こゝ》へ持込《もちこ》んだので、此《この》社は曩《さき》に稗史出版会社《はいししゆつぱんくわいしや》予約《よやく》の八犬伝《はつけんでん》を印刷《いんさつ》した事が有《ある》のです、山田《やまだ》は既《すで》に其作《そのさく》を版行《はんかう》した味《あぢ》を知つて居《ゐ》るが、石橋《いしばし》と私《わたし》とは今度《こんど》が皮切《かはきり》なので、尤《もつと》も石橋《いしばし》は前から団珍《まるちん》などに内々《ない/\》投書《とうしよ》して居《ゐ》たのであつたが、隠《かく》して見せなかつた、山田《やまだ》も読売新聞《よみうりしんぶん》へは大分《だいぶ》寄書《きしよ》して居《ゐ》ました、私《わたし》は天にも地にも唯《たゞ》一度《いちど》頴才新誌《えいさいしんし》と云《い》ふのに柳《やなぎ》を咏《えい》じた七言絶句《しちごんぜつく》を出した事が有るが、其外《そのほか》には何《なに》も無い、
扨《さて》雑誌を出すに就《つい》ては、前々《ぜん/\》から編輯《へんしう》の方《はう》は山田《やまだ》と私《わたし》とが引受《ひきう》けて、石橋《いしばし》は専《もつぱ》ら庶務《しよむ》を扱《あつか》つて居《ゐ》たので、此《こ》の三人《さんにん》を署名人《しよめいにん》として、明治十九年の春に改《あらた》めて我楽多文庫《がらくたぶんこ》第壱号《だいいちがう》として出版した、是《これ》が写本《しやほん》の十|号《がう》に当《あた》るので、表題《ひやうだい》は山田《やまだ》が隷書《れいしよ》で書きました、之《これ》に載《の》せた山田《やまだ》の小説が言文一致《げんぶんいつち》で、私《わたし》の見たのでは言文一致《げんぶんいつち》の小説は是《これ》が嚆矢《はじめ》でした、
此《こ》の雑誌も九号《くがう》迄《まで》は続きましたが、依様《やはり》十号から慾《よく》が出て、会員に頒布《はんぷ》する位《くらゐ》では面白《おもしろ》くないから、価《あたひ》を廉《やす》くして盛《さかん》に売出《うりだ》して見やうと云《い》ふので、今度《こんど》は四六|倍《ばい》の大形《おほがた》にして、十二|頁《ページ》でしたか、十六|頁《ページ》でしたか、定価《ていか》が三|銭《せん》、小説の挿絵《さしゑ》を二|面《めん》入れました、之《これ》より先《さき》四六|版《ばん》時代《じだい》に今《いま》一人《ひとり》画家《ぐわか》が加《くはゝ》りました、横浜《よこはま》の商館番頭《しやうくわんばんとう》で夢《ゆめ》のやうつゝと云《い》ふ名、実名《じつめい》は忘《わす》れましたが、素人《しろうと》にしては善《よ》く画《か》きました、其後《そのご》独逸《どいつ》へ行つて、今では若松《わかまつ》の製鉄所《せいてつじよ》とやらに居《ゐ》ると聞いたが、消息《せうそく》を詳《つまびらか》にしません、
四六|版《ばん》から四六|倍《ばい》の雑誌に移《うつ》る迄《まで》には大分《だいぶ》沿革《えんかく》が有るのですが、今は能《よ》く覚えません、印刷所《いんさつじよ》も飯田町《いひだまち》の中坂《なかさか》に在《あ》る同益社《どうえきしや》と云《い》ふのに易《か》へて、其頃《そのころ》私《わたし》は山田《やまだ》の家《うち》を出て四番町《よんばんちやう》の親戚《しんせき》に寄寓《きぐう》して居《ゐ》ましたから、石橋《いしばし》と計《はか》つて、同益社《どうえきしや》の真向《まむかう》に一軒《いつけん》の家《いへ》を借《か》りて、之《これ》に我楽多文庫《がらくたぶんこ》発行所《はつかうしよ》硯友社《けんいうしや》なる看板《かんばん》を上げたのでした、雑誌も既《すで》に売品《ばいひん》と成《な》つた以上《いじやう》は、売捌《うりさばき》の都合《つがふ》や何《なに》や彼《か》やで店らしい者が無ければならぬ、因《そこ》で酷算段《ひどさんだん》をして一軒《いつけん》借《か》りて、二階《にかい》を編輯室《へんしうしつ》、下を応接所《おうせつしよ》兼《けん》売捌場《うりさばきぢやう》に充