがくし》松岡鉦吉《まつをかしやうきち》君《くん》)積翠《せきすゐ》は鉛筆画《えんぴつぐわ》が得意《とくい》で、水彩風《すゐさいふう》のも画《か》き、器用《きよう》で日本画《にほんぐわ》も遣《や》つた、緑芽《りよくが》は容斎風《ようさいふう》を善《よ》く画《か》いたが、素人画《しろうとゑ》では無いのでありました、
さて我楽多文庫《がらくたぶんこ》の名が漸《やうや》く書生間《しよせいかん》に知れ渡《わた》つて来たので、四方《しはう》から入会を申込《まをしこ》む、社運隆盛[#「社運隆盛」に丸傍点]といふ語《ことば》を石橋《いしばし》が口癖《くちぐせ》のやうに言つて喜《よろこ》んで居《ゐ》たのは此頃《このころ》でした、一冊《いつさつ》の本を三四十人して見るのでは一人《ひとり》一日《いちにち》としても一月余《ひとつきよ》かゝるので、これでは奈何《どう》もならぬと云《い》ふので、機《き》も熟《じゆく》したのであるから、印行《いんかう》して頒布《はんぷ》する事に為《し》たいと云《い》ふ説《せつ》が我々《われ/\》三名《さんめい》の間《あひだ》に起《おこ》つた、因《そこ》で、今迄《いまゝで》は毎月《まいげつ》三銭《さんせん》かの会費《くわいひ》であつたのが、俄《にはか》に十|銭《せん》と引上《ひきあ》げて、四六|版《ばん》三十二|頁《ページ》許《ばかり》の雑誌《ざつし》を拵《こしら》へる計画《けいくわく》で、猶《なほ》広《ひろ》く社員を募集《ぼしう》したところ、稍《やゝ》百|名《めい》許《ばかり》を得《え》たのでした、此《この》時などは実に日夜《にちや》眠《ねむ》らぬほどの経営《けいえい》で、又《また》石橋《いしばし》の奔走《ほんそう》は目覚《めざま》しいものでした、出版の事は一切《いつさい》山田《やまだ》が担任《たんにん》で、神田《かんだ》今川小路《いまがはかうぢ》の金玉出版会社《きんぎよくしゆつぱんくわいしや》と云《い》ふのに掛合《かけあ》ひました、是《これ》は山田《やまだ》が前年《ぜんねん》既《すで》に一二の新躰詩集《しんたいししう》を公《おほやけ》にして、同会社《どうくわいしや》を識《し》つて居《ゐ》る縁《えん》から此《
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