の第一が此《こ》の吉岡君《よしをかくん》、則《すなは》ち新著百種《しんちよひやくしゆ》の出版元《しゆつぱんもと》です、第二は文学士《ぶんがくし》高田早苗《たかださなゑ》君《くん》、私《わたし》が読売新聞《よみうりしんぶん》に薦《すゝ》められた、第三は春陽堂《しゆんやうどう》の主人|故《こ》和田篤太郎《わだとくたらう》君《くん》、私《わたし》の新聞に出した小説を必《かなら》ず出版《しゆつぱん》した人、其《そ》の吉岡君《よしをかくん》が来て、毎号《まいがう》一篇《いつぺん》を載《の》せる小説雑誌を出したいと云《い》ふ話、そこで新著百種《しんちよひやくしゆ》と名《なづ》けて、私《わたし》が初篇《しよへん》を書く事に成《な》つて、二十二年の二月に色懺悔《いろざんげ》を出したのです、私《わたし》が春《はる》のや君《くん》に面会《めんくわい》したのも、篁村君《くわうそんくん》を識《し》つたのも、此《こ》の新著百種《しんちよひやくしゆ》の編輯上《へんしうじやう》の関係からです、それから又《また》此《こ》の編輯時代《へんしうじだい》に四人《よにん》の社中《しやちう》を得《え》た、武内桂舟《たけのうちけいしう》、広津柳浪《ひろつりうらう》、渡部乙羽《わたなべおとは》、外《ほか》に未《ま》だ一人《ひとり》故人《こじん》に成《な》つた中村花痩《なかむらくわさう》、此《この》人は我楽多文庫《がらくたぶんこ》の第《だい》二|期《き》の頃《ころ》既《すで》に入社して居《ゐ》たのであるが、文庫《ぶんこ》には書いた物を出さなかつた、俳諧《はいかい》は社中《しやちう》の先輩《せんぱい》であつたから、戯《たはむれ》に宗匠《そうせう》と呼《よ》んで居《ゐ》た、神田《かんだ》の五十稲荷《ごとふいなり》の裏《うら》に住《す》んで、庭《には》に古池《ふるいけ》が在《あ》つて、其《その》畔《ほとり》に大《おほ》きな秋田蕗《あきたふき》が茂《しげ》つて居《ゐ》たので、皆《みな》が無理《むり》に蕗《ふき》の本宗匠《もとそうせう》にして了《しま》つたのです、前名《ぜんめう》は柳園《りうゑん》と云《い》つて、中央新聞《ちうわうしんぶん》が創立《そうりつ》の頃《ころ》に処女作《しよぢよさく》を出した事が有る、其《それ》に継《つ》いでは新著百種《しんちよひやくしゆ》の末頃《すゑごろ》に離鴛鴦《はなれをし》と云《い》ふのを書
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