《まれ》なる山中《やまなか》には来《きた》れる。その罪を※[#「※」は「しんにょう+官」、432−1]《のが》れんが為か、その苦と憂とを忘れんが為か、或《あるひ》はその愛を全うせんが為か、明《あきらか》に彼等は夫婦ならず、又は、女の芸者風なるも、決して尋常の隠遊《かくれあそび》にあらずして、自《おのづ》から穂に露《あらは》るるところ有り。さては何等《なにら》の密会ならん。
 貫一は彼を以《も》て女を偸《ぬす》みて奔《はし》る者ならずや、と先《まづ》推《すい》しつつ、尚《な》ほ如何にやなど、飽かず疑へる間より、忽《たちま》ち一片の反映は閃《きらめ》きて、朧《おぼろ》にも彼の胸の黯《くら》きを照せり。
 彼はこの際熱海の旧夢を憶《おも》はざるを得ざりしなり。
 世上貫一の外《ほか》に愛する者無かりし宮は、その貫一と奔るを諾《うべな》はずして、僅《わづか》に一|瞥《べつ》の富の前に、百年の契を蹂躙《ふみにじ》りて吝《をし》まざりき。噫《ああ》我が当時の恨、彼が今日《こんにち》の悔! 今|彼女《かのをんな》は日夜に栄の衒《てら》ひ、利の誘《いざな》ふ間に立ち、守るに難き節を全うして、世の容《い》れざる愛に随《したが》つて奔らんと為るか。
 爾思《しかおも》へる後の彼は、陰《ひそか》にかの両個《ふたり》の先に疑ひし如き可忌《いまはし》き罪人ならで、潔く愛の為に奔る者たらんを、祷《いの》るばかりに冀《こひねが》へり。若しさもあらば、彼は具《つぶさ》に彼等の苦き身の上と切なる志とを聴かんと念《おも》ひぬ。
 心永く痍《きずつ》きて恋に敗れたる貫一は、殊更《ことさら》に他の成敗に就いて観《み》るを欲せるなり。彼は己《おのれ》の不幸の幾許《いかばかり》不幸に、人の幸《さち》の幾許幸ならんかを想ひて、又己の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想ひて、又己の契の幾許薄く、人の縁《えにし》の幾許深からんかを想ひて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の交《かは》せる情《なさけ》の幾許篤からんかを想ひて、又己の恋の障碍《さまたげ》の幾許強く、人の容れられぬ世の幾許狭からんかを想ひて。嗟呼《ああ》、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の末終《つひ》に如何《いか》ならんかを想ひて。
 昼間の程は勗《つと》めて籠《こも》りゐしかの両個《ふたり》の、夜に入りて後|打連《うちつ》れて入浴せるを伺ひ知りし貫一は、例の益《ますま》す人目を避《さく》るならんよと念《おも》へり。
 還り来《き》て多時《しばらく》酒など酌交《くみかは》す様子なりしが、高声一つ立つるにもあらで、唯障子を照す燈《ともし》のみいと瞭《さやか》に、内の寂しさは露をも置きけんやうにて、さてはかの吹絶えぬ松風に、彼等は竟《つひ》に酔《ゑひ》を成さざるならんと覚ゆばかりなりき。
 為《な》す事もあらねば、貫一は疾《と》く臥内《ふしど》に入りけるが、僅《わづか》に※[#「※」は「目+毛」、433−8]《まどろ》むと為れば直《ぢき》に、寤《さ》めて、そのままに睡《ねむり》は失《うす》るとともに、様々の事思ひゐたり。
 夜の静なるを動かして、かの男女《なんによ》の細語《ひそめき》は洩《も》れ来《き》ぬ。甚《はなは》だ幺微《かすか》なれば聞知るべくもあらねど、※[#「※」は「女+尾」、433−11]々《びび》として絶えず枕に打響きては、なかなか大いなる声にも増して耳煩《みみわづら》はしかり。
 さなきだに寝難《いねがた》かりし貫一は、益す気の澄み、心の冱《さ》え行くに任せて、又|徒《いたづら》にとやかくと、彼等の身上《みのうへ》を推測《おしはか》り推測り思回《おもひめぐ》らすの外はあらず。彼方《あなた》もその幺微《かすか》なる声に語り語りて休《や》まざるは、思の丈《たけ》の短夜《たんや》に余らんとするなるか。
 乍《たちま》ち有りて、迸《ほとばし》れるやうにその声はつと高く揚れり。貫一は愕然《がくぜん》として枕を欹《そばだ》てつ。女は遽《にはか》に泣出《なきいだ》せるなり。
 その時男の声音《こわね》は全く聞えずして、唯|独《ひと》り女の縦《ほしいま》まに泣音《なくね》を洩《もら》すのみなる。寤めたる貫一は弥《いや》が上に寤めて、自ら故《ゆゑ》を知らざる胸を轟《とどろか》せり。
 少焉《しばし》泣きたりし女の声は漸《やうや》く鎮りて、又|湿《しめ》り勝《がち》にも語り初《そ》めしが、一たび情《じよう》の為に激せし声音は、自《おのづ》から始よりは高く響けり。されどなほその言ふところは聞知り難くて、男の声は却《かへ》りて前《さき》よりも仄《ほのか》なり。
 貫一は咳《しはぶ》きも遣らで耳を澄せり。
 或《あるひ》は時に断ゆれども、又|続《つ》ぎ、又続ぎて、彼等の物語は蚕《かひこ》の糸を吐きて倦《う》まざらんやうに、限も知らず長く亘《わた》りぬ。げにこの積る話を聞きも聞せもせんが為に、彼等はここに来つるにやあらん。されども、日は明日《あす》も明後日《あさつて》も有るを、甚《はなは》だ忙《せはし》くも語るもの哉《かな》。さばかり間遠《まどほ》なりし逢瀬《あふせ》なるか、言はでは裂けぬる胸の内か、かく有らでは慊《あきた》らぬ恋中《こひなか》か、など思ふに就けて、彼はさすがに我身の今昔《こんじやく》に感無き能はず、枕を引入れ、夜着《よぎ》引被《ひきかつ》ぎて、寐返《ねがへ》りたり。
 何時罷《いつや》みしとも覚えで、彼等の寐物語は漸く絶えぬ。
 貫一も遂に短き夢を結びて、常よりは蚤《はや》かりけれど、目覚めしままに起出《おきい》でし朝冷《あさびえ》を、走り行きて推啓《おしあ》けつる湯殿の内に、人は在らじと想ひし眼《まなこ》を驚《おどろか》して、かの男女《なんによ》は浴《ゆあみ》しゐたり。
 貫一ははたと閉《とざ》して急ぎ返りつ。

     第 四 章

 両箇《ふたり》はやや熱かりしその日も垂籠《たれこ》めて夕《ゆふべ》に抵《いた》りぬ。むづかしげに暮山《ぼさん》を繞《めぐ》りし雲は、果して雨と成りて、冷々《ひやひや》と密下《そぼふ》るほどに、宵の燈火《ともしび》も影|更《ふ》けて、壁に映《うつろ》ふ物の形皆寂く、憖《なまじ》ひに起きて在るべき夜頃《よごろ》ならず。さては貫一も枕《まくら》に就きたり。
 ラムプを細めたる彼等の座敷も甚《はなは》だ静に、宿の者さへ寐急《ねいそ》ぎて後十一時は鳴りぬ。
 凄《すさまじ》き谷川の響に紛れつつ、小歇《をやみ》もせざる雨の音の中に、かの病憊《やみつか》れたるやうの柱時計は、息も絶気《たゆげ》に半夜を告げわたる時、両箇《ふたり》が閨《ねや》の燈《ともし》は乍《たちま》ち明《あきら》かに耀《かがや》けるなり。
 彼等は倶《とも》に起出でて火鉢《ひばち》の前に在り。
「膳《ぜん》を持つて来ないか」
「ええ」
 女は幺微《かすか》なる声して答へけれど、打萎《うちしを》れて、なかなか立ちも遣《や》らず。
「狭山さん、私《わたし》は何だか貴方《あなた》に言残した事が未《ま》だ有るやうな心持がして……」
「吁《ああ》、もうかう成つちやお互に何も言はないが可《い》い。言へばやつぱり未練が出る」
 彼は熟《じ》と内向《うつむ》きて、目を閉ぢたり。
「貴方、その指環を私のと取替事《とりかへつこ》して下さいね」
「さうか」
 各《おのおの》その手に在るを抜きて、男は実印用のを女の指に、女はダイアモンド入のを男の指に、※[#「※」は「てへん+(鐶−金)」、436−2]《さ》し了《をは》りてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。
 颯《さ》と鳴りて雨は一時《ひとしきり》繁《しげ》く灑《そそ》ぎ来《きた》れり。
「ああ、大相降つて来た」
「貴方は不断から雨が所好《すき》だつたから、きつとそれで……暇《いとま》……乞《ごひ》に降つて来たんですよ」
「好い折だ。あの雨を肴《さかな》に……お静、もう覚悟を為ろよ!」
「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」
「酒を持つて来な」
「あい」
 お静も今は心を励して、宵の程|誂《あつら》へ置きし酒肴《しゆこう》の床間《とこのま》に上げたるを持来《もてき》て、両箇《ふたり》が中に膳を据れば、男は手早く燗《かん》して、その間《ま》に各《おのおの》服を更《あらた》むる忙《せは》しさは、忽《たちま》ち衣《きぬ》の擦《す》り、帯の鳴る音高く※[#「※」は「糸+卒」、436−12]※[#「※」は「糸+察」、436−13]《さやさや》と乱れ合ひて、転《うた》た雨|濃《こまやか》なる深夜を驚《おどろ》かせり。
「ええ、もう好《す》かない!」
 帯緊《おびし》めながら女はその端《はし》を振りて身悶《みもだえ》せるなり。
「どうしたのだ」
「なあにね、帯がこんなに結《むす》ばつて了つて」
「帯が結ばつた?」
「ああ! あなた釈《と》いて下さい、よう」
「何か吉《い》い事が有るのだ」
「私はもしも遣損《やりそこな》つて、耻《はぢ》でも曝《さら》すやうな事が有つちやと、それが苦労に成つて耐《たま》らなかつたんだから、これでもう可いわ」
「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事は無いとは念ふけれど、運悪く遅れたら、俺《おれ》はきつと後から往くから――どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」
 つと俯《ふ》したるお静は、男の膝を咬《か》みて泣きぬ。
「その代り、偶《ひよつ》としてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……魂《たましひ》はおまへの陰身《かげみ》を離れないから、必ず心変《こころがはり》を……す、するなよ、お静」
「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」
「一処に往くとも!」
「一処に! 一処に往きますよ!」
「さあ、それぢやこ、この世の……別に一盃《いつぱい》飲むのだ。もう泣くな、お静」
「泣、泣かない」
「さあ、那裏《あすこ》へ行つて飲まう」
 男は先づ起ちて、女の手を把《と》れば、女はその手に縋《すが》りつつ、泣く泣く火鉢の傍《そば》に座を移しても、なほ離難《はなれがた》なに寄添ひゐたり。
「猪口《ちよく》でなしに、その湯呑《ゆのみ》に為やう」
「さう。ぢや半分づつ」
 熱燗《あつがん》の酒は烈々《れつれつ》と薫《くん》じて、お静が顫《ふる》ふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれぬ。
 女の最も悲かりしは、げにこの刹那《せつな》の思なり。彼は人の為に酒を佐《たすく》るに嫻《なら》ひし手も、などや今宵の恋の命も、儚《はかな》き夢か、うたかたの水盃《みづさかづき》のみづからに、酌取らんとは想の外の外なりしを、唄《うた》にも似たる身の上|哉《かな》と、漫《そぞろ》に逼《せま》る胸の内、何に譬《たと》へん方《かた》もあらず。
 男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、少時《しばし》手にせるままに眺《なが》めゐれば、よし今は憂くも苦くも、久《ひさし》く住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、僅《わづか》に一盃《いつぱい》の酒に対するも、又|哀別離苦《あいべつりく》の感無き能はざるなり。
 念《おも》へ、彼等の逢初《あひそ》めし夕《ゆふべ》、互に意《こころ》有りて銜《ふく》みしもこの酒ならずや。更に両個《ふたり》の影に伴ひて、人の情《なさけ》の必ず濃《こまやか》なれば、必ず芳《かうばし》かりしもこの酒ならずや。その恋中の楽《たのしみ》を添へて、三歳《みとせ》の憂《うさ》を霽《はら》せしもこの酒ならずや。彼はその酒を取りて、吉《よ》き事積りし後の凶の凶なる今夜の末期《まつご》に酬《むく》ゆるの、可哀《あはれ》に余り、可悲《かなし》きに過《すぐ》るを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は点々《ほろほろ》と散りて零《こぼ》れぬ。
「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」
「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者|風情《ふぜい》で死んで了ふのが……悔《くやし》い、私は!」
 聞くも苦しと、男は一息に湯呑の半《なかば》を呷《
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