。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして遣《や》るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児《みなしご》でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
貫一は蹈留《ふみとどま》りて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣《きづかは》しげにその顔を差覗《さしのぞ》きぬ。
「堪忍して下さいよ、皆《みんな》私が……どうぞ堪忍して下さい」
貫一の手に縋《すが》りて、忽《たちま》ちその肩に面《おもて》を推当《おしあ》つると見れば、彼も泣音《なくね》を洩《もら》すなりけり。波は漾々《ようよう》として遠く烟《けむ》り、月は朧《おぼろ》に一湾の真砂《まさご》を照して、空も汀《みぎは》も淡白《うすじろ》き中に、立尽せる二人の姿は墨の滴《したた》りたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、これは一方には翁《をぢ》さんが僕を説いて、お前さんの方は姨《をば》さんが説得しやうと云ふので、無理に此処《ここ》へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々《はいはい》と言つて聞いてゐたけれど、宮《みい》さんは幾多《いくら》でも剛情を張つて差支《さしつかへ》無いのだ。どうあつても可厭《いや》だとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて了《しま》ふのだ。僕が傍《そば》に居ると智慧《ちゑ》を付けて邪魔を為《す》ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計《はかりごと》だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜《ゆふべ》は夜一夜《よつぴて》寐《ね》はしない、そんな事は万々《ばんばん》有るまいけれど、種々《いろいろ》言はれる為に可厭《いや》と言はれない義理になつて、若《もし》や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家《うち》は学校へ出る積《つもり》で、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処《どこ》に在る!! 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知《し》……知……知らなかつた」
宮は可悲《かなしさ》と可懼《おそろしさ》に襲はれて少《すこし》く声さへ立てて泣きぬ。
憤《いかり》を抑《おさ》ふる貫一の呼吸は漸《やうや》く乱れたり。
「宮《みい》さん、お前は好くも僕を欺いたね」
宮は覚えず慄《をのの》けり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
「余《あんま》り邪推が過ぎるわ、余り酷《ひど》いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
泣入る宮を尻目に挂《か》けて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為《せ》んよ。
お前が得心せんものなら、此地《ここ》へ来るに就いて僕に一言《いちごん》も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来《よこ》すが可いぢやないか。出抜《だしぬ》いて家を出るばかりか、何の便《たより》も為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈《てはず》になつてゐたのだ。或《あるひ》は一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦《かんぷ》だよ。姦通《かんつう》したも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、余《あんま》りだわ、余りだわ」
彼は正体も無く泣頽《なきくづ》れつつ、寄らんとするを貫一は突退《つきの》けて、
「操《みさを》を破れば奸婦ぢやあるまいか」
「何時《いつ》私が操を破つて?」
「幾許《いくら》大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻《さい》が操を破る傍《そば》に付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ歴《れき》とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所《よそ》の男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処《どこ》に在る?」
「さう言はれて了《しま》ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等《わたしたち》が此地《こつち》に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
宮はその唇《くちびる》に釘《くぎ》打たれたるやうに再び言《ことば》は出《い》でざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず過《あやまち》を悔い、罪を詫《わ》びて、その身は未《おろ》か命までも己《おのれ》の欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰《こころひそか》に望みたりしならん。如何《いか》にぞや、彼は露ばかりもさせる気色《けしき》は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変《こころがはり》を、貫一はなかなか信《まこと》しからず覚ゆるまでに呆《あき》れたり。
宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛《いとをし》みし人は芥《あくた》の如く我を悪《にく》めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤《いかり》は彼の胸を劈《つんざ》きて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を啖《くら》ひて、この熱膓《ねつちよう》を冷《さま》さんとも思へり。忽《たちま》ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪《えた》へずして尻居に僵《たふ》れたり。
宮は見るより驚く遑《いとま》もあらず、諸共《もろとも》に砂に塗《まび》れて掻抱《かきいだ》けば、閉ぢたる眼《まなこ》より乱落《はふりお》つる涙に浸れる灰色の頬《ほほ》を、月の光は悲しげに彷徨《さまよ》ひて、迫れる息は凄《すさまし》く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後《うしろ》より取縋《とりすが》り、抱緊《いだきし》め、撼動《ゆりうごか》して、戦《をのの》く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇《ねんごろ》に拭《ぬぐ》ひたり。
「吁《ああ》、宮《みい》さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処《どこ》でこの月を見るのだか! 再来年《さらいねん》の今月今夜……十年|後《のち》の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
宮は挫《ひし》ぐばかりに貫一に取着きて、物狂《ものぐるはし》う咽入《むせびい》りぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚《なか》の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余《あんま》り言難《いひにく》い事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言《たつたひとこと》いひたいのは、私は貴方《あなた》の事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰《ゆ》くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も少《すこ》し辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、狼狽《うろた》へてくだらんことを言ふな。食ふに窮《こま》つて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に帰《ゆ》くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処《そこ》の一人娘ぢやないか、さうして婿まで極《きま》つてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰《ゆ》かなければならんのだ。天下にこれくらゐ理《わけ》の解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に帰《ゆ》くべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰《ゆ》かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件《ふたつ》の外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要《い》らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それは余《あんま》りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山が財《かね》があるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
翁《をぢ》さん姨《をば》さんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方《ほう》は幾許《いくら》もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊《ぶちこは》して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適《い》つて見る気は有るのかい」
貫一の眼《まなこ》はその全身の力を聚《あつ》めて、思悩める宮が顔を鋭く打目戍《うちまも》れり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息《ためいき》したり。
「宜《よろし》い、もう宜い。お前の心は能く解つた」
今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按《うちあん》じつつも、彼は乱るる胸を寛《ゆる》うせんが為に、強《し》ひて目を放ちて海の方《かた》を眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は傍《かたはら》に在らずして、六七間|後《あと》なる波打際《なみうちぎは》に面《おもて》を掩《おほ》ひて泣けるなり。
可悩《なやま》しげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、※[#「※」は「森」のように「水」が3つ、71−16]々《びようびよう》たる海の端《はし》の白く頽《くづ》れて波と打寄せたる、艶《えん》に哀《あはれ》を尽せる風情《ふぜい》に、貫一は憤《いかり》をも恨をも忘れて、少時《しばし》は画を看《み》る如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
彼は頭《かしら》を低《た》れて足の向ふままに汀《みぎは》の方《かた》へ進行きしが、泣く泣く歩来《あゆみきた》れる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は些《ちつと》も泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
殆《ほとん》ど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、財《かね》なのだね。如何《いか》に何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相《あいそう》は尽きないかい。
好《い》い出世をして、さぞ栄耀《えよう》も出来て、お前はそれで可からうけれど、財《かね》に見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂《い》はうか、口惜《くちをし》いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺《さしころ》して――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。それを怺《こら》へてお前を人に奪《とら》れるのを手出しも為《せ》ずに見てゐる僕の心地《こころもち》は、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければ他《ひと
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