大抵ならず御迷惑|被遊候《あそばされさふらふ》御事《おんこと》と、山々|御察《おんさつ》し申上候へども、一向さやうに御内合《おんうちあひ》とも存ぜず、不躾《ぶしつけ》に参上いたし候段は幾重にも、御詫申上《おんわびまをしあげ》まゐらせ候。
尚《なほ》数々《かずかず》申上度《まをしあげたく》存候事《ぞんじさふらふこと》は胸一杯にて、此胸の内には申上度事《まをしあげたきこと》の外は何も無御座候《ござなくさふら》へば、書くとも書くとも尽き申間敷《まをすまじく》、殊《こと》に拙《つたな》き筆に候へば、よしなき事のみくだくだしく相成候ていくらも、大切の事をば書洩《かきもら》し候が思残《おもひのこり》に御座候。惜き惜き此筆|止《とど》めかね候へども、いつの限無く手に致し居り候事も叶《かな》ひ難《がた》く、折から四時の明近《あけちか》き油も尽き候て、手元暗く相成候ままはやはや恋《こひし》き御名を認《したた》め候て、これまでの御別《おんわかれ》と致しまゐらせ候。
唯今《ただいま》の此の気分苦く、何とも難堪《たへがた》き様子にては、明日は今日よりも病重き事と存候《ぞんじさふらふ》。明後日は猶重くも相成可申《あひなりまをすべく》、さやうには候へども、筆取る事|相叶《あひかな》ひ候間は、臨終までの胸の内御許に通じまゐらせ度《たく》存候《ぞんじさふら》へば、覚束無《おぼつかな》くも何なりとも相認《あひしたた》め可申候《まをすべくさふらふ》。
私事|空《むなし》く相成候とも、決して余《よ》の病にては無之《これなく》、御前様《おんまへさま》御事《おんこと》を思死《おもひじに》に死候《しにさふらふ》ものと、何卒《なにとぞ》々々|御愍《おんあはれ》み被下《くだされ》、其段《そのだん》はゆめゆめ詐《いつはり》にては無御座《ござなく》、みづから堅く信じ居候事に御座候。
明日《みようにち》は御前様《おんまへさま》御誕生日《ごたんじようび》に当り申候へば、わざと陰膳《かげぜん》を供へ候て、私事も共に御祝《おんいは》ひ可申上《まをしあぐべく》、嬉《うれし》きやうにも悲きやうにも存候。猶くれぐれも朝夕《ちようせき》の御自愛御大事に、幾久く御機嫌好《ごきげんよ》う明日を御迎《おんむか》へ被遊《あそばされ》、ますます御繁栄に被為居候《ゐらせられさふらふ》やう、今は世の望も、身の願も、それのみに御座候。
まづはあらあらかしこ。
五月二十五日
おろかなる女|※[#表現不可、466−10]《より》[#行末より2字上げ]
恋《こひし》き恋き
生別《いきわかれ》の御方様《おんかたさま》
まゐる
第 二 章
隣に養へる薔薇《ばら》の香《か》の烈《はげし》く薫《くん》じて、颯《さ》と座に入《い》る風の、この読尽《よみつく》されし長き文《ふみ》の上に落つると見れば、紙は冉々《せんせん》と舞延びて貫一の身を※[#「※」は「(螢−虫)/糸」、467−1]《めぐ》り、猶《なほ》も跳《をど》らんとするを、彼は徐《しづか》に敷据ゑて、その膝《ひざ》に慵《ものう》げなる面杖《つらづゑ》※[#「※」は「てへん+主」、467−2]《つ》きたり。憎き女の文なんど見るも穢《けがらは》しと、前《さき》には皆|焚棄《やきす》てたりし貫一の、如何《いか》にしてこたびばかりは終《つひ》に打拆《うちひら》きけん、彼はその手にせし始に、又は読去りし後に、自らその故《ゆゑ》を譲《せ》めて、自ら知らざるを愧《は》づるなりき。
彼はやがて屈《かが》めし身を起ししが、又|直《ただ》ちに重きに堪《た》へざらんやうの頭《かしら》を支へて、机に倚《よ》れり。
緑|濃《こまや》かに生茂《おひしげ》れる庭の木々の軽々《ほのか》なる燥気《いきれ》と、近き辺《あたり》に有りと有る花の薫《かをり》とを打雑《うちま》ぜたる夏の初の大気は、太《はなは》だ慢《ゆる》く動きて、その間に旁午《ぼうご》する玄鳥《つばくら》の声|朗《ほがらか》に、幾度《いくたび》か返しては遂《つひ》に往きける跡の垣穂《かきほ》の、さらぬだに燃ゆるばかりなる満開の石榴《ざくろ》に四時過の西日の夥《おびただし》く輝けるを、彼は煩《わづらは》しと目を移して更に梧桐《ごどう》の涼《すずし》き広葉を眺めたり。
文の主《ぬし》はかかれと祈るばかりに、命を捧げて神仏《かみほとけ》をも驚かししと書けるにあらずや。貫一は又、自ら何の故《ゆゑ》とも知らで、独《ひと》りこれのみ披《ひら》くべくもあらぬ者を披き見たるにあらずや。彼を絡《まと》へる文は猶解けで、巌《いはほ》に浪《なみ》の瀉《そそ》ぐが如く懸《かか》れり。
そのままに専《ひた》と思入るのみなりし貫一も、漸《やうや》く悩《なやまし》く覚えて身動《みじろ》ぐとともに、この文殻《ふみがら》の埓無《らちな》き様を見て、やや慌《あわ》てたりげに左肩《ひだりがた》より垂れたるを取りて二つに引裂きつ。さてその一片《ひとひら》を手繰《たぐ》らんと為るに、長きこと帯の如し。好き程に裂きては累《かさ》ね、累ぬれば、皆積みて一冊にも成りぬべし。
かかる間《ま》も彼は自《おのづ》と思に沈みて、その動す手も怠《たゆ》く、裂きては一々読むかとも目を凝《こら》しつつ。やや有りて裂了《さきをは》りし後は、あだかも劇《はげし》き力作に労《つか》れたらんやうに、弱々《よわよわ》と身を支へて、長き頂《うなじ》を垂れたり。
されど久《ひさし》きに勝《た》へずやありけん、卒《にはか》に起たんとして、かの文殻の委《お》きたるを取上げ、庭の日陰に歩出《あゆみい》でて、一歩に一《ひと》たび裂き、二歩に二たび裂き、木間に入りては裂き、花壇を繞《めぐ》りては裂き、留りては裂き、行きては裂き、裂きて裂きて寸々《すんずん》に作《な》しけるを、又|引捩《ひきねぢ》りては歩み、歩みては引捩りしが、はや行くも苦《くるし》く、後様《うしろさま》に唯有《とあ》る冬青《もち》の樹に寄添へり。
折から縁に出来《いできた》れる若き女は、結立《ゆひたて》の円髷《まるわげ》涼しげに、襷掛《たすきがけ》の惜くも見ゆる真白の濡手《ぬれて》を弾《はじ》きつつ、座敷を覗《のぞ》き、庭を窺《うかが》ひ、人見付けたる会釈の笑《ゑみ》をつと浮べて、
「旦那《だんな》様、お風呂が沸きましたが」
この姿好く、心信《こころまめや》かなるお静こそ、僅《わづか》にも貫一がこの頃を慰むる一《いつ》の唯一《ただいつ》の者なりけれ。
(二) の 二
浴《ゆあみ》すれば、下立《おりた》ちて垢《あか》を流し、出づるを待ちて浴衣《ゆかた》を着せ、鏡を据《すう》るまで、お静は等閑《なほざり》ならず手一つに扱ひて、数ならぬ女業《をんなわざ》の効無《かひな》くも、身に称《かな》はん程は貫一が為にと、明暮を唯それのみに委《ゆだ》ぬるなり。されども、彼は別に奥の一間《ひとま》に己《おのれ》の助くべき狭山《さやま》あるをも忘るべからず。そは命にも、換ふる人なり。又されども、彼と我との命に換ふる大恩をここの主《あるじ》にも負へるなり。如此《かくのごと》く孰《いづ》れ疎《おろそか》ならぬ主《あるじ》と夫とを同時に有《も》てる忙《せは》しさは、盆と正月との併《あは》せ来にけんやうなるべきをも、彼はなほ未《いま》だ覚めやらぬ夢の中《うち》にて、その夢心地には、如何《いか》なる事も難《かた》しと為るに足らずと思へるならん。寔《まこと》に彼はさも思へらんやうに勇《いさ》み、喜び、誇り、楽める色あり。彼の面《おもて》は為に謂《い》ふばかり無く輝ける程に、常にも愈《ま》して妖艶《あでやか》に見えぬ。
暫《しば》し浴後《ゆあがり》を涼みゐる貫一の側に、お静は習々《そよそよ》と団扇《うちは》の風を送りゐたりしが、縁柱《えんばしら》に靠《もた》れて、物をも言はず労《つか》れたる彼の気色を左瞻右視《とみかうみ》て、
「貴方《あなた》、大変にお顔色《かほつき》がお悪いぢや御座いませんか」
貫一はこの言《ことば》に力をも得たらんやうに、萎《な》え頽《くづ》れたる身を始て揺《ゆす》りつ。
「さうかね」
「あら、さうかねぢや御座いませんよ、どうあそばしたのです」
「別にどうも為はせんけれど、何だかかう気が閉ぢて、惺然《はつきり》せんねえ」
「惺然《はつきり》あそばせよ。麦酒《ビイル》でも召上りませんか、ねえ、さうなさいまし」
「麦酒かい、余り飲みたくもないね」
「貴方そんな事を有仰《おつしや》らずに、まあ召上つて御覧なさいまし。折角|私《わたくし》が冷《ひや》して置きましたのですから」
「それは狭山君が帰つて来て飲むのだらう」
「何で御座いますつて?!」
「いや、常談ぢやない、さうなのだらう」
「狭山は、貴方、麦酒《ビイル》なんぞを戴《いただ》ける今の身分ぢや御座いませんです」
「そんなに堅く為《せ》んでも可いさ、内の人ぢやないか。もつと気楽に居てくれなくては困る」
お静は些《ちよ》と涙含《なみだぐ》みし目を拭《ぬぐ》ひて、
「この上の気楽が有つて耐《たま》るものぢや御座いません」
「けれども有物《あるもの》だから、所好《すき》なら飲んでもらはう。お前さんも克《い》くのだらう」
「はあ、私もお相手を致しますから、一盃《いつぱい》召上りましよ。氷を取りに遣りまして――夏蜜柑《なつみかん》でも剥《む》きませう――林檎《りんご》も御座いますよ」
「お前さん飲まんか」
「私も戴きますとも」
「いや、お前さん独《ひとり》で」
「貴方の前で私が独で戴くので御座いますか。さうして貴方は?」
「私は飲まん」
「ぢや見てゐらつしやるのですか。不好《いや》ですよ、馬鹿々々しい! まあ何でも可いから、ともかくも一盃召上ると成さいましよ、ね。唯今《ただいま》直《ぢき》に持つて参りますから、其処《そこ》にゐらつしやいまし」
気軽に走り行きしが、程無く老婢《ろうひ》と共に齎《もたら》せる品々を、見好げに献立して彼の前に陳《なら》ぶれば、さすがに他の老婆子《ろうばし》が寂《さびし》き給仕に義務的|吃飯《きつぱん》を強《し》ひらるるの比にもあらず、やや難捨《すてがた》き心地もして、コップを取挙《とりあぐ》れば、お静は慣れし手元に噴溢《ふきこぼ》るるばかり酌して、
「さあ、呷《ぐう》とそれを召上れ」
貫一はその半《なかば》を尽して、先《ま》づ息《いこ》へり。林檎を剥《む》きゐるお静は、手早く二片《ふたひら》ばかり※[#「※」は「炎+りっとう」、471−2]《そ》ぎて、
「はい、お肴《さかな》を」
「まあ、一盃上げやう」
「まあ、貴方――いいえ、可けませんよ。些《ちつ》とお顔に出るまで二三盃続けて召上れよ。さうすると幾らかお気が霽《は》れますから」
「そんなに飲んだら倒れて了ふ」
「お倒れなすたつて宜《よろし》いぢや御座いませんか。本当に今日は不好《いや》な御顔色でゐらつしやるから、それがかう消えて了ふやうに、奮発して召上りましよ」
彼は覚えず薄笑《うすわらひ》して、
「薬だつてさうは利《き》かんさ」
「どうあそばしたので御座います。何処《どこ》ぞ御体がお悪いのなら、又無理に召上るのは可う御座いませんから」
「体は始終悪いのだから、今更驚きも為んが……ぢや、もう一盃飲まうか」
「へい、お酌。ああ、余《あんま》りお見事ぢや御座いませんか」
「見事でも可かんのかい」
「いいえ、お見事は結構なのですけれど、余《あんま》り又――頂戴……ああ恐入ります」
「いや、考へて見ると、人間と云ふものは不思議な者だ。今まで不見不知《みずしらず》の、実に何の縁も無いお前さん方が、かうして内に来て、狭山君はああして実体《じつてい》の人だし、お前さんは優く世話をしてくれる、私は決して他人のやうな心持は為《せ》んね。それは如何《いか》なる事情が有つてかう成つたにも為よ、那裏《あすこ》で逢《あ》はなければ、何処《どこ》の誰だかお互に分らずに了つた者が、急に一処に成つて、貴方がどうだとか、私《わたくし》がかうだとか
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