からうかと思ふと、私だつて好い気持はしないもんだから、つい向者《さつき》はあんなに言過ぎて、私は誠に済みませんでした。それはもう貴方の言ふ通り悪縁には差無《ちがひな》いんだけれど、後生だからそんな可厭《いや》な事は考へずにゐて下さい。私はこれで本望だと思つてゐる」
「生木《なまき》を割《さ》いて別れるよりは、まあ愈《まし》だ」
「別れる? 吁《ああ》! 可厭《いや》だ! 考へても慄然《ぞつ》とする! 切れるの、別れるのなんて事は、那奴《あいつ》が来ない前には夢にだつて見やしなかつたのを、切れろ切れろぢや私もどの位内で責められたか知れやしない。さうして挙句《あげく》がこんな事に成つたのも、想へば皆《みんな》那奴のお蔭だ。ええ、悔《くやし》い! 私はきつと執着《とつつ》いても、この怨《うらみ》は返して遣《や》るから、覚えてゐるが可い!」
 女は身を顫《ふるは》せて詈《ののし》るとともに、念入《おもひい》りて呪《のろ》ふが如き血相を作《な》せり。
 不知《しらず》、この恨み、詈《ののし》り、呪はるる者は、何処《いづく》の誰《だれ》ならんよ。
「那奴も好加減な馬鹿ぢやないか!」
 男は歯咬《はがみ》しつつ苦しげに嗤笑《ししよう》せり。
「馬鹿も大馬鹿よ! 方図の知れない馬鹿だわ。畜生! 所歓《いろ》の有る女が金で靡《なび》くか、靡かないか、些《ちつと》は考へながら遊ぶが可い。来りや不好《いや》な顔を為て遣るのに、それさへ解らずに、もう※[#「※」は「勞/心」、426−12]《うるさ》く附けつ廻しつして、了局《しまひ》には人の恋中の邪魔を為やがるとは、那奴も能《よ》く能くの芸無猿《げいなしざる》に出来てゐるんだ。憎さも憎し、私はもう悔くて、悔くて、狭山さん、実はね、私はこの世の置土産《おきみやげ》に、那奴の額を打割《ぶちわ》つて来たんでさね」
「ええ、どうして!」

「なあにね、貴方に別れたあの翌日《あくるひ》から、延続《のべつ》に来てゐやがつて、ちつとでも傍《そば》を離さないんぢやありませんか。這箇《こつち》は気が気ぢやないところへ、もう悪漆膠《わるしつこ》くて耐《たま》らないから、病気だと謂《い》つて内へ遁《に》げて来りや、直《すぐ》に追懸《おつか》けて来て、附絡《つきまと》つてゐるんでせう。さうすると寸法は知れてまさね、丁《ちやん》と渉《わたり》が付いてゐるんだから、阿母《おつか》さんは傍《そば》から『ちやほや』して、そりや貴方、真面目《まじめ》ぢや見ちやゐられないお手厚《てあつ》さ加減なんだから、那奴は図に乗つて了つて、やあ、風呂を沸《わか》せだ事の、ビイルを冷《ひや》せだ事のと、あの狭い内へ一個《ひとり》で幅を為《し》やがつて、なかなか動《いご》きさうにも為ないんぢやありませんか。
 私は全で生捕《いけどり》に成つたやうなもので、出るには出られず、這箇《こつち》の事が有るから、さうしてゐる空《そら》は無し、あんな気の揉《も》めた事は有りはしない――本当《ほんと》にどうせうかと思つた。ええ、なあに、あんな奴は打抛出《おつぽりだ》して措《お》いて、這箇《こつち》は掻巻《かいまき》を引被《ひつかぶ》つて一心に考へてゐたんですけれど、もう憤《じ》れたくて耐らなくなつて来たから、不如《いつそ》かまはず飛出して了はうかと、余程《よつぽど》さう念つたものの、丹子《たんこ》の事も、ねえ、考へて見りや可哀《かはい》さうだし、あの子を始め阿母さんまで、私ばかりを頼《たより》に為てゐるものを、さぞや私の亡《な》い後には、どんなにか力も落さうし、又あの子も為ないでも好い苦労を為なけりやなるまいと、そればかりに牽《ひか》されて、色々話も有るものだから、あの子の阿母さんにも逢つて遣りたし、それに、私も出るに就いちや、為て置かなけりやならない事も有るし為るので、到頭|遅々《ぐづぐづ》して出損《でそこな》つて了つたんです。
 さうすると、どうでせう、まあ、那奴はその晩二時過までうで付[#「うで付」に傍点]いてゐて、それでも不承々々に還《かへ》つたのは可い。すると翌日《あくるひ》は半日阿母さんのお談義が始まつて、好加減に了簡《りようけん》を極めろでせう。さう言つちや済まないけれど、育てた恩も聞飽きてゐるわ。それを追繰返《おつくりかへ》し、引繰返《ひつくりかへ》し、悪体交《あくたいまじ》りには、散々聴せて、了局《しまひ》は口返答したと云つて足蹴《あしげ》にする。なあに、私は足蹴にされたつて、撲《ぶた》れたつて、それを悔いとは思やしないけれど、這箇《こつち》だつて貴方と云ふ者が有ると思ふから、もう一生懸命に稼《かせ》いで、為るだけの事は丁《ちやん》と為てあるのに、何ぼ慾にきりが無いと謂つても、自分の言条《いひじよう》ばかり通さうとして、他《ひと》には些《ちつと》でも楽を為せない算段を為る。私だつて金属《かね》で出来た機械ぢやなし、さうさう駆使《こきつか》はれてお為にばかり成つてゐちや、這箇《こつち》の身が立ちはしない。
 別にどうしてくれなくても、訳さへ解つてゐてくれりや、辛いぐらゐは私は辛抱する。所歓《いろ》は堰《せ》いて了ふし、旦那取《だんなとり》は為ろと云ふ。そんな不可《いや》な真似《まね》を為なくても、立派に行くやうに私が稼いであるんぢやありませんか。それをさう云ふ無理を言つてからに、素直でないの、馬鹿だのと、足蹴に為るとは……何……何事で……せう!
 それぢや私も赫《かつ》として、もう我慢が為切れなく成つたから、物も言はずに飛出さうと為る途端に、運悪く又|那奴《あいつ》が遣つて来たんぢやありませんか。さあ、捉《つかま》つて了つて、其処《そこ》の場図《ばつ》で迯《にげ》るには迯られず、阿母《おつか》さんは得《え》たり賢《かしこ》しなんでせう、一処に行け行けと聒《やかまし》く言ふし、那奴は何でも来いと云つて放さない。私も内を出た方が都合が好いと思つたから、まあ言ふなりに成つて、例の処へ※[#「※」は「てへん+曳」、428−15]《ひつぱ》られて行つたとお思ひなさい。あの長尻《ながちり》だから、さあ又還らない、さうして何か所思《おもはく》でも有つたんでせうよ、何だか知らないけれど、その晩に限つて無闇《むやみ》とお酒を強《しひ》るんでさ。這箇《こつち》も鬱勃肚《むしやくしやばら》で、飲めも為ないのに幾多《いくら》でも引受けたんだけれど、酔ひさうにも為やしない。
 その内に漸々《そろそろ》又お極《きま》りの気障《きざ》な話を始めやがつて、這箇《こつち》が柳に受けて聞いてゐて遣りや、可いかと思つて増長して、呆《あき》れた真似《まね》を為やがるから、性の付く程|諤々《つけつけ》さう言つて遣つたら、さあ自棄《やけ》に成つて、それから毒吐《どくつ》き出して、やあ店番の埃被《ほこりかぶり》だの、冷飯吃《ひやめしくら》ひの雇人《やとひにん》がどうだのと、聞いちやゐられないやうな腹の立つ事を言やがるから、這箇《こつち》も思切つて随分な悪体《あくたい》を吐《つ》いて遣つたわ、私は。
 さうすると、了局《しまひ》に那奴は何と言ふかと思ふと、幾許《いくら》七顛八倒《じたばた》しても金で縛《しば》つて置いた体だなんぞ、と利《き》いた風な事を言ふんぢやありませんか。だから、私はさう言つて遣つた、お気の毒だが、貴方は大方目が眩《くら》んで、そりやお袋を縛つたんだらうつて」
 聴ゐる狭山は小気味好《こきみよ》しとばかりに頷《うなづ》けり。
「それで那奴《あいつ》は全然《すつかり》慍《おこ》つて了つて、それからの騒擾《さわぎ》でさ。無礼な奴だとか何とか言つて、私は襟《えり》を持つて引擦《ひきず》り仆《たふ》された。随分飲んでゐたから、やつぱり酔つてゐたんでせう。その時はもう全《まる》で夢中で、唯《ただ》那奴の憎らしいのが胸一杯に込上《こみあ》げて、這畜生《こんちくしよう》と思ふと、突如《いきなり》其処《そこ》に在つたお皿を那奴の横面《よこつつら》へ叩付《たたきつ》けて遣つた。丁度それが眉間《みけん》へ打着《ぶつか》つて血が淋漓《だらだら》流れて、顔が半分真赤に成つて了つた。これは居ちや面倒だと思つたから、家中大騒を遣つてゐる隙《すき》を見て、窃《そつ》と飛出した事は飛出したけれど、別に往所《ゆきどころ》も無いから、丹子の阿母《おつか》さんの処へ駈込《かけこ》んだの。
 ところが、好かつた事には、今旅から帰つたと云ふところなんで、時間を見ると、十時|余程《よつぽど》廻つてゐるんでせう。※[#「※」は「さんずい+氣」、429−17]車《きしや》はもう出ず、気ばかりは急《せ》くけれど、若箇道《どつちみち》間に合ふんぢやなし、それに話は有るし為るもんだから、一晩厄介に成る事にして、髪なんぞを結んでもらひながら、些《ちつ》と訳が有つて、貴方と一処に当分身を隠すのだと云ふやうに話を為てね、それから丹子の事も悉《くはし》く言置いて遣りましたら――善い人ね、あの阿母さんは――おいおい泣出して、自分の子の事はふつつりとも言はずに、唯私の身ばかりを案じて、ああのかうのと色々言つてくれたその実意と云つたら……噫《ああ》、同じ人間でありながら、内の阿母さんは、実に、あなた、鬼ですわ! 私もあの子の阿母さんのやうな実の親が有つたらば、こんな苦労は為やしまいし、又貴方のやうな方の有るのを、さぞかし力に念《おも》つて、喜びも為やうし、大事にも為る事だらうと思つたら、もうもう悲くなつて、悲くなつて、如何《いか》に何でも余《あんま》り情無くて、私はどんなに泣きましたらう。
 それに、私をばあんなに頼《たのみ》に為てゐた阿母さんの事だから、当分でも田舎《ゐなか》へ行つて了ふと云ふのを、それは心細がつて、力を落したの何のと云つたら、私も別れるのが気の毒に成るくらゐで、先へ落付いたら、どうぞ一番に住所《ところ》を知せてくれ、初中終《しよつちゆう》旅を出行《である》いてゐる体だから、直《ぢき》に御機嫌伺《ごきげんうかが》ひに出ると、その事をあんなに懇々《くれぐれ》も頼んでゐましたから、後で聞いたら、さぞ吃驚《びつくり》して……きつと疾《わづら》ひでも為るでせうよ。考へて見りや、丹子も可愛《かはい》し、あの阿母さんも怜《いとし》いし。吁《ああ》、吁!」
 歔欷《すすりなき》して彼は悶《もだ》えつ。
「さう云ふ訳ぢや、猶更《なほさら》内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう」
「大変でせうよ」
「それだと余《あんま》り遅々《ぐづぐづ》しちやゐられないのだ」
「どうで、狭山さん、先は知れてゐ……」
「さうだ」
「だからねえ、もう早い方が可ござんすよ」
 女は咽《むせ》びて其処《そこ》に泣伏しぬ。狭山は涙を連※[#「※」は「目+荅」、431−4]《しばたた》きて、
「お静、おい、お静や」
「あ……あい。狭山さん!」
 憐《あはれ》むべし、情極《じようきはま》りて彼等の相擁《あひよう》するは、畢竟《ひつきよう》尽きせぬ哀歎《なげき》を抱《いだ》くが如き者ならんをや。

     (三) の 二

 両箇《ふたり》は此方《こなた》にかつ泣きかつ語れる間、彼方《あなた》の一箇《ひとり》は徒然《つれづれ》の柱に倚《よ》りて、やうやう傾く日影に照されゐたり。
 その待人の如何《いか》なる者なるかを見て、疑は決すべしと為せし貫一も、かの伴ひ還りし女を見るに※[#「※」は「しんにょう+台」、431−13]《およ》びて、その疑はいよいよ錯雑して、しかも新なる怪訝《あやしみ》の添はるのみなり。
 如何《いか》なればや、女の顔色も甚《はなは》だ勝《すぐ》れず、その点の男といと善く似たるは、同じ憂を分つにあらざる無からんや。我聞く、犯罪の底には必ず女有りと、若《も》し信《まこと》なりとせば、彼は正《まさし》く彼女《かのをんな》ゆゑに如何《いか》なる罪をも犯せるならんよ。その罪の故《ゆゑ》に男は苦み、その苦の故に女は憂ふると為《せ》ば、彼等は誠に相愛《あひあい》するの堅き者ならず哉《や》。
 知らず、彼等は何《なに》の故に相率《あひひきゐ》てこの人目|稀
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