金色夜叉《こんじきやしや》
尾崎紅葉

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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)金色夜叉《こんじきやしや》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)女たちは皆|猜《そね》みつつも

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(例)※[#「※」は「厭/食」、63−8]《あ》く
[#外字の説明で、記号「/」は上下に並ぶ文字。
  また「へん」は省略してある(「口+」は「くちへん+」のこと)]

*:伏せ字
(例)**よりも賤《いやし》むべき
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      目  次

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    続 金 色 夜 叉
    続 続 金 色 夜 叉
    新 続 金 色 夜 叉

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     第 一 章

 未《ま》だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠《さしこ》めて、真直《ますぐ》に長く東より西に横《よこた》はれる大道《だいどう》は掃きたるやうに物の影を留《とど》めず、いと寂《さびし》くも往来《ゆきき》の絶えたるに、例ならず繁《しげ》き車輪《くるま》の輾《きしり》は、或《あるひ》は忙《せはし》かりし、或《あるひ》は飲過ぎし年賀の帰来《かへり》なるべく、疎《まばら》に寄する獅子太鼓《ししだいこ》の遠響《とほひびき》は、はや今日に尽きぬる三箇日《さんがにち》を惜むが如く、その哀切《あはれさ》に小《ちひさ》き膓《はらわた》は断《たた》れぬべし。
 元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌《しる》されたる日記を涜《けが》して、この黄昏《たそがれ》より凩《こがらし》は戦出《そよぎい》でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥《なだ》むる者無きより、憤《いかり》をも増したるやうに飾竹《かざりだけ》を吹靡《ふきなび》けつつ、乾《から》びたる葉を粗《はした》なげに鳴して、吼《ほ》えては走行《はしりゆ》き、狂ひては引返し、揉《も》みに揉んで独《ひと》り散々に騒げり。微曇《ほのぐも》りし空はこれが為に眠《ねむり》を覚《さま》されたる気色《けしき》にて、銀梨子地《ぎんなしぢ》の如く無数の星を顕《あらは》して、鋭く沍《さ》えたる光は寒気《かんき》を発《はな》つかと想《おも》はしむるまでに、その薄明《うすあかり》に曝《さら》さるる夜の街《ちまた》は殆《ほとん》ど氷らんとすなり。
 人この裏《うち》に立ちて寥々冥々《りようりようめいめい》たる四望の間に、争《いかで》か那《な》の世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重《きゆうちよう》の天、八際《はつさい》の地、始めて混沌《こんとん》の境《さかひ》を出《い》でたりといへども、万物|未《いま》だ尽《ことごと》く化生《かせい》せず、風は試《こころみ》に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫《ただみだり》に※[#「※」は「しんにょう+貌」、8−4]《ひろ》く横《よこた》はれるに過ぎざる哉《かな》。日の中《うち》は宛然《さながら》沸くが如く楽み、謳《うた》ひ、酔《ゑ》ひ、戯《たはむ》れ、歓《よろこ》び、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は儚《はかな》くも夏果てし孑孑《ぼうふり》の形を歛《をさ》めて、今将《いまはた》何処《いづく》に如何《いか》にして在るかを疑はざらんとするも難《かた》からずや。多時《しばらく》静なりし後《のち》、遙《はるか》に拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃|忽《たちま》ち一点の燈火《ともしび》は見え初《そ》めしが、揺々《ゆらゆら》と町の尽頭《はづれ》を横截《よこぎ》りて失《う》せぬ。再び寒き風は寂《さびし》き星月夜を擅《ほしいまま》に吹くのみなりけり。唯有《とあ》る小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間《ひあはひ》の下水口より噴出《ふきい》づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温《ぬくもり》の四方に溢《あふ》るるとともに、垢臭《あかくさ》き悪気の盛《さかん》に迸《ほとばし》るに遭《あ》へる綱引の車あり。勢ひで角《かど》より曲り来にければ、避くべき遑無《いとまな》くてその中を駈抜《かけぬ》けたり。
「うむ、臭い」
 車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
 車夫のかく答へし後は語《ことば》絶えて、車は驀直《ましぐら》に走れり、紳士は二重外套《にじゆうがいとう》の袖《そで》を犇《ひし》と掻合《かきあは》せて、獺《かはうそ》の衿皮《えりかは》の内に耳より深く面《おもて》を埋《うづ》めたり。灰色の毛皮の敷物の端《はし》を車の後に垂れて、横縞《よこじま》の華麗《はなやか》なる浮波織《ふはおり》の蔽膝《ひざかけ》して、提灯《ちようちん》の徽章《しるし》はTの花文字を二個《ふたつ》組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭《はづれ》を北に折れ、稍《やや》広き街《とほり》に出《い》でしを、僅《わづか》に走りて又西に入《い》り、その南側の半程《なかほど》に箕輪《みのわ》と記《しる》したる軒燈《のきラムプ》を掲げて、※[#「※」は「炎+りっとう」、9−2]竹《そぎだけ》を飾れる門構《もんがまへ》の内に挽入《ひきい》れたり。玄関の障子に燈影《ひかげ》の映《さ》しながら、格子《こうし》は鎖固《さしかた》めたるを、車夫は打叩《うちたた》きて、
「頼む、頼む」
 奥の方《かた》なる響動《どよみ》の劇《はげし》きに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて訪《おとな》ひつつ、格子戸を連打《つづけうち》にすれば、やがて急足《いそぎあし》の音立てて人は出《い》で来《き》ぬ。
 円髷《まるわげ》に結ひたる四十ばかりの小《ちひさ》く痩《や》せて色白き女の、茶微塵《ちやみじん》の糸織の小袖《こそで》に黒の奉書紬《ほうしよつむぎ》の紋付の羽織着たるは、この家の内儀《ないぎ》なるべし。彼の忙《せは》しげに格子を啓《あく》るを待ちて、紳士は優然と内に入《い》らんとせしが、土間の一面に充満《みちみち》たる履物《はきもの》の杖《つゑ》を立つべき地さへあらざるに遅《ためら》へるを、彼は虚《すか》さず勤篤《まめやか》に下立《おりた》ちて、この敬ふべき賓《まらうど》の為に辛《から》くも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄《こまげた》のみは独《ひと》り障子の内に取入れられたり。

     (一) の 二

 箕輪《みのわ》の奥は十畳の客間と八畳の中の間《ま》とを打抜きて、広間の十個処《じつかしよ》に真鍮《しんちゆう》の燭台《しよくだい》を据ゑ、五十|目掛《めかけ》の蝋燭《ろうそく》は沖の漁火《いさりび》の如く燃えたるに、間毎《まごと》の天井に白銅鍍《ニッケルめつき》の空気ラムプを点《とも》したれば、四辺《あたり》は真昼より明《あきらか》に、人顔も眩《まばゆ》きまでに耀《かがや》き遍《わた》れり。三十人に余んぬる若き男女《なんによ》は二分《ふたわかれ》に輪作りて、今を盛《さかり》と歌留多遊《かるたあそび》を為《す》るなりけり。蝋燭の焔《ほのほ》と炭火の熱と多人数《たにんず》の熱蒸《いきれ》と混じたる一種の温気《うんき》は殆《ほとん》ど凝りて動かざる一間の内を、莨《たばこ》の煙《けふり》と燈火《ともしび》の油煙とは更《たがひ》に縺《もつ》れて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々の面《おもて》は皆赤うなりて、白粉《おしろい》の薄剥《うすは》げたるあり、髪の解《ほつ》れたるあり、衣《きぬ》の乱次《しどな》く着頽《きくづ》れたるあり。女は粧《よそほ》ひ飾りたれば、取乱したるが特《こと》に著るく見ゆるなり。男はシャツの腋《わき》の裂けたるも知らで胴衣《ちよつき》ばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば四《よつ》まで紙にて結《ゆ》ひたるもあり。さしも息苦き温気《うんき》も、咽《むせ》ばさるる煙《けふり》の渦も、皆狂して知らざる如く、寧《むし》ろ喜びて罵《ののし》り喚《わめ》く声、笑頽《わらひくづ》るる声、捩合《ねぢあ》ひ、踏破《ふみしだ》く犇《ひしめ》き、一斉に揚ぐる響動《どよみ》など、絶間無き騒動の中《うち》に狼藉《ろうぜき》として戯《たはむ》れ遊ぶ為体《ていたらく》は三綱五常《さんこうごじよう》も糸瓜《へちま》の皮と地に塗《まび》れて、唯《ただ》これ修羅道《しゆらどう》を打覆《ぶつくりかへ》したるばかりなり。
 海上風波の難に遭《あ》へる時、若干《そくばく》の油を取りて航路に澆《そそ》げば、浪《なみ》は奇《くし》くも忽《たちま》ち鎮《しづま》りて、船は九死を出《い》づべしとよ。今この如何《いかに》とも為《す》べからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王《によおう》あり。猛《たけ》びに猛ぶ男たちの心もその人の前には和《やはら》ぎて、終《つひ》に崇拝せざるはあらず。女たちは皆|猜《そね》みつつも畏《おそれ》を懐《いだ》けり。中の間なる団欒《まどゐ》の柱側《はしらわき》に座を占めて、重《おも》げに戴《いただ》ける夜会結《やかいむすび》に淡紫《うすむらさき》のリボン飾《かざり》して、小豆鼠《あづきねずみ》の縮緬《ちりめん》の羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を※[#「※」は「目+登」、10−13]《みは》りて、躬《みづから》は淑《しとや》かに引繕《ひきつくろ》へる娘あり。粧飾《つくり》より相貌《かほだち》まで水際立《みづぎはた》ちて、凡《ただ》ならず媚《こび》を含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名は普《あまね》く知られぬ。娘も数多《あまた》居たり。醜《みにく》きは、子守の借着したるか、茶番の姫君の戸惑《とまどひ》せるかと覚《おぼし》きもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。服装《みなり》は宮より数等《すとう》立派なるは数多《あまた》あり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の愛娘《まなむすめ》とて、最も不器量《ふきりよう》を極《きは》めて遺憾《いかん》なしと見えたるが、最も綺羅《きら》を飾りて、その起肩《いかりがた》に紋御召《もんおめし》の三枚襲《さんまいがさね》を被《かつ》ぎて、帯は紫根《しこん》の七糸《しちん》に百合《ゆり》の折枝《をりえだ》を縒金《よりきん》の盛上《もりあげ》にしたる、人々これが為に目も眩《く》れ、心も消えて眉《まゆ》を皺《しわ》めぬ。この外|種々《さまざま》色々の絢爛《きらびやか》なる中に立交《たちまじ》らひては、宮の装《よそほひ》は纔《わづか》に暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何《いか》なる美《うつくし》き染色《そめいろ》をも奪ひて、彼の整へる面《おもて》は如何なる麗《うるはし》き織物よりも文章《あや》ありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きを蔽《おほ》ふ能《あた》はざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
 袋棚《ふくろだな》と障子との片隅《かたすみ》に手炉《てあぶり》を囲みて、蜜柑《みかん》を剥《む》きつつ語《かたら》ふ男の一個《ひとり》は、彼の横顔を恍惚《ほれぼれ》と遙《はるか》に見入りたりしが、遂《つひ》に思堪《おもひた》へざらんやうに呻《うめ》き出《いだ》せり。
「好《い》い、好い、全く好い! 馬士《まご》にも衣裳《いしよう》と謂《い》ふけれど、美《うつくし》いのは衣裳には及ばんね。物それ自《みづか》らが美いのだもの、着物などはどうでも可《い》い、実は何も着てをらんでも可い」
「裸体なら猶《なほ》結構だ!」
 この強き合槌《あひづち》撃つは、美術学校の学生なり。
 綱曳《つなひき》にて駈着《かけつ》けし紳士は姑《しばら》く休息の後内儀に導かれて入来《いりきた》りつ。その後《うしろ》には、今まで居間に潜みたりし主《あるじ》の箕輪亮輔《みのわりようすけ》も附添ひたり。席上は入乱れて、
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