《さ》らせたとは後《のち》にぞ思合《おもひあは》されたのです、今だに一《ひと》つ話《ばなし》に残《のこ》つて居《ゐ》るのは、此際《このさい》の事です、何《なん》でも雑誌を売らなければ可《い》かんと云《い》ふので、発行日《はつかうび》には石橋《いしばし》も私《わたし》も鞄《かばん》の中へ何十部《なんじふぶ》と詰《つ》め込《こ》んで、而《さう》して学校へ出る、休憩時間《きふけいじかん》には控所《ひかえじよ》の大勢《おほぜい》の中を奔走《ほんそう》して売付《うりつ》けるのです、其頃《そのころ》学習院《がくしうゐん》が類焼《るいしやう》して当分《たうぶん》高等中学《こうとうちうがく》に合併《がつぺい》して居《ゐ》ましたから、此《こゝ》へも持つて行つて推売《おしう》るのです、学生時代《がくせいじだい》の石橋《いしばし》と云《い》ふ者は実に顔が広かつたし、且《かつ》前《ぜん》に学習院《がくしうゐん》に居《ゐ》た事があるので、善《よ》く売りました、第一《だいいち》其《そ》の形《かたち》と云《い》ふものが余程《よほど》可笑《をかし》い、石橋《いしばし》が鼻目鏡《はなめがね》を掛《か》けて今こそ流行《はや》るけれど、其頃《そのころ》は着手《きて》の無いインパネスの最《もう》一倍《いちばい》袖《そで》の短《みじか》いのを被《き》て雑誌を持つて廻《まわ》る、私《わたし》は又《また》紫《むらさき》ヅボンと云《いは》れて、柳原《やなぎはら》仕入《しいれ》の染返《そめかへし》の紺《こん》ヘルだから、日常《ひなた》に出ると紫色《むらさきいろ》に見える奴《やつ》を穿《は》いて、外套《ぐわいたう》は日蔭町物《ひかげちやうもの》の茶羅紗《ちやらしや》を黄《き》に返《かへ》したやうな、重《おも》いボテ/\したのを着て、現金《げんきん》でなくちや可《い》かんよとなどゝ絶叫《ぜつけう》する様《さま》は、得易《えやす》からざる奇観《きくわん》であつたらうと想《おも》はれる、這麼《こんな》風《ふう》で中坂《なかさか》に社《しや》を設《まう》けてからは、石橋《いしばし》と私《わたし》とが一切《いつさい》を処理《しより》して、山田《やまだ》は毎号《まいごう》一篇《いつぺん》の小説を書くばかりで、前のやうに社に対《たい》して密《みつ》なる関係《くわんけい》を持たなかつた、と云《い》ふのが、山田《やまだ》は元来《ぐわん
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