この話は宮《みい》さんも知つてゐるのですか」
「薄々《うすうす》は知つてゐる」
「では未《ま》だ宮《みい》さんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、一寸《ちよつと》聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様《おとつさん》や御母様《おつかさん》の宜《よろし》いやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、漸《やうや》く得心がいつたのだ」
 断じて詐《いつはり》なるべしと思ひながらも、貫一の胸は跳《をど》りぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。私《わし》の今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。悉《くはし》い事は何《いづ》れ又|寛緩《ゆつくり》話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々《いろいろ》考へて置くが可《い》いの」
「はい」

     第 七 章

 熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日|漸《やうや》く一月の半《なかば》を過ぎぬるに、梅林《ばいりん》の花は二千本の梢《こずゑ》に咲乱れて、日に映《うつろ》へる光は玲瓏《れいろう》として人の面《おもて》を照し、路《みち》を埋《うづ》むる幾斗《いくと》の清香《せいこう》は凝《こ》りて掬《むす》ぶに堪《た》へたり。梅の外《ほか》には一木《いちぼく》無く、処々《ところどころ》の乱石の低く横《よこた》はるのみにて、地は坦《たひらか》に氈《せん》を鋪《し》きたるやうの芝生《しばふ》の園の中《うち》を、玉の砕けて迸《ほとばし》り、練《ねりぎぬ》の裂けて飜《ひるがへ》る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は麗《うららか》に霽《は》れたる空を攅《さ》してその頂《いただき》に方《あた》りて懶《ものう》げに懸《かか》れる雲は眠《ねむ》るに似たり。習《そよ》との風もあらぬに花は頻《しきり》に散りぬ。散る時に軽《かろ》く舞ふを鶯《うぐひす》は争ひて歌へり。
 宮は母親と連立ちて入来《いりきた》りぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几《しようぎ》を据ゑたる木《こ》の下《もと》を指して緩《ゆる》く歩めり。彼の病は未《いま》だ快からぬにや、薄仮粧《うすげしやう》したる顔色も散りたる葩《はなびら》のやうに衰へて、足の運《はこび》も怠《たゆ》げに、動《とも》すれば頭《かしら》の低《た》るるを、思出《おもひいだ》しては努めて梢を眺《なが》むるなりけり。彼の常として物案《ものあんじ》すれば必ず唇《くちびる》を咬《か》むなり。彼は今|頻《しきり》に唇を咬みたりしが、
「御母《おつか》さん、どうしませうねえ」
 いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に転《うつ》りぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発《はじめ》にお前が適《い》きたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも貫一《かんいつ》さんの事が気になつて。御父《おとつ》さんはもう貫一さんに話を為《な》すつたらうか、ねえ御母《おつか》さん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
 宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから若《も》し適《ゆ》くのなら、もう逢《あ》はずに直《ずつ》と行つて了《しま》ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
 声は低くなりて、美き目は湿《うるほ》へり。彼は忘れざるべし、その涙を拭《ぬぐ》へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適《い》きたいとお言ひなのだえ。さう何時《いつ》までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日|経《た》てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然《しつかり》極《き》めなくては可《い》けないよ。お前が可厭《いや》なものを無理にお出《いで》といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
「可《い》いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
 貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ度《たび》に、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強《し》ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お父《とつ》さんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方《あちら》へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合《しあはせ》と云ふものだから、其処《そこ》を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切《おもひきり》が好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり遇《あ》はずに行くなんて、それはお前|却《かへ》つて善くないから、矢張《やつぱり》逢つて、丁《ちやん》と話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来《ゆきかよひ》をしなければならないのだもの。
 いづれ今日か明日《あした》には御音信《おたより》があつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
 宮は牀几《しようぎ》に倚《よ》りて、半《なかば》は聴き、半は思ひつつ、膝《ひざ》に散来る葩《はなびら》を拾ひては、おのれの唇に代へて連《しきり》に咬砕《かみくだ》きぬ。鶯《うぐひす》の声の絶間を流の音は咽《むせ》びて止まず。
 宮は何心無く面《おもて》を挙《あぐ》るとともに稍《やや》隔てたる木《こ》の間隠《まがくれ》に男の漫行《そぞろあるき》する姿を認めたり。彼は忽《たちま》ち眼《まなこ》を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮《さへぎ》る隙《ひま》を縫ひつつ、姑《しばら》くその影を逐《お》ひたりしが、遂《つひ》に誰《たれ》をや見出《みいだ》しけん。慌忙《あわただし》く母親に※[#「※」は「口+耳」、55−11]《ささや》けり。彼は急に牀几を離れて五六歩《いつあしむあし》進行《すすみゆ》きしが、彼方《あなた》よりも見付けて、逸早《いちはや》く呼びぬ。
「其処《そこ》に御出《おいで》でしたか」
 その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉《ひとし》く、恐れたる風情《ふぜい》にて牀几の端《はし》に竦《すくま》りつ。
「はい、唯今《ただいま》し方《がた》参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
 母はかく挨拶《あいさつ》しつつ彼を迎へて立てり。宮は其方《そなた》を見向きもやらで、彼の急足《いそぎあし》に近《ちかづ》く音を聞けり。
 母子《おやこ》の前に顕《あらは》れたる若き紳士は、その誰《たれ》なるやを説かずもあらなん。目覚《めざまし》く大《おほい》なる金剛石《ダイアモンド》の指環を輝かせるよ。柄《にぎり》には緑色の玉《ぎよく》を獅子頭《ししがしら》に彫《きざ》みて、象牙《ぞうげ》の如く瑩潤《つややか》に白き杖《つゑ》を携へたるが、その尾《さき》をもて低き梢の花を打落し打落し、
「今お留守へ行きまして、此処《ここ》だといふのを聞いて追懸《おつか》けて来た訳です。熱いぢやないですか」
 宮はやうやう面《おもて》を向けて、さて淑《しとやか》に起ちて、恭《うやうやし》く礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでも倨《おご》り高《たかぶ》るを忘れざりき。その張りたる腮《あぎと》と、への字に結べる薄唇《うすくちびる》と、尤異《けやけ》き金縁《きんぶち》の目鏡《めがね》とは彼が尊大の風に尠《すくな》からざる光彩を添ふるや疑《うたがひ》無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。真《ほん》に今日《こんにち》はお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」
 母は牀几を払へば、宮は路《みち》を開きて傍《かたはら》に佇《たたず》めり。
「貴方《あなた》がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方《こちら》の塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分|忙《せはし》い体《からだ》、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、翌《あす》の朝立たなければならんのであります」
「おや、それは急な事で」
「貴方がたも一所《いつしよ》にお立ちなさらんか」
 彼は宮の顔を偸視《ぬすみみ》つ。宮は物言はん気色《けしき》もなくて又母の答へぬ。
「はい、難有《ありがた》う存じます」
「それとも未《ま》だ御在《おいで》ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の難《わけ》は無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家《ゐなかや》を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩《ゆつくり》遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
 宮は笑《ゑみ》を含みて言はざるを、母は傍《かたはら》より、
「これはもう遊ぶ事なら嫌《きらひ》はございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは以後《これから》盛《さかん》にお遊《あす》びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京《さいきよう》でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌《おきらひ》ですか、ははあ。船が平気だと、支那《しな》から亜米利加《アメリカ》の方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山《ゆさん》に行《ある》いたところで知れたもの。どんなに贅沢《ぜいたく》を為たからと云つて」
「御帰《おかへり》になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下《いでくだ》さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは全《まる》で為方《しかた》が無い! こんな若い野梅《のうめ》、薪《まき》のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も凄《すさまし》い。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走《ごちそう》を為ますよ。お宮さんは何が所好《すき》ですか、ええ、一番所好なものは?」
 彼は陰《ひそか》に宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞《はづか》しげに打笑《うちゑ》めり。
「で、何日《いつ》御帰でありますか。明朝《あした》一所に御発足《おたち》にはなりませんか。此地《こつち》にさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、難有《ありがた》うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日|内《うち》には音信《たより》がございます筈《はず》で、その音信《たより》を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
 唯継は例の倨《おご》りて天を睨《にら》むやうに打仰《うちあふ》ぎて、杖の獅子頭《ししがしら》を撫廻《なでまは》しつつ、少時《しばらく》思案する体《てい》なりしが、やをら白羽二重《しろはぶたへ》のハンカチイフを取出《とりいだ》して、片手に一揮《ひとふり》揮《ふ》るよと見れば鼻《はな》を拭《ぬぐ》へり。菫花《ヴァイオレット》の香《かをり》を咽《むせ》ばさるるばかりに薫《くん》じ遍《わた》りぬ。
 宮も母もその鋭き匂《にほひ》に驚けるなり。
「ああ
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