《あ》てゝ、石橋《いしばし》と私《わたし》とが交《かは》る/″\詰《つ》める事にして、別《べつ》に会計掛《くわいけいがゝり》を置き、留守居《るすゐ》を置き、市内《しない》を卸売《おろしうり》に行《ある》く者を傭《やと》ひ其《その》勢《いきほひ》旭《あさひ》の昇《のぼ》るが如《ごと》しでした、外《ほか》に類《るゐ》が無かつたのか雑誌も能《よ》く売れました、毎号《まいがう》三千《さんぜん》づゝも刷《す》るやうな訳《わけ》で、未《いま》だ勉《つと》めて拡張《かくちやう》すれば非常《ひじやう》なものであつたのを、無勘定《むかんじやう》の面白半分《おもしろはんぶん》で遣《や》つて居《ゐ》た為《ため》に、竟《つひ》に大事《だいじ》を去《さ》らせたとは後《のち》にぞ思合《おもひあは》されたのです、今だに一《ひと》つ話《ばなし》に残《のこ》つて居《ゐ》るのは、此際《このさい》の事です、何《なん》でも雑誌を売らなければ可《い》かんと云《い》ふので、発行日《はつかうび》には石橋《いしばし》も私《わたし》も鞄《かばん》の中へ何十部《なんじふぶ》と詰《つ》め込《こ》んで、而《さう》して学校へ出る、休憩時間《きふけいじかん》には控所《ひかえじよ》の大勢《おほぜい》の中を奔走《ほんそう》して売付《うりつ》けるのです、其頃《そのころ》学習院《がくしうゐん》が類焼《るいしやう》して当分《たうぶん》高等中学《こうとうちうがく》に合併《がつぺい》して居《ゐ》ましたから、此《こゝ》へも持つて行つて推売《おしう》るのです、学生時代《がくせいじだい》の石橋《いしばし》と云《い》ふ者は実に顔が広かつたし、且《かつ》前《ぜん》に学習院《がくしうゐん》に居《ゐ》た事があるので、善《よ》く売りました、第一《だいいち》其《そ》の形《かたち》と云《い》ふものが余程《よほど》可笑《をかし》い、石橋《いしばし》が鼻目鏡《はなめがね》を掛《か》けて今こそ流行《はや》るけれど、其頃《そのころ》は着手《きて》の無いインパネスの最《もう》一倍《いちばい》袖《そで》の短《みじか》いのを被《き》て雑誌を持つて廻《まわ》る、私《わたし》は又《また》紫《むらさき》ヅボンと云《いは》れて、柳原《やなぎはら》仕入《しいれ》の染返《そめかへし》の紺《こん》ヘルだから、日常《ひなた》に出ると紫色《むらさきいろ》に見える奴《やつ》を穿《は》いて、外套《ぐわいたう》は日蔭町物《ひかげちやうもの》の茶羅紗《ちやらしや》を黄《き》に返《かへ》したやうな、重《おも》いボテ/\したのを着て、現金《げんきん》でなくちや可《い》かんよとなどゝ絶叫《ぜつけう》する様《さま》は、得易《えやす》からざる奇観《きくわん》であつたらうと想《おも》はれる、這麼《こんな》風《ふう》で中坂《なかさか》に社《しや》を設《まう》けてからは、石橋《いしばし》と私《わたし》とが一切《いつさい》を処理《しより》して、山田《やまだ》は毎号《まいごう》一篇《いつぺん》の小説を書くばかりで、前のやうに社に対《たい》して密《みつ》なる関係《くわんけい》を持たなかつた、と云《い》ふのが、山田《やまだ》は元来《ぐわんらい》閉戸主義《へいこしゆぎ》であつたから、其《そ》の躯《からだ》が恁《かう》云《い》ふ雑務《ざつむ》に鞅掌《わうしやう》するのを許《ゆる》さぬので、自《おのづ》から遠《とほざ》かるやうに成《な》つたのであります、
漣山人《さゞなみさんじん》は此頃《このごろ》入社したので、夙《かね》て一六翁《いちろくおう》の三男《さんなん》に其人《そのひと》有りとは聞いて居《ゐ》たが、顔を見た事も無かつたのであつた所、社員の内《うち》に山人《さんじん》と善《よ》く識《し》る者が有つて、此《この》人の紹介《せうかい》で社中《しやちう》に加はる事になつたのでした、其頃《そのころ》巌谷《いはや》は独逸協会学校《どいつけふくわいがくかう》に居《ゐ》まして、お坊《ばう》さんの成人《せいじん》したやうな少年で、始《はじめ》て編輯室《へんしうしつ》に来たのは学校