りましたところが、到頭|逐倒《おひたふ》されて了ひまして、三千円と申上げました費消《つかひこみ》も、半分以上はそれに注込みましたので御座います。
然し、これだけの事で御座いますれば、主人も従来《これまで》の勤労《つとめ》に免じて、又どうにも勘弁は致してくれましたので御座います。現にこの一条が発覚致しまして、主人の前に呼付けられました節も、この度《たび》の事は格別を以つて赦《ゆる》し難いところも赦して遣ると、箇様に申してはくれましたので」
「成程?!」
「と申すのには、少し又|仔細《しさい》が御座いますので。それは、主人の家内の姪《めひ》に当ります者が、内に引取つて御座いまして、これを私に妻《めあは》せやうと云ふ意衷《つもり》で、前々《ぜんぜん》からその話は有りましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、何と就かずに段々|言延《いひのば》して御座いましたのを、決然《いよいよ》どうかと云ふ手詰《てづめ》の談《はなし》に相成《あひな》りましたので。究竟《つまり》、費消《つかひこみ》は赦して遣るから、その者を家内に持て、と箇様に主人は申すので御座います」
「大きに」
「其処《そこ》には又|千百《いろいろ》事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実に辞《ことわ》るにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと吾儘《わがまま》を申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います」
「ああ、さうなのですか」
「そこへ持つて参つて、此度《こんど》の不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと云ふので御座いますから、全《まる》で仇《かたき》をば恩で返してくれますやうな、申分《まをしぶん》の無い主人の所計《はからひ》。それを乖《もど》きましては、私は罰《ばち》が中《あた》りますので御座います。さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何《いか》にともその気に成れませんので、已《や》むを得ず縁談の事は拒絶《ことわり》を申しましたので御座います」
「うむ、成程」
「それが為に主人は非常な立腹で、さう吾儘《わがまま》を言ふのなら、費消《つかひこみ》を償《まと》へ、それが出来ずば告訴する。さうしては貴様の体に一生の疵《きず》が附く事だから、思反《おもひかへ》して主人の指図《さしず》に従へと、中に人まで入れて、未《ま》だ未だ申してくれましたのを、何処《どこ》までも私は剛情を張通して了つたので御座います」
「吁《ああ》! それは貴方が悪いな」
「はい、もう私の善いところは一つでも有るのぢや御座いません。その事に就きまして、主人に書置《かきおき》も致しましたやうな次第で、既に覚悟を極《きは》めました際《きは》まで、心懸《こころがかり》と申すのは、唯そればかりなので御座いました。
で又その最中にこれの方の身請騒《みうけさわぎ》が起りましたので」
「成程!」
「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分それは非道な強慾な者で御座います。まあ悉《くはし》く申上げれば、長いお話も御座いますが、これも娘と申すのは名のみで、年季で置いた抱《かかへ》も同様の取扱《とりあつかひ》を致して、為て遣る事は為ないのが徳、稼《かせ》げるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな了簡《りようけん》で、長い間無理な勤を為《さ》せまして、散々に搾《しぼ》り取つたので御座います。
で、私の有る事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところから、さあ聒《やかまし》く言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、下谷《したや》に富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」
「え!? 何……何……何ですか!」
「御承知で御座いますか、あの富山|唯継《ただつぐ》と云ふ……」
「富山? 唯継!」
その面色、その声音《こわね》! 彼は言下《ごんか》に皷怒《こど》して、その名に躍《をど》り被《かか》らんとする勢《いきほひ》を示せば、愛子は駭《おどろ》き、狭山は懼《おそ》れて、何事とも知らず狼狽《うろた》へたり。貫一は轟く胸を推鎮《おししづ》めても、なほ眼色《まなざし》の燃ゆるが如きを、両個《ふたり》が顔に忙《せはし》く注ぎて、
「その富山唯継が身請の客ですか」
「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」
「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」
狭山の打惑《うちまど》ふ傍《そば》に、女は密《ひそか》に驚く声を放てり。
「那奴《あいつ》が身請の?」
問はるる愛子は、会釈して、
「はい、さやうなんで御座います」
「で、貴方は彼に退《ひ》かされるのを嫌《きら》つたのですな」
「はい」
「さうすると、去年の始から貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」
「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」
「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」
「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」
「ああ、さうですか! それぢや旦那《だんな》に取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」
女は聞くも穢《けがらは》しと、さすが謂ふには謂れぬ尻目遣《しりめづかひ》して、
「私には、さう云ふ事が出来ませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然《まるつきり》無いんで御座います」
「ああ、さうですか! うむ、成程……成程な……解りました、好く解りました」
狭山は俯《うつむ》きゐたり。
「それではかう云ふのですな、貴方は勤《つとめ》を為てをつても、外の客には出ずに、この人|一個《ひとり》を守つて――さうですね」
「さやうです」
「さうして、余所《よそ》の身請を辞《ことわ》つて――富山唯継を振つたのだ! さうですな」
「はい」
※[#「※」は「倏」の「犬」の代わりに「火」、450−14]忽《たちまち》に瞳《ひとみ》を凝《こら》せる貫一は、愛子の面《おもて》を熟視して止《や》まざりしが、やがてその眼《まなこ》の中に浮びて、輝くと見れば霑《うるほ》ひて出づるものあり。
「嗚呼《ああ》……感心しました! 実に立派な者です! 貴方は命を捨てても……この人と……添ひたいのですか!」
何の故《ゆゑ》とも分かず彼の男泣に泣くを見て、両個《ふたり》は空《むなし》く呆《あき》るるのみ。
貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの一匹婦《いつひつぷ》も、知らず誰《たれ》か爾《なんぢ》に教へて、死に抵《いた》るまで尚《なほ》この頼《よ》り難《がた》き義に頼《よ》り、守り難《かた》き節を守りて、終《つひ》に奪はれざる者あるに泣けるなり。
其の泣く所以《ゆゑん》なるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、崇《たふと》く優くも、高く麗《うるはし》くも、又は、完《まつた》くも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、一度《ひとたび》は目前《まのあたり》睹《み》るを得て、その倒懸の苦を寛《ゆる》うせん、と心|※[#「※」は「くさかんむり+熱」、451−6]《や》くが如く望みたりしを、今却りて浮萍《うきくさ》の底に沈める泥中の光に値《あ》へる卒爾《そつじ》の歓極《よろこびきは》まれればなり。
「勿論さう無けりや成らん事! それが女の道と謂ふもので、さう有るべきです、さう有るべき事です。今日《こんにち》のこの軽薄|極《きはま》つた世の中に、とてもそんな心掛のある人間は、私は決して在るものではないと念つてをつた。で、もし在つたらば、どのくらゐ嬉からうと、さう念つてをつたのです。私は実に嬉い! 今夜のやうに感じた事は有りません。私はこの通泣いてゐる――涙が出るほど嬉いのです。私は人事《ひとごと》とは思はん、人事とは思はん訳が有るので、別して深く感じたのです」
かく言ひて、貫一は忙々《いそがはし》く鼻洟《はな》打※[#「※」は「てへん+鼻」、451−13]《うちか》みつ。
「ふむ、それで富山はどうしました」
「来る度《たび》に何のかのと申しますのを、体好《ていよ》く辞《ことわ》るんで御座いますけれど、もう※[#「※」は「勞/心」、451−15]《うるさ》く来ちや、一頻《ひとつきり》なんぞは毎日|揚詰《あげづめ》に為れるんで、私はふつふつ不好《いや》なんで御座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうして独《ひとり》で利巧ぶつて、可恐《おつそろし》い意気がりで、二言目《ふたことめ》には金々と、金の事さへ言へば人は難有《ありがた》がるものかと思つて、俺がかうと思《おも》や千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、始終そんな有余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、衆《みんな》が『御威光』と云ふ仇名《あだな》を附けて了つて、何処へ行つたつて気障《きざ》がられてゐる事は、そりや太甚《ひど》いんで御座います」
「ああ、さうですか」
「そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、可《い》けもしない事を不相変《あひかはらず》執煩《しつくど》く、何だかだ言つてをりましたけれど、這箇《こつち》も剛情で思ふやうに行かないもんですから、了局《しまひ》には手を易《か》へて、内のお袋へ親談《ぢかだん》をして、内々話は出来たんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全で気違のやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もう箸《はし》の上下《あげおろし》には言れますし、狭山と切れろ切れろの聒《やかまし》く成りましたのも、それからなので、私は辛《つら》さは辛し、熟《つくづ》くこんな家業は為る者ぢやないと、何《なんに》も解らずに面白可笑《おもしろをかし》く暮してゐた夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身が余《あんま》りつまらなくて、もうどうしたら可いんだらう、と鬱《ふさ》ぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います」
「うむ、身請――けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事も無くて、直《すぐ》に身請と云ふのですか」
「さうなので」
「変な奴な! さう云ふ身請の為方《しかた》が、然し、有りますか」
「まあ御座いませんです」
「さうでせう。それで、身請をして他《ほか》へ囲《かこ》つて置かうとでも云ふのですか」
「はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるやうにして遣つたら、言分は無からうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうな嬉《うれし》がらせを言つちやをりましたけれど」
眉《まゆ》を昂《あ》げたる貫一、なぞ彼の心の裏《うち》に震ふものあらざらんや。
「妻君に就いてどう云ふ話が有るのですか」
「何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の病人で、小供は無し、用には立たず、有つても無いも同然だから、その内に隠居でもさせて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな口気《くちぶり》なんで御座います」
「さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは」
「随分ちやらつぽこ[#「ちやらつぽこ」に傍点]を言ふ人なんですから、なかなか信《あて》にはなりは致しませんが、妻君の病身の事や、そんなこんなで余《あんま》り内の面白くないのは、どうも全くさうらしいんで御座んす」
「ははあ」
彼は遽《にはか》に何をや打案ずらん、夢むる如き目を放ちて、
「折合が悪いですか!……病身ですか!……隠居をさせるのですか!……ああ……さうですか!」
宮の悔、宮の恨、宮の歎《なげき》、宮の悲《かなしみ》、宮の苦《くるしみ》、宮の愁《うれひ》、宮が心の疾《やまひ》、宮が身の不幸、噫《ああ》、竟《つひ》にこれ宮が一生の惨禍! 彼の思は今|将《は》たこの憐《あはれ》むに堪へたる宮が薄命の影を追ひて移るなりき。
貫一はかの生ける宮よりも、この死なんと為る女の幾許《いかばかり》幸《さいはひ》にかつ愚ならざるかを思ひて、又|躬《みづから》の、先には己《おのれ》の愛する者を拯
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