あふ》りて、
「さあ、お静」
 女は何気無く受けながら、思へば、別の盃《さかづき》かと、手に取るからに胸潰《むねつぶ》れて、
「狭山さん、私は今更お礼を言ふと云ふのも、異な者だけれど、貴方は長い月日の間、私のやうなこんな不束者《ふつつかもの》の我儘者《わがままもの》を、能くも愛相《あいそ》を尽かさずに、深切に、世話をして下すつた。
 私は今まで口には出さなかつたけれど、心の内ぢや、狭山さん、嬉いなんぞと謂ふのは通り越して、実に難有《ありがた》いと思つてゐました。その御礼を為たいにも、知つてゐる通の阿母《おつか》さんが在るばかりに唯さう思ふばかりで、どうと云ふ事も出来ず、本当《ほんと》に可恥《はづかし》いほど行届かないだらけで、これぢや余《あんま》り済まないから、一日も早く所帯でも持つやうに成つて、さうしたら一度にこの恩返しを為ませうと、私は、そればかりを楽《たのしみ》に、出来ない辛抱も為てゐたんだけれど、もう、今と成つちや何もかも水《み》……水《み》……水《みづ》の……泡。
 つい心易立《こころやすだて》から、浸々《しみじみ》お礼も言はずにゐたけれど、狭山さん、私の心は、さうだつたの。もうこれぎりで、貴方も……私も……土に成つて了へば、又とお目には掛れ、ないんだから、せめては、今改めて、狭山さん、私はお礼を申します」
 男は身をも搾《しぼ》らるるばかりに怺《こら》へかねたる涙を出《いだ》せり。
「もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな! 冥路《よみぢ》の障《さはり》だ。両箇《ふたり》が一処に死なれりや、それで不足は無いとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜んで死なうよ」
「私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝つて私は飲みます」
 涙|諸共《もろとも》飲干して、
「あなた、一つお酌して下さいな」
 注《つ》げば又|呷《あふ》りて、その余せるを男に差せば、受けて納めて、手を把《と》りて、顔見合せて、抱緊《だきし》めて、惜めばいよいよ尽せぬ名残《なごり》を、いかにせばやと思惑《おもひまど》へる互の心は、唯それなりに息も絶えよと祈る可かめり。
 男は抱《いだ》ける女の耳のあたかも唇《くちびる》に触るる時、現《うつつ》ともなく声誘はれて、
「お静、覚悟は可いか」
「可いわ、狭山さん」
「可けりや……」
「不如《いつそ》もう早く」
 狭山は直《ぢき》に枕の下なる袱紗包《ふくさづつみ》の紙入《かみいれ》を取上げて、内より出《いだ》せる一包《いつぽう》の粉剤こそ、正《まさ》に両個《ふたり》が絶命の刃《やいば》に易《か》ふる者なりけれ。
 女は二つの茶碗《ちやわん》を置並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封を披《ひら》きて、男の手よりその内に頒《わか》たれぬ。
「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」
「ああ可うござんす」
 雨はこの時漸く霽《は》れて、軒の玉水|絶々《たえだえ》に、怪禽《かいきん》鳴過《なきすぐ》る者両|三声《さんせい》にして、跡松風の音|颯々《さつさつ》たり。
 狭山はやがて銚子《ちようし》を取りて、一箇《ひとつ》の茶碗に酒を澆《そそ》げば、お静は目を閉ぢ、合掌して、聞えぬほどの忍音《しのびね》に、
「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」
 代りて酌する彼の想は、吾手《わがて》男の胸元《むなもと》に刺違《さしちが》ふる鋩《きつさき》を押当つるにも似たる苦しさに、自《おのづ》から洩出《もれい》づる声も打震ひて、
「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏、南無《なむ》……阿弥陀《あみだ》……南無阿弥《なむあみ》……陀《だ》……仏《ぶつ》、南無《なむ》……」
 と両個《ふたり》は心も消入らんとする時、俄《にはか》に屋鳴《やなり》震動《しんどう》して、百雷一処に堕《お》ちたる響に、男は顛《たふ》れ、女は叫びて、前後不覚の夢か現《うつつ》の人影は、乍《たちま》ち顕《あらは》れて燈火《ともしび》の前に在り。
「貴方《あなた》方は、怪からん事を! 可けませんぞ」
