》と硯友社《けんいうしや》との縁《えん》は都《みやこ》の花《はな》の発行と与《とも》に断《たゝ》れて了《しま》つたのです、刮目《くわつもく》して待つて居《を》ると、都《みやこ》の花《はな》なる者が出た、本も立派《りつぱ》なれば、手揃《てぞろひ》でもあつた、而《さう》して巻頭《くわんたう》が山田《やまだ》の文章、憎《にく》むべき敵《てき》ながらも天晴《あつぱれ》書きをつた、彼《かれ》の文章は確《たしか》に二三|段《だん》進んだと見た、さあ到《いた》る処《ところ》都《みやこ》の花《はな》の評判で、然《さ》しも全盛《ぜんせい》を極《きは》めたりし我楽多文庫《がらくたぶんこ》も俄《にはか》に月夜《げつや》の提灯《てうちん》と成《な》つた、けれども火は消《き》えずに、十三、十四、十五、(翌《よく》二十二年の二月|出版《しゆつぱん》)と持支《もちこた》へたが、それで到頭《たう/\》落城《らくじやう》して了《しま》つたのです、此《こ》の滅亡《めつばう》に就《つ》いては三つの原因《げんいん》が有るので、(一)は印刷費《いんさつひ》の負債《ふさい》、(二)は編輯《へんしう》と会計との事務《じむ》が煩雑《はんざつ》に成《な》つて来て、修学《しうがく》の片手業《かたてま》に余《あま》るのと、(三)は金港堂《きんこうどう》の優勢《いうせい》に圧《おさ》れたのです、それでも未《ま》だ経済《けいざい》の立たんやうな事は無かつたのです、然《しか》し労《らう》多《おほ》くして収《をさ》むる所が極《きは》めて少いから可厭《いや》に成《な》つて了《しま》つたので、石橋《いしばし》と私《わたし》と連印《れんいん》で、同益社《どうえきしや》へは卅円《さんぢうゑん》の月賦《げつぷ》かにした二|百円《ひやくゑん》余《よ》の借用証文《しやくようしやうもん》を入れて、それで中坂《なかさか》の店を閉ぢて退転《たいてん》したのです、
此《こ》の前年《ぜんねん》の末《すゑ》に私《わたし》を訪《たづ》ねて来たのが、神田《かんだ》南乗物町《みなみのりものちやう》の吉岡書籍店《よしをかしよじやくてん》の主人《しゆじん》、理学士《りがくし》吉岡哲太郎《よしをかてつたらう》君《くん》です、私《わたし》が文壇《ぶんだん》に立つに就《つ》いては、前後《ぜんご》三人《さんにん》の紹介者《せうかいしや》を労《わづらは》したので、其《そ》
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