べ》那裏《あちら》のお客様がお帰《かへり》になるかと思つて、遅うまで待つてをりやしたで、今朝睡うござりやす」
「ああ、あのお客は昨夜《ゆふべ》は帰らずか」
「はい、お帰《かへり》が御座りやせん」
貫一はかの客の間の障子を開放《あけはな》したるを見て、咥楊枝《くはへようじ》のまま欄杆伝《てすりづた》ひに外《おもて》を眺め行く態《ふり》して、その前を過《すぐ》れば、床の間に小豆革《あづきがは》の手鞄《てかばん》と、浅黄《あさぎ》キャリコの風呂敷包とを並《なら》べて、傍《そば》に二三枚の新聞紙を引※[#「※」は「捏」の「日」の部分が「臼」、418−16]《ひつつく》ね、衣桁《いこう》に絹物の袷《あはせ》を懸けて、その裾《すそ》に紺の靴下を畳置きたり。
さては少《すこし》く本意無《ほいな》きまでに、座敷の内には見出《みいだ》すべき異状も有らで、彼は宿帳に拠《よ》りて、洋服仕立商なるを知りたると、敢《あへ》て背《そむ》くところ有りとも覚えざるなりき。
拍子抜して返《もど》れる貫一は、心私《こころひそか》にその臆測の鑿《いりほが》なりしを※[#「※」は「女+鬼」、419−2]《は》ぢざるにもあらざれど、又これが為に、直《ただ》ちに彼の濡衣《ぬれぎぬ》を剥去《はぎさ》るまでに釈然たる能はずして、好し、この上はその待人《まちびと》の如何《いか》なる者なるかを見て、疑は決すべしと、やがてその消息を齎《もたら》し来《きた》るべき彼の帰来《かへり》の程を、陰ながら最更《いとさら》に遅しと待てり。
夜は山精木魅《さんせいもくび》の出でて遊ぶを想はしむる、陰森凄幽《いんしんせいゆう》の気を凝《こら》すに反してこの霽朗《せいろう》なる昼間の山容水態は、明媚《めいび》争《いかで》か画《が》も如《し》かん、天色大気も殆《ほとん》ど塵境以外《じんきよういがい》の感無くんばあらず。黄金《こがね》を織作《おりな》せる羅《うすもの》にも似たる麗《うるはし》き日影を蒙《かうむ》りて、万斛《ばんこく》の珠を鳴す谷間の清韻を楽みつつ、欄頭《らんとう》の山を枕に恍惚《こうこつ》として消ゆらんやうに覚えたりし貫一は、急遽《あわただし》き跫音《あしおと》の廊下を動《うごか》し来《きた》るに駭《おどろか》されて、起回《おきかへ》りさまに頭《かしら》を捻向《ねぢむく》れば、何事とも知らず、年嵩《としかさ》の婢《をんな》の駈着《かけつく》るなり。
「些《ちよい》と旦那、参りましたよ、参りましたよ! 早くいらしつて御覧なさいまし。些と早く」
「何が来たのだ」
「何でも可いんですから、早くいらつしやいましよ」
「何だ、何だよ」
「早く階子《はしご》の所へいらしつて御覧なさい」
「おお、あの客が還つたのか」
彼ははや飛ぶが如くに引返して、貫一の言《ことば》は五間も後に残されたり。彼が注進の模様は、見るべき待人を伴ひ帰れるならんをと、直《す》ぐに起ちて表階子《おもてはしご》の辺《あたり》に行く時、既に晩《おそ》し両箇《ふたり》の人影は欄《てすり》の上に顕《あらは》れたり。
鍔広《つばひろ》なる藍鼠《あゐねずみ》の中折帽《なかをれぼう》を前斜《まへのめり》に冠《かむ》れる男は、例の面《おもて》を見せざらんと為れど、かの客なり。引連れたる女は、二十歳《はたち》を二つ三つも越したる可《べ》し。銀杏返《いてふがへし》を引約《ひつつ》めて、本甲蒔絵《ほんこうまきゑ》の挿櫛《さしぐし》根深《ねぶか》に、大粒の淡色瑪瑙《うすいろめのう》に金脚《きんあし》の後簪《うしろざし》、堆朱彫《ついしゆぼり》の玉根掛《たまねがけ》をして、鬢《びん》の一髪《いつぱつ》をも乱さず、極《きは》めて快く結ひ做《な》したり。葡萄茶《えびちや》の細格子《ほそごうし》の縞御召《しまおめし》に勝色裏《かついろうら》の袷《あはせ》を着て、羽織は小紋縮緬《こもんちりめん》の一紋《ひとつもん》、阿蘭陀《オランダ》模様の七糸《しつちん》の袱紗帯《ふくさおび》に金鎖子《きんぐさり》の繊《ほそ》きを引入れて、嬌《なまめかし》き友禅染の襦袢《じゆばん》の袖《そで》して口元を拭《ぬぐ》ひつつ、四季袋《しきぶくろ》を紐短《ひもみじ》かに挈《さ》げたるが、弗《ふ》と此方《こなた》を見向ける素顔の色|蒼《あを》く、口の紅《べに》も点《さ》さで、やや裏寂《うらさびし》くも花の咲過ぎたらんやうの蕭衰《やつれ》を帯びたれど、美目の盻《へん》たる色香《いろか》尚濃《なほこまやか》にして、漫《そぞ》ろ人に染むばかりなり。
両箇《ふたり》は彼の見る目の顕露《あらは》なるに気怯《きおくれ》せる様子にて、先を争ふ如く足早に過行きぬ。貫一もまたその逢着《ほうちやく》の唐突なるに打惑ひて、なかなか精《くはし》く看るべき遑《いとま》あらざりけれど、その女は万々彼の妻なんどにはあらじ、と独《ひと》り合点せり。
第 三 章
かの男女《なんによ》は※[#「※」は「女+兌」、420−16]《いと》しさに堪《た》へざらんやうに居寄りて、手に手を交《まじ》へつつ密々《ひそやか》に語れり。
「さうなの、だから私はどんなに心配したか知れやしない。なかなか貴方《あなた》がここで想つてゐるやうな訳に行きは為《し》ませんとも。そりや貴方の心配もさうでせうけれど、私の心配と云つたら、本当に無かつたの。察しるが可《い》いつて、そりや貴方、お互ぢやありませんか。吁《ああ》、私は今だに胸が悸々《どきどき》して、後から追掛《おつか》けられるやうな気持がして、何だか落着かなくて可けない」
「まあ何でも、かうして約束通り逢《あ》へりや上首尾なんだ」
「全くよ。一昨日《をととひ》の晩あたりの私の心配と云つたら、こりやどうだかと、さう思つたくらゐ、今考へて見れば、自分ながら好く出られたの。やつぱり尽きない縁なのだわ」
些《ちよ》と男の顔を盻《みや》りて、濡《ぬ》るる瞼《まぶた》を軽く拭《ぬぐ》へり。
「その縁の尽きないのが、究竟《つまり》彼我《ふたり》の身の窮迫《つまり》なのだ。俺《おれ》もかう云ふ事に成らうとは思はなかつたが、成程、悪縁と云ふ者は為方《しかた》の無いものだ」
女は尚窃《なほひそか》に泣きゐる面《おもて》を背《そむ》けたるまま、
「貴方は直《ぢき》に悪縁だ、悪縁だと言ふけれど、悪縁ならどうするんです!」
「悪縁だからかうなつたのぢやないか」
「かう成つたのがどうしたんですよ!」
「今更どうするものか」
「当然《あたりまへ