ここを先途《せんど》と激《はげし》き勝負の最中なれば、彼等の来《きた》れるに心着きしは稀《まれ》なりけれど、片隅に物語れる二人は逸早《いちはや》く目を側《そば》めて紳士の風采《ふうさい》を視《み》たり。
広間の燈影《ひかげ》は入口に立てる三人《みたり》の姿を鮮《あざや》かに照せり。色白の小《ちひさ》き内儀の口は疳《かん》の為に引歪《ひきゆが》みて、その夫の額際《ひたひぎは》より赭禿《あかは》げたる頭顱《つむり》は滑《なめら》かに光れり。妻は尋常《ひとなみ》より小きに、夫は勝《すぐ》れたる大兵《だいひよう》肥満にて、彼の常に心遣《こころづかひ》ありげの面色《おももち》なるに引替へて、生きながら布袋《ほてい》を見る如き福相したり。
紳士は年歯《としのころ》二十六七なるべく、長高《たけたか》く、好き程に肥えて、色は玉のやうなるに頬《ほほ》の辺《あたり》には薄紅《うすくれなゐ》を帯びて、額厚く、口大きく、腮《あぎと》は左右に蔓《はびこ》りて、面積の広き顔は稍《やや》正方形を成《な》せり。緩《ゆる》く波打てる髪を左の小鬢《こびん》より一文字に撫付《なでつ》けて、少しは油を塗りたり。濃《こ》からぬ口髭《くちひげ》を生《はや》して、小《ちひさ》からぬ鼻に金縁《きんぶち》の目鏡《めがね》を挾《はさ》み、五紋《いつつもん》の黒塩瀬《くろしほぜ》の羽織に華紋織《かもんおり》の小袖《こそで》を裾長《すそなが》に着做《きな》したるが、六寸の七糸帯《しちんおび》に金鏈子《きんぐさり》を垂れつつ、大様《おほやう》に面《おもて》を挙げて座中を※[#「※」は「目+旬」、12−8]《みまは》したる容《かたち》は、実《げ》に光を発《はな》つらんやうに四辺《あたり》を払ひて見えぬ。この団欒《まどゐ》の中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々《びび》しく装《よそほ》ひたるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
例の二人の一個《ひとり》はさも憎さげに呟《つぶや》けり。
「可厭《いや》な奴!」
唾《つば》吐くやうに言ひて学生はわざと面《おもて》を背《そむ》けつ。
「お俊《しゆん》や、一寸《ちよいと》」と内儀は群集《くんじゆ》の中よりその娘を手招きぬ。
お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、慌忙《あわただし》く起ちて来《きた》れるが、顔好くはあらねど愛嬌《あいきよう》深く、いと善く父に肖《に》たり。高島田に結《ゆ》ひて、肉色縮緬《にくいろちりめん》の羽織に撮《つま》みたるほどの肩揚したり。顔を赧《あか》めつつ紳士の前に跪《ひざまづ》きて、慇懃《いんぎん》に頭《かしら》を低《さぐ》れば、彼は纔《わづか》に小腰を屈《かが》めしのみ。
「どうぞ此方《こちら》へ」
娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうに頷《うなづ》けり。母は歪《ゆが》める口を怪しげに動して、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
お俊は再び頭《かしら》を低《さ》げぬ。紳士は笑《ゑみ》を含みて目礼せり。
「さあ、まあ、いらつしやいまし」
主《あるじ》の勧むる傍《そば》より、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内《あない》して、客間の床柱の前なる火鉢《ひばち》在る方《かた》に伴《つ》れぬ。妻は其処《そこ》まで介添《かいぞへ》に附きたり。二人は家内《かない》の紳士を遇《あつか》ふことの極《きは》めて鄭重《ていちよう》なるを訝《いぶか》りて、彼の行くより坐るまで一挙一動も見脱《みのが》さざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、団欒《まどゐ》の間を過ぎたりしが、無名指《むめいし》に輝ける物の凡《ただ》ならず強き光は燈火《ともしび》に照添《てりそ》ひて、殆《ほとん》ど正《ただし》く見る能《あた》はざるまでに眼《まなこ》を射られたるに呆《あき》れ惑へり。天上の最も明《あきらか》なる星は我手《わがて》に在りと言はまほしげに、紳士は彼等の未《いま》だ曾《かつ》て見ざりし大《おほき》さの金剛石《ダイアモンド》を飾れる黄金《きん》の指環を穿《は》めたるなり。
お俊は骨牌《かるた》の席に復《かへ》ると※[#「※」は「にんべん+牟」、13−15]《ひとし》く、密《ひそか》に隣の娘の膝《ひざ》を衝《つ》きて口早に※[#「※」は「口+耳」、13−15]《ささや》きぬ。彼は忙々《いそがはし》く顔を擡《もた》げて紳士の方《かた》を見たりしが、その人よりはその指に耀《かがや》く物の異常なるに駭《おどろ》かされたる体《てい》にて、
「まあ、あの指環は! 一寸《ちよいと》、金剛石《ダイアモンド》?」
「さうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だつて」
お俊の説明を聞きて彼は漫《そぞろ》に身毛《みのけ》の弥立《よだ》つを覚えつつ、
「まあ! 好いのねえ」
※[#「※」は「魚+單」、14−6]《ごまめ》の目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この幾歳《いくとせ》か念懸《ねんが》くれども未《いま》だ容易に許されざる娘の胸は、忽《たちま》ち或事を思ひ浮べて攻皷《せめつづみ》の如く轟《とどろ》けり。彼は惘然《ぼうぜん》として殆ど我を失へる間《ま》に、電光の如く隣より伸来《のびきた》れる猿臂《えんぴ》は鼻の前《さき》なる一枚の骨牌《かるた》を引攫《ひきさら》へば、
「あら、貴女《あなた》どうしたのよ」
お俊は苛立《いらだ》ちて彼の横膝《よこひざ》を続けさまに拊《はた》きぬ。
「可《よ》くつてよ、可くつてよ、以来《これから》もう可くつてよ」
彼は始めて空想の夢を覚《さま》して、及ばざる身《み》の分《ぶん》を諦《あきら》めたりけれども、一旦|金剛石《ダイアモンド》の強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも目覚《めざまし》かりける手腕《てなみ》の程も見る見る漸《やうや》く四途乱《しどろ》になりて、彼は敢無《あへな》くもこの時よりお俊の為に頼み難《がたな》き味方となれり。
かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
「金剛石《ダイアモンド》!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石??」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石??」
「可感《すばらし》い金剛石」
「可恐《おそろし》い光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
瞬《またた》く間《ひま》に三十余人は相呼び相応じて紳士の富を謳《うた》へり。
彼は人々の更互《かたみがはり》におのれの方《かた》を眺《なが》むるを見て、その手に形好く葉巻《シガア》を持たせて、右手《めて》を袖口《そでぐち》に差入れ、少し懈《たゆ》げに床柱に靠《もた》れて、目鏡の下より下界を見遍《みわた》すらんやうに目配《めくばり》してゐたり。
かかる目印ある人の名は誰《たれ》しも問はであるべきにあらず、洩《も》れしはお俊の口よりなるべし。彼は富山唯継《とみやまただつぐ》とて、一代|分限《ぶげん》ながら下谷《したや》区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の中《うち》にも富山|重平《じゆうへい》の名は見出《みいだ》さるべし。
宮の名の男の方《かた》に持囃《もてはや》さるる如く、富山と知れたる彼の名は直《ただち》に女の口々に誦《ずん》ぜられぬ。あはれ一度《ひとたび》はこの紳士と組みて、世に愛《めで》たき宝石に咫尺《しせき》するの栄を得ばや、と彼等の心々《こころごころ》に冀《こひねが》はざるは希《まれ》なりき。人|若《も》し彼に咫尺するの栄を得ば、啻《ただ》にその目の類無《たぐひな》く楽《たのしま》さるるのみならで、その鼻までも菫花《ヴァイオレット》の多く※[#「※」は「鼻+(嗅−口)」、16−2]《か》ぐべからざる異香《いきよう》に薫《くん》ぜらるるの幸《さいはひ》を受くべきなり。
男たちは自《おのづ》から荒《すさ》められて、女の挙《こぞ》りて金剛石《ダイアモンド》に心牽《こころひか》さるる気色《けしき》なるを、或《あるひ》は妬《ねた》く、或は浅ましく、多少の興を冷《さま》さざるはあらざりけり。独《ひと》り宮のみは騒げる体《てい》も無くて、その清《すずし》き眼色《まなざし》はさしもの金剛石と光を争はんやうに、用意深《たしなみふか》く、心様《こころざま》も幽《ゆかし》く振舞へるを、崇拝者は益々|懽《よろこ》びて、我等の慕ひ参らする効《かひ》はあるよ、偏《ひとへ》にこの君を奉じて孤忠《こちゆう》を全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎き面《つら》の皮を引剥《ひきむ》かん、と手薬煉《てぐすね》引いて待ちかけたり。されば宮と富山との勢《いきほひ》はあたかも日月《じつげつ》を並懸《ならべか》けたるやうなり。宮は誰《たれ》と組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念《けねん》するところなりけるが、鬮《くじ》の結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人《みたり》とともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし人数《にんず》はこの時合併して一《いつ》の大《おほい》なる団欒《まどゐ》に成されたるなり。しかも富山と宮とは隣合《となりあひ》に坐りければ、夜と昼との一時《いちじ》に来にけんやうに皆|狼狽《うろたへ》騒ぎて、忽《たちま》ちその隣に自ら社会党と称《とな》ふる一組を出《いだ》せり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。則《すなは》ち彼等は専《もつぱ》ら腕力を用ゐて或組の果報と安寧《あんねい》とを妨害せんと為るなり。又その前面《むかひ》には一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を狼藉組《ろうぜきぐみ》と称し、右翼を蹂躙隊《じゆうりんたい》と称するも、実は金剛石の鼻柱を挫《くじ》かんと大童《おほわらは》になれるに外《ほか》ならざるなり。果せる哉《かな》、件《くだん》の組はこの勝負に蓬《きたな》き大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白《はなしろ》み、美き人は顔を赧《あか》めて、座にも堪《た》ふべからざるばかりの面皮《めんぴ》を欠《かか》されたり。この一番にて紳士の姿は不知《いつか》見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中には掌《たなぞこ》の玉を失へる心地《ここち》したるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的な轤エる遊戯に怖《おそれ》をなして、密《ひそか》に主《あるじ》の居間に逃帰れるなりけり。
鬘《かつら》を被《き》たるやうに梳《くしけづ》りたりし彼の髪は棕櫚箒《しゆろぼうき》の如く乱れて、環《かん》の隻《かたかた》※[#「※」は「てへん+宛」、17−4]《も》げたる羽織の紐《ひも》は、手長猿《てながざる》の月を捉《とら》へんとする状《かたち》して揺曳《ぶらぶら》と垂《さが》れり。主は見るよりさも慌《あわ》てたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
彼はやにはに煙管《きせる》を捨てて、忽《ゆるがせ》にすべからざらんやうに急遽《とつかは》と身を起せり。
「ああ、酷《ひど》い目に遭《あ》つた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても立切《たちき》れないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかり撲《ぶた》れた」
手の甲の血を吮《す》ひつつ富山は不快なる面色《おももち》して設《まうけ》の席に着きぬ。予《かね》て用意したれば、海老茶《えびちや》の紋縮緬《もんちりめん》の※[#「※」は「ころもへん+因」、17−11]《しとね》の傍《かたはら》に七宝焼《しちほうやき》の小判形《こばんがた》の大手炉《おほてあぶり》を置きて、蒔絵《まきゑ》の吸物膳《すひものぜん》をさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴して婢《をんな》を呼び、大急《おほいそぎ》に銚子と料理とを誂《あつら》へて、
「それはどうも飛でもない事を。外《ほか》に何処《どこ》もお怪我《けが》はございませんでしたか」
「そんなに有られて耐《たま》るものかね」
為《せ》う事無さに主も苦笑《にがわらひ》せり。
「唯今《ただいま》絆創膏《ばんそうこう》を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませ
前へ
次へ
全71ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング