《いまし》められたるやうに、身の重きに堪《た》へず、心の転《うた》た苦《くるし》きを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はその中《うち》に在りてその中に在ることを忘れんと為る平生《へいぜい》を省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。愚父《おやぢ》がどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事は措《お》きまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいと念《おも》つてをります。愚父の亡《なくな》りましたあの時に、此方《こちら》で引取つて戴《いただ》かなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほど幸《さいはひ》なものは恐《おそら》く無いでございませう」
彼は十五の少年の驚くまでに大人びたる己《おのれ》を見て、その着たる衣《きぬ》を見て、その坐れる※[#「※」は「ころもへん+因」、45−16]《しとね》を見て、やがて美き宮と共にこの家の主《ぬし》となるべきその身を思ひて、漫《そぞろ》に涙を催せり。実《げ》に七千円の粧奩《そうれん》を随へて、百万金も購《あがな》ふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。
「お前がさう思うてくれれば私《わし》も張合がある。就いては改めてお前に頼《たのみ》があるのだが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
彼はかく潔く答ふるに憚《はばか》らざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかる言《ことば》を出《いだ》す時は、多く能《あた》はざる事を強《し》ふる例《ためし》なればなり。
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁に遣《や》らうかと思つて」
見るに堪《た》へざる貫一の驚愕《おどろき》をば、せめて乱さんと彼は慌忙《あわただし》く語《ことば》を次ぎぬ。
「これに就いては私も種々《いろいろ》と考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つて了《しま》うての、お前はも少《すこ》しの事だから大学を卒業して、四五年も欧羅巴《エウロッパ》へ留学して、全然《すつかり》仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」
汝《なんぢ》の命を与へよと逼《せま》らるる事あらば、その時の人の思は如何《いか》なるべき! 可恐《おそろし》きまでに色を失へる貫一は空《むなし》く隆三の面《おもて》を打目戍《うちまも》るのみ。彼は太《いた》く困《こう》じたる体《てい》にて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更|変換《へんがへ》を為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
待てども貫一の言《ことば》を出《いだ》さざれば、主《あるじ》は寡《すくな》からず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家《うち》とお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。大《たい》した事は無いがこの家は全然《そつくり》お前に譲るのだ、お前は矢張《やはり》私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
約束をした宮をの、余所《よそ》へ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処《そこ》はお前が能《よ》く承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴《あつぱれ》の人物に成るのが第一の希望《のぞみ》であらう。その志を遂《と》げさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、然《しか》しこれは理窟《りくつ》で、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前に頼《たのみ》が有ると言うたのはこの事だ。
従来《これまで》もお前を世話した、後来《これから》も益世話をせうからなう、其処《そこ》に免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
貫一は戦《をのの》く唇《くちびる》を咬緊《くひし》めつつ、故《ことさ》ら緩舒《ゆるやか》に出《いだ》せる声音《こわね》は、怪《あやし》くも常に変れり。
「それぢや翁様《をぢさん》の御都合で、どうしても宮《みい》さんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、断《た》つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着《とんちやく》は無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
得言はぬ貫一が胸には、理《ことわり》に似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、詰《なじ》るべき事、罵《ののし》るべき、言破るべき事、辱《はぢし》むべき事の数々は沸《わ》くが如く充満《みちみ》ちたれど、彼は神にも勝《まさ》れる恩人なり。理非を問はずその言《ことば》には逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌を咬《か》みても、敢《あへ》て言はじと覚悟せるなり。
彼は又思へり。恩人は恩を枷《かせ》に如此《かくのごと》く逼《せま》れども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何《いか》なる斧《をの》を以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が情《なさけ》は我が思ふままに濃《こまやか》ならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心|也《なり》と、彼は可憐《いとし》き宮を思ひて、その父に対する慍《いかり》を和《やはら》げんと勉《つと》めたり。
我は常に宮が情《なさけ》の濃《こまやか》ならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節《ばんこんさくせつ》に遇《あ》はずんば。
「嫁に遣ると有仰《おつしや》るのは、何方《どちら》へ御遣《おつかは》しになるのですか」
「それは未《ま》だ確《しか》とは極《きま》らんがの、下谷《したや》に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
それぞ箕輪の骨牌会《かるたかい》に三百円の金剛石《ダイアモンド》を※[#「※」は「火+玄」、49−1]《ひけら》かせし男にあらずやと、貫一は陰《ひそか》に嘲笑《あざわら》へり。されど又余りにその人の意外なるに駭《おどろ》きて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、苟《いやし》くも吾が宮の如く美きを、目あり心あるものの誰《たれ》かは恋ひざらん。独《ひと》り怪しとも怪きは隆三の意《こころ》なる哉《かな》。我《わが》十年の約は軽々《かろがろし》く破るべきにあらず、猶《なほ》謂無《いはれな》きは、一人娘を出《いだ》して嫁《か》せしめんとするなり。戯《たはむ》るるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は寧《むし》ろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんより邇《ちか》かるべしと信じたりき。
彼は競争者の金剛石《ダイアモンド》なるを聞きて、一度《ひとたび》は汚《けが》され、辱《はづかし》められたらんやうにも怒《いかり》を作《な》せしかど、既に勝負は分明《ぶんめい》にして、我は手を束《つか》ねてこの弱敵の自ら僵《たふ》るるを看《み》んと思へば、心|稍《やや》落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
この一言に隆三の面《おもて》は熱くなりぬ。
「これに就いては私《わし》も大きに考へたのだ、何《なに》に為《し》ろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、然《しか》し、お前の後来《こうらい》に就《つ》いても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちは若《わか》しと云ふもので、ここに可頼《たのもし》い親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても可愧《はづかし》からん家格《いへがら》だ。気の毒な思をしてお前との約束を変易《へんがへ》するのも、私たちが一人娘を他《よそ》へ遣つて了ふのも、究竟《つまり》は銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。
それに、富山からは切《た》つての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も一家《いつけ》のつもりで、決して鴫沢家を疎《おろそか》には為《せ》まい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
決して慾ではないが、良《い》い親類を持つと云ふものは、人で謂《い》へば取《とり》も直《なほ》さず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は一家《いつか》の友達だ。
お前がこれから世の中に出るにしても、大相《たいそう》な便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、誰《たれ》の為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、私《わし》も決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
私の了簡《りようけん》はかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて年効《としがひ》も無く事を好んで、何為《なにし》に若いものの不為《ふため》になれと思ふものかな。お前も能《よ》く其処《そこ》を考へて見てくれ。
私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら直《すぐ》に洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番《ひとつ》奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも少《すこ》しのところを辛抱して、いつその事|博士《はかせ》になつて喜ばしてくれんか」
彼はさも思ひのままに説完《ときおほ》せたる面色《おももち》して、寛《ゆたか》に髯《ひげ》を撫《な》でてゐたり。
貫一は彼の説進むに従ひて、漸《やうや》くその心事の火を覩《み》るより明《あきらか》なるを得たり。彼が千言万語の舌を弄《ろう》して倦《う》まざるは、畢竟《ひつきよう》利の一字を掩《おほ》はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も穢《けが》れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或《あるひ》は穢れたる念を起し、或は穢れたる行《おこなひ》を為《な》すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ豈《あに》穢れたるの最も大なる者ならずや。
世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の独《ひと》り汚《けがれ》に染《そ》みざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子《みなしご》を養へる志は、これを証して余《あまり》あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は酷《むご》くも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に唯《ただ》一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐《いとし》き宮が事を思へるなり。
我の愛か、死をもて脅《おびやか》すとも得て屈すべからず。宮が愛か、某《なにがし》の帝《みかど》の冠《かむり》を飾れると聞く世界|無双《ぶそう》の大金剛石《だいこんごうせき》をもて購《あがな》はんとすとも、争《いか》でか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥《おでい》の中《うち》に輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを抱《いだ》きて、この世の渾《すべ》て穢れたるを忘れん。
貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨《うらめ》しとは思ひつつも、枉《ま》げてさあらぬ体《てい》に聴きゐたるなりけり。
「それで、
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