》はどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の居候《ゐさふらふ》でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾《をとこめかけ》になつた覚《おぼえ》は無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物《なぐさみもの》にしたのだね。平生《へいぜい》お前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の意《つもり》で、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何の楽《たのしみ》も無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。
それは無論金力の点では、僕と富山とは比較《くらべもの》にはならない。彼方《あつち》は屈指の財産家、僕は固《もと》より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して財《かね》で買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
己《おのれ》の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を有《も》つてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、寧《むし》ろ害になり易《やす》い、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。
然し財《かね》といふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人に勝《すぐ》れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分|甚《ひど》い事も為るのだ。それを考へれば、お前が偶然《ふつと》気の変つたのも、或《あるひ》は無理も無いのだらう。からして僕はそれは咎《とが》めない、但《ただ》もう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかと謂《い》ふことを。
雀《すずめ》が米を食ふのは僅《わづ》か十粒《とつぶ》か二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前に餒《ひもじ》い思を為せるやうな、そんな意気地《いくぢ》の無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
貫一は雫《しづく》する涙を払ひて、
「お前が富山へ嫁《ゆ》く、それは立派な生活をして、栄耀《えよう》も出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ招《よば》れて行く人もあれば、自分の妻子《つまこ》を車に載せて、それを自分が挽《ひ》いて花見に出掛ける車夫もある。富山へ嫁《ゆ》けば、家内も多ければ人出入《ひとでいり》も、劇《はげ》しし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気を傷《いた》めながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何を楽《たのしみ》に生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く費《つか》へるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に頼《よ》るで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万の財《かね》が有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人|外《おもて》に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似《まね》をして、妻は些《ほん》の床の置物にされて、謂《い》はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、苦《くるしみ》ばかりで楽《たのしみ》は無いと謂つて可い。お前の嫁《ゆ》く唯継だつて、固《もと》より所望《のぞみ》でお前を迎《もら》ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、財《かね》が有るから好きな真似も出来る、他《ほか》の楽《たのしみ》に気が移つて、直《ぢき》にお前の恋は冷《さま》されて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地《こころもち》を考へて御覧、あの富山の財産がその苦《くるしみ》を拯《すく》ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれで楽《たのしみ》かい、満足かい。
僕が人にお前を奪《と》られる無念は謂《い》ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変《こころがはり》をした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀《かあい》さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
僕に飽きて富山に惚《ほ》れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは過《あやま》つてゐる、それは実に過《あやま》つてゐる、愛情の無い結婚は究竟《つまり》自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別《ふんべつ》一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便《ふびん》だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直《しなお》してくれないか。
七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨《うらやまし》いとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛《かはゆ》くは思はんのかい」
彼は危《あやふ》きを拯《すく》はんとする如く犇《ひし》と宮に取着きて匂滴《にほひこぼ》るる頸元《えりもと》に沸《に》ゆる涙を濺《そそ》ぎつつ、蘆《あし》の枯葉の風に揉《もま》るるやうに身を顫《ふるは》せり。宮も離れじと抱緊《いだきし》めて諸共《もろとも》に顫ひつつ、貫一が臂《ひぢ》を咬《か》みて咽泣《むせびなき》に泣けり。
「嗚呼《ああ》、私はどうしたら可からう! 若し私が彼方《あつち》へ嫁《い》つたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」
木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや断然《いよいよ》お前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、膓《はらわた》の腐つた女! 姦婦《かんぷ》!!」
その声とともに貫一は脚《あし》を挙げて宮の弱腰をはたと※[#「※」は「足+易」、76−13]《け》たり。地響して横様《よこさま》に転《まろ》びしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為《えせ》ず弱々《よわよわ》と僵《たふ》れたるを、なほ憎さげに見遣《みや》りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男|一匹《いつぴき》はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了《しま》ふのだ。学問も何ももう廃《やめ》だ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖《くら》つて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一の面《つら》を好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた翁《をぢ》さん姨《をば》さんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細《しさい》あつて貫一はこのまま長の御暇《おいとま》を致しますから、随分お達者で御機嫌《ごきげん》よろしう……宮《みい》さん、お前から好くさう言つておくれ、よ、若《も》し貫一はどうしたとお訊《たづ》ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方《ゆくへ》知れずになつて了つたと……」
宮はやにはに蹶起《はねお》きて、立たんと為れば脚の痛《いたみ》に脆《もろ》くも倒れて効無《かひな》きを、漸《やうや》く這寄《はひよ》りて貫一の脚に縋付《すがりつ》き、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方《あなた》これから何《ど》……何処《どこ》へ行くのよ」
貫一はさすがに驚けり、宮が衣《きぬ》の披《はだ》けて雪《ゆき》可羞《はづかし》く露《あらは》せる膝頭《ひざがしら》は、夥《おびただし》く血に染みて顫ふなりき。
「や、怪我《けが》をしたか」
寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
「話が有《あ》ればここで聞かう」
「ここぢや私は可厭《いや》よ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
「剛情張ると蹴飛《けとば》すぞ」
「蹴られても可いわ」
貫一は力を極《きは》めて振断《ふりちぎ》れば、宮は無残に伏転《ふしまろ》びぬ。
「貫一さん」
「貫一ははや幾間を急行《いそぎゆ》きたり。宮は見るより必死と起上りて、脚の傷《いたみ》に幾度《いくたび》か仆《たふ》れんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺《いひのこ》した事がある」
遂《つひ》に倒れし宮は再び起《た》つべき力も失せて、唯声を頼《たのみ》に彼の名を呼ぶのみ。漸《やうや》く朧《おぼろ》になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶《みもだえ》して猶《なほ》呼続けつ。やがてその黒き影の岡の頂《いただき》に立てるは、此方《こなた》を目戍《まも》れるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も遙《はるか》に来りぬ。
「宮《みい》さん!」
「あ、あ、あ、貫一《かんいつ》さん!」
首を延べて※[#「※」は「目+旬」、78−14]《みまは》せども、目を※[#「※」は「目+登」]《みは》りて眺むれども、声せし後《のち》は黒き影の掻消《かきけ》す如く失《う》せて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。
宮は再び恋《こひし》き貫一の名を呼びたりき。
[#改頁]
中 編
第 一 章
新橋停車場《しんばしステエション》の大時計は四時を過《すぐ》ること二分|余《よ》、東海道行の列車は既に客車の扉《とびら》を鎖《さ》して、機関車に烟《けふり》を噴《ふか》せつつ、三十|余輛《よりよう》を聯《つら》ねて蜿蜒《えんえん》として横《よこた》はりたるが、真承《まうけ》の秋の日影に夕栄《ゆふばえ》して、窓々の硝子《ガラス》は燃えんとすばかりに耀《かがや》けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚《わめ》くを余所《よそ》に、大蹈歩《だいとうほ》の寛々《かんかん》たる老|欧羅巴《エウロッパ》人は麦酒樽《ビイルだる》を窃《ぬす》みたるやうに腹|突出《つきいだ》して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘《ゑひがさ》の柄《え》に橙《オレンジ》色のリボンを飾りたるを小脇《こわき》にせると推並《おしなら》び、おのれが乗物の顔して急ぐ気色《けしき》も無く過《すぐ》る後より、蚤取眼《のみとりまなこ》になりて遅れじと所体頽《しよたいくづ》して駈来《かけく》る女房の、嵩高《かさだか》なる風呂敷包を抱《いだ》くが上に、四歳《よつ》ほどの子を背負ひたるが、何処《どこ》の扉も鎖したるに狼狽《うろた》ふるを、車掌に
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