の帰途《かへり》で、黒羅紗《くろらしや》の制服《せいふく》を着て居《ゐ》ました、此《この》人は何《なん》でも十三四の頃《ころ》から読売新聞《よみうりしんぶん》に寄書《きしよ》して居《ゐ》たので、其《そ》の文章《ぶんしやう》を見た目で此《この》人を看《み》ると、丸《まる》で虚《うそ》のやうな想《おもひ》がしました、後《のち》に巌谷《いはや》も此《こ》の初対面《しよたいめん》の時の事を言出《いひだ》して、私《わたし》の人物《じんぶつ》が全《まつた》く想像《さうざう》と反《はん》して居《ゐ》たのに驚《おどろ》いたと云《い》ひます、甚麼《どんな》に反《はん》して居《ゐ》たか聞きたいものですが、ちと遠方《ゑんぱう》で今|問合《とひあは》せる訳《わけ》にも行《ゆ》きません、
巌谷《いはや》の紹介《せうかい》で入社したのが江見水蔭《えみすゐいん》です、此《この》人は杉浦氏《すぎうらし》の称好塾《せうこうじゆく》に於《お》ける巌谷《いはや》の莫逆《ばくぎやく》で、其《そ》の素志《そし》と云《い》ふのが、万巻《ばんくわん》の書を読まずんば、須《すべから》く千里《せんり》の道を行《ゆ》くべしと、常《つね》に好《この》んで山川《さんせん》を跋渉《ばつせふ》し、内《うち》に在《あ》れば必《かなら》ず筆《ふで》を取つて書いて居《ゐ》る好者《すきもの》と、巌谷《いはや》から噂《うはさ》の有つた其《その》人で、始《はじめ》て社に訪《とは》れた時は紺羅紗《こんらしや》の古羽織《ふるばおり》に托鉢僧《たくはつそう》のやうな大笠《おほがさ》を冠《かぶ》つて、六歩《ろつぱう》を踏《ふ》むやうな手付《てつき》をして振込《ふりこ》んで来たのです、文章を書くと云《い》ふよりは柔術《やはら》を取りさうな恰好《かつかう》で、其頃《そのころ》は水蔭亭主人《すゐいんていしゆじん》と名宣《なの》つて居《ゐ》ました、
扨《さて》雑誌は益※[#二の字点、1−2−22]《ます/\》売れるのであつたが、会計《くわいけい》の不取締《ふとりしまり》と一《ひと》つには卸売《おろしうり》に行《ある》かせた親仁《おやじ》が篤実《とくじつ》さうに見えて、実は甚《はなは》だ太《ふと》い奴《やつ》であつたのを知らずに居《ゐ》た為《ため》に、此奴《こいつ》に余程《よほど》好《よ》いやうな事を為《さ》れたのです、畢竟《つまり》売捌《うりさばき》の方法が疎略《そりやく》であつた為《ため》に、勘定《かんじやう》合つて銭《ぜに》足《た》らずで、毎号《まいがう》屹々《きつ/\》と印刷費《いんさつひ》を払《はら》つて行つたのが、段々《だん/\》不如意《ふによい》と成《な》つて、二号《にがう》おくれ三|号《がう》おくれと逐《おは》れる有様《ありさま》、それでも同益社《どうえきしや》では石橋《いしばし》の身元《みもと》を知つて居《ゐ》るから強い督促《とくそく》も為《せ》ず、続いて出版を引受《ひきう》けて居《ゐ》たのです、此《こ》の雑誌は廿《にぢう》一年の五月|廿《にぢう》五日の出版《しゆつぱん》で、月二回の発行で、是《これ》も九|号《がう》迄《まで》続いて、拾号《じふがう》からは又《また》大いに躰裁《ていさい》を改《あらた》めて(十月|廿《にぢう》五日|出版《しゆつぱん》)頁数《ページすう》を倍《ばい》にして、別表紙《べつびやうし》を附《つ》けて、別摺《べつずり》の挿画《さしゑ》を二|枚《まい》入れて、定価《ていか》を十|銭《せん》に上げました、表紙は朱摺《しゆずり》の古作者印譜《こさくしやいんぷ》の模様《もやう》で、形《かたち》は四六|倍《ばい》、然《さ》して紙数《しすう》は無かつたけれど、素人《しろうと》の手拵《てごしらえ》にした物としては、頗《すこぶ》る上出来《じやうでき》で、好雑誌《こうざつし》と云《い》ふ評《ひやう》が有つたので、是《これ》が我楽多文庫《がらくたぶんこ》の第四期です、
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング