と、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿《つ》いて、田圃《たんぼ》の方を。私|未《ま》だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分|跡程《みち》が有るから、貴方《あなた》は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良《わるい》のだから散歩は極《きは》めて薬、これから行つて見ませう、ねえ」
 彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい。難有《ありがた》うございます。お前お供をお為《し》かい」
 宮の遅《ためら》ふを見て、唯継は故《ことさら》に座を起《た》てり。
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう因循《いんじゆん》してゐては可《い》けない」
 つと寄りて軽《かろ》く宮の肩を拊《う》ちぬ。宮は忽《たちま》ち面《おもて》を紅《あか》めて、如何《いか》にとも為《せ》ん術《すべ》を知らざらんやうに立惑《たちまど》ひてゐたり。母の前をも憚《はばか》らぬ男の馴々《なれなれ》しさを、憎しとにはあらねど、己《おのれ》の仂《はした》なきやうに慙《は》づるなりけり。
 得も謂《い》はれぬその仇無《あどな》さの身に浸遍《しみわた》るに堪《た》へざる思は、漫《そぞろ》に唯継の目の中《うち》に顕《あらは》れて異《あやし》き独笑《ひとりゑみ》となりぬ。この仇無《あどな》き※[#「※」は「女+兌」、59−9]《いと》しらしき、美き娘の柔《やはらか》き手を携へて、人無き野道の長閑《のどか》なるを語《かたら》ひつつ行かば、如何《いか》ばかり楽からんよと、彼ははや心も空《そら》になりて、
「さあ、行つて見ませう。御母《おつか》さんから御許《おゆるし》が出たから可いではありませんか、ねえ、貴方《あなた》、宜《よろし》いでありませう」
 母は宮の猶羞《なほは》づるを見て、
「お前お出《いで》かい、どうお為《し》だえ」
「貴方、お出かいなどと有仰《おつしや》つちや可けません。お出なさいと命令を為《な》すつて下さい」
 宮も母も思はず笑へり。唯継も後《おく》れじと笑へり。
 又人の入来《いりく》る気勢《けはひ》なるを宮は心着きて窺《うかが》ひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに忙《せはし》く踏立つる足音なりき。
「ではお前《まい》お供をおしな」
「さあ、行きませう。直《ぢき》其処《そこ》まででありますよ」
 宮は小《ちひさ》き声して、
「御母《おつか》さんも一処に御出《おいで》なさいな」
「私かい、まあお前お供をおしな」
 母親を伴ひては大いに風流ならず、頗《すこぶ》る妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれを防がんと、
「いや、御母さんには却《かへ》つて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可けますまい。実際貴方には切《た》つてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴女が可厭《いや》だつたら直《すぐ》に帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に騙《だま》されたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」
 この時|忙《せは》しげに聞えし靴音ははや止《や》みたり。人は出去《いでさ》りしにあらで、七八間|彼方《あなた》なる木蔭に足を停《とど》めて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方《こなた》の三人《みたり》は誰《たれ》も知らず。彳《たたず》める人は高等中学の制服の上に焦茶の外套《オバコオト》を着て、肩には古りたる象皮の学校|鞄《かばん》を掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
 再び靴音は高く響きぬ。その驟《にはか》なると近きとに驚きて、三人《みたり》は始めて音する方《かた》を見遣《みや》りつ。
 花の散りかかる中を進来《すすみき》つつ学生は帽を取りて、
「姨《をば》さん、参りましたよ」
 母子《おやこ》は動顛《どうてん》して殆《ほとん》ど人心地《ひとごこち》を失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず呆《あき》れ果てたる目をば空《むなし》く※[#「※」は「目+登」、61−3]《みは》りて、少時《しばし》は石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあらんより忽《たちま》ち消えてこの土と成了《なりをは》らんことの、せめて心易《こころやす》さを思ひつつ、その淡白《うすじろ》き唇《くちびる》を啖裂《くひさ》かんとすばかりに咬《か》みて咬みて止《や》まざりき。
 想ふに彼等の驚愕《おどろき》と恐怖《おそれ》とはその殺せし人の計らずも今生きて来《きた》れるに会へるが如きものならん。気も不覚《そぞろ》なれば母は譫語《うはごと》のやうに言出《いひいだ》せり。
「おや、お出《いで》なの」
 宮は些少《わづか》なりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと冀《ねが》へる如く、木蔭《こかげ》に身を側《そば》めて、打過《うちはず》む呼吸《いき》を人に聞かれじとハンカチイフに口元を掩《おほ》ひて、見るは苦《くるし》けれども、見ざるも辛《つら》き貫一の顔を、俯《ふ》したる額越《ひたひごし》に窺《うかが》ひては、又唯継の気色《けしき》をも気遣《きづか》へり。
 唯継は彼等の心々にさばかりの大波瀾《だいはらん》ありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の食客《しよくかく》の来《きた》れるよと、例の金剛石《ダイアモンド》の手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐ腮《あぎと》を張れり。
 貫一は今回《こたび》の事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞ犇《ひし》と言はん、今は姑《しばら》く色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう鎮《しづ》めて、苦《くるし》き笑顔《ゑがほ》を作りてゐたり。
「宮《みい》さんの病気はどうでございます」
 宮は耐《たま》りかねて窃《ひそか》にハンカチイフを咬緊《かみし》めたり。
「ああ、大きに良いので、もう二三日|内《うち》には帰らうと思つてね。お前さん能《よ》く来られましたね。学校の方は?」
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日《あす》明後日《あさつて》と休課《やすみ》になつたものですから」
「おや、さうかい」
 唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、過《あやま》ちて野中の古井《ふるゐ》に落ちたる人の、沈みも果てず、上《あが》りも得為《えせ》ず、命の綱と危《あやふ》くも取縋《とりすが》りたる草の根を、鼠《ねずみ》の来《きた》りて噛《か》むに遭《あ》ふと云へる比喩《たとへ》に最能《いとよ》く似たり。如何《いか》に為べきかと或《あるひ》は懼《おそ》れ、或は惑ひたりしが、終《つひ》にその免《まぬが》るまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、甚《はなは》だ勝手がましうございますが、私|等《ども》はこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」
「ははあ、それでは何でありますか、明朝《あす》は御一所に帰れるやうな都合になりますな」
「はい、話の模様に因《よ》りましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷《や》めます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下《いでくだ》さいよ。宜《よろし》いですか、お宮さん、それでは後にきつとお出《いで》なさいよ。誠に今日は残念でありますな」
 彼は行かんとして、更に宮の傍《そば》近く寄来《よりき》て、
「貴方《あなた》、きつと後《のち》にお出《いで》なさいよ、ええ」
 貫一は瞬《まばたき》も為《せ》で視《み》てゐたり。宮は窮して彼に会釈さへ為《し》かねつ。娘気の可羞《はづかしさ》にかくあるとのみ思へる唯継は、益《ますます》寄添ひつつ、舌怠《したたる》きまでに語《ことば》を和《やはら》げて、
「宜《よろし》いですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
 貫一の眼《まなこ》は燃ゆるが如き色を作《な》して、宮の横顔を睨着《ねめつ》けたり。彼は懼《おそ》れて傍目《わきめ》をも転《ふ》らざりけれど、必ずさあるべきを想ひて独《ひと》り心を慄《をのの》かせしが、猶《なほ》唯継の如何《いか》なることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には幾許《いかばかり》の幸《さいはひ》なりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容《い》れず、唯|※[#「※」は「厭/食」、63−8]《あ》くまでも※[#「※」は「女+兌」、63−8]《いとし》き宮に心を遺《のこ》して行けり。
 その後影《うしろかげ》を透《とほ》すばかりに目戍《まも》れる貫一は我を忘れて姑《しばら》く佇《たたず》めり。両個《ふたり》はその心を測りかねて、言《ことば》も出《い》でず、息をさへ凝して、空《むなし》く早瀬の音の聒《かしまし》きを聴くのみなりけり。
 やがて此方《こなた》を向きたる貫一は、尋常《ただ》ならず激して血の色を失へる面上《おもて》に、多からんとすれども能《あた》はずと見ゆる微少《わづか》の笑《ゑみ》を漏して、
「宮《みい》さん、今の奴《やつ》はこの間の骨牌《かるた》に来てゐた金剛石《ダイアモンド》だね」
 宮は俯《うつむ》きて唇を咬みぬ。母は聞かざる為《まね》して、折しも啼《な》ける鶯《うぐひす》の木《こ》の間《ま》を窺《うかが》へり。貫一はこの体《てい》を見て更に嗤笑《あざわら》ひつ。
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に気障《きざ》な奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきの面《つら》は!」
「貫一さん」母は卒《にはか》に呼びかけたり。
「はい」
「お前さん翁《をぢ》さんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口《あつこう》などを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥《くたびれ》だらうから、お湯にでも入つて、さうして未《ま》だ御午餐《おひる》前なのでせう」
「いえ、※[#「※」は「さんずい+氣」、64−10]車《きしや》の中で鮨《すし》を食べました」
 三人《みたり》は倶《とも》に歩始《あゆみはじ》めぬ。貫一は外套《オバコオト》の肩を払はれて、後《うしろ》を捻向《ねぢむ》けば宮と面《おもて》を合せたり。
「其処《そこ》に花が粘《つ》いてゐたから取つたのよ」
「それは難有《ありがた》う!!!」

     第 八 章

 打霞《うちかす》みたる空ながら、月の色の匂滴《にほひこぼ》るるやうにして、微白《ほのじろ》き海は縹渺《ひようびよう》として限を知らず、譬《たと》へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠《ねむ》げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙《しようよう》せるは貫一と宮となりけり。
「僕は唯《ただ》胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
 五歩六歩《いつあしむあし》行きし後宮はやうやう言出でつ。
「堪忍《かんにん》して下さい」
「何も今更|謝《あやま》ることは無いよ。一体今度の事は翁《をぢ》さん姨《をば》さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可《い》いのだから」
「…………」
「此地《こつち》へ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡《りようけん》のあるべき筈《はず》は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間《なか》で、知れきつた話だ。
 昨夜《ゆふべ》翁さんから悉《くはし》く話があつて、その上に頼むといふ御言《おことば》だ」
 差含《さしぐ》む涙に彼の声は顫《ふる》ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体《からだ》は火水《ひみづ》の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ
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