 男は漸く我に復《かへ》りて、惧《お》ぢ愕《おどろ》ける目を※[#「※」は「目+登」、441−14]《みひら》き、
「ああ! 貴方《あなた》は」
「お見覚《みおぼえ》ありませう、あれに居る泊客《とまりきやく》です。無断にお座敷へ入つて参りまして、甚《はなは》だ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか」
 悄然《しようぜん》として面《おもて》を挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は両個《ふたり》の姿を※[#「※」は「目+句」、442−1]《みまは》しつつ、彼の答を待てり。
「勿論《もちろん》これには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入《こみい》つたお話は承《うけたま》はらんでも宜《よろし》い、但何故《ただなにゆゑ》に貴下方は活《い》きてをられんですか、それだけお聞せ下さい」
「…………」
「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」
 男は甚《はなは》だ微《かすか》に頷《うなづ》きつ。
「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、何故《なにゆゑ》に添れんのです」
 彼は又黙せり。
「その次第を伺つて、私《わたくし》の力で及ぶ事でありましたら、随分御相談|合手《あひて》にも成らうかと、実は考へるので。然し、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成程活きてをられんのは御尤《ごもつとも》だ、他人の私《わたし》でさへ外に道は無い、と考へられるやうなそれが事情でありましたら、私は決してお止《とど》め申さん。ここに居て、立派に死なれるのを拝見もすれば、介錯《かいしやく》もして上げます。
 私《わたくし》もこの間に入つた以上は、空《むなし》く手を退《ひ》く訳には行かんのです。貴下方を拯《すく》ふ事が出来るか、出来んか、那一箇《どつちか》です。幸《さいはひ》に拯《すく》ふ事が出来たら、私は命の親。又出来なかつたら、貴下方はこの世に亡《な》い人。この世に亡い人なら、如何《いか》なる秘密をここで打明けたところが、一向|差支無《さしつかへな》からうと私は思ふ。若《も》し命の親とすればです、猶更《なおさら》その者に裹《つつ》み隠す事は無いぢやありませんか。私は何も洒落《しやれ》に貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、顕然《ちやん》と聴くだけの覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」

     第 五 章

 貫一は気を厳粛《おごそか》にして逼《せま》れるなり。さては男も是非無げに声|出《いだ》すべき力も有らぬ口を開きて、
「はい御深切に……難有《ありがた》う存じます……」
「さあ、お話し下さい」
「はい」
「今更お裹《つつ》みなさる必要は無からう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町《こうじまち》の者で、間《はざま》貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々《よくよく》これは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為《ふため》に成るやうには取計ひません。私も出来る事なら、人間|両個《ふたり》の命を拯《すく》ふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄に為て見たい。私はこれ程までに申すのです」
「はい、段々御深切に、難有う存じます」
「それぢや、お話し下さるか」
「はい、お聴に入れますで御座います」
「それは忝《かたじけ》ない」
 彼は始めて心安う座を取れば、恐る惶《おそ》る狭山は先《ま》づその姿を偸見《ぬすみみ》て、
「何からお話し申して宜《よろし》いやら……」
「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰《おつしや》る――! 何為《なぜ》添れんのですか」
「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分|遣《つか》ひ込みましたので御座います」
「はあ、御主人|持《もち》ですか」
「さやうで御座います。私は南伝馬町《みなみてんまちよう》の幸菱《こうびし》と申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔《さやまもとすけ》と申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋《かしわや》の愛子と申しまする」
 名宣《なの》られし女は、消えも遣《や》らでゐたりし人陰の闇《くら》きより僅《わづか》に躙《にじ》り出でて、面伏《おもぶせ》にも貫一が前に会釈しつ。
「はあ、成程」
「然るところ、昨今これに身請《みうけ》の客が附きまして」
「ああ、身請の? 成程」
「否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその引負《ひきおひ》の為に、主人から告訴致されまして、活《い》きてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何《いか》にとも致方《いたしかた》が御座いませんゆゑ、無分別《むふんべつ》とは知りつつも、つい突迫《つきつ》めまして、面目次第も御座いません」
 彼等はその無分別を慙《は》ぢたりとよりは、この死失《しにぞこな》ひし見苦しさを、天にも地にも曝《さら》しかねて、俯《ふ》しも仰ぎも得ざる項《うなじ》を竦《すく》め、尚《なほ》も為ん方無さの目を閉ぢたり。
「ははあ。さうするとここに金さへ有れば、どうにか成るのでせう! 貴方の費消《つかひこみ》だつて、その金額を弁償して、宜《よろし》く御主人に詑《わ》びたら、無論内済に成る事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、此方《こつち》でも請出すまでの事。さうして、貴方の引負《ひきおひ》は若干《いくら》ばかりの額《たか》に成るのですか」
「三千円ほど」
「三千円。それから身請の金は?」
 狭山は女を顧みて、二言三言《ふたことみこと》小声に語合《かたら》ひたりしが、
「何やかやで八百円ぐらゐは要《い》りますので」
「三千八百円、それだけ有つたら、貴下方は死なずに済むのですな」
 打算し来《きた》れば、真に彼等の命こそ、一人前一千九百円に過ぎざるなれ。
「それぢや死ぬのはつまらんですよ! 三千や四千の金なら、随分そこらに滾《ころが》つてゐやうと私は思ふ。就いては何とか御心配して上げたいと考へるのですが、先づとにかく貴下方の身の上を一番《ひとつ》悉《くはし》くお話し下さらんか」
 かかる際《きは》には如何ばかり嬉き人の言《ことば》ならんよ。彼はその偽《いつはり》と真《まこと》とを思ふに遑《いとま》あらずして、遣る方も無き憂身《うきみ》の憂きを、冀《こひねがは》くば跡も留めず語りて竭《つく》さんと、弱りし心は雨の柳の、漸く風に揺れたる勇《いさみ》を作《な》して、
「はい、ついに一面識も御座いません私共、殊《こと》に痴情の果に箇様《かよう》な不始末《ぶしまつ》を為出《しだ》しました、何《なに》ともはや申しやうも無い爛死蛇《やくざもの》に、段々と御深切のお心遣《こころづかひ》、却つて恥入りまして、実に面目次第も御座いません。
 折角の御言《おことば》で御座いますから、思召《おぼしめし》に甘えまして、一通りお話致しますで御座いますが、何から何まで皆恥で、人様の前ではほとほと申上げ兼ねますので御座います。
 実は、只今申上げました三千円の費消《つかひこみ》と申しますのは、究竟《つまり》遊蕩《あそび》を致しました為に、店の金に手を着けましたところ、始の内はどうなり融通も利《き》きましたので、それが病付《やみつき》に成つて、段々と無理を致しまして、長い間に※[#「※」は「りっしんべん+(夢−夕)/目」、446−8]々《うかうか》穴を開けましたのが、積り積つて大分《だいぶん》に成りましたので御座います。
 然《しか》るところ、もう八方|塞《ふさが》つて遣繰《やりくり》は付きませず、いよいよ主人には知れますので、苦紛《くるしまぎ》れに相場に手を出したのが怪我《けが》の元で、ちよろりと取られますと、さあそれだけ穴が大きく成りましたものですから、愈《いよい》よ為方御座いません、今度はどうか、今度はどうかで、もうさう成つては私も死物狂《しにものぐるひ》で、無理の中から無理を致して、続くだけ遣
前へ 次へ
全71ページ中65ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング