いたが、那《それ》が名を成《な》す端緒《たんちよ》であつたかと思ふ、
武内《たけのうち》と識《し》つたのは、新著百種《しんちよひやくしゆ》の挿絵《さしゑ》を頼《たの》みに行つたのが縁《ゑん》で、酷《ひど》く懇意《こんい》に成《な》つて了《しま》つたが、其始《そのはじめ》は画《ゑ》より人物に惚《ほ》れたので、其頃《そのころ》武内《たけのうち》は富士見町《ふじみちやう》の薄闇《うすぐら》い長屋《ながや》の鼠《ねづみ》の巣《す》見たやうな中《うち》に燻《くすぶ》つて居《ゐ》ながら太平楽《たいへいらく》を抒《なら》べる元気が凡《ぼん》でなかつた、
広津《ひろつ》と知つたのは、廿《にぢう》一年の春であつたか、少年園《せうねんゑん》の宴会《ゑんくわい》が不忍池《しのばず》の長※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]亭《ちやうだてい》に在《あ》つて、其《そ》の席上《せきじやう》で相識《ちかづき》に成《な》つたのでした、其頃《そのころ》博文館《はくぶんくわん》が大和錦《やまとにしき》と云《い》ふ小説雑誌を出して居《ゐ》て、広津《ひろつ》が編輯主任《へんしうしゆにん》でありました、乙羽庵《おとはあん》は始め二橋散史《にけうさんし》と名《なの》つて石橋《いしばし》を便《たよ》つて来たのです、其《その》時は累卵之東洋的《るいらんのとうやうてき》悲憤文字《ひふんもんじ》を書いて居《ゐ》たのを、石橋《いしばし》から硯友社《けんいうしや》へ紹介《せうかい》して、後《のち》に新著百種《しんちよひやくしゆ》に露小袖《つゆこそで》と云《い》ふのを載《の》せました、
それから一時《いちじ》中絶《ちうぜつ》した我楽多文庫《がらくたぶんこ》です、吉岡書籍店《よしをかしよじやくてん》が引受《ひきう》けて見たいと云《い》ふので、直《ぢき》に再興《さいこう》させて、文庫《ぶんこ》と改題《かいだい》して、形《かた》を菊版《きくばん》に直《なほ》しました、是《これ》は新著百種《しんちよひやくしゆ》の壱号《いちがう》が出ると間《ま》も無く発行《はつかう》したので、我楽多文庫《がらくたぶんこ》の第五期《だいごき》に成《な》る、表画《ひやうぐわ》は故《こ》穂庵翁《すゐあんおう》の筆で文昌星《ぶんしやうせい》の図《づ》でした、是《これ》が前《さき》の廃刊《はいかん》した号を追つて、二十二|号《がう》迄《まで》出して、二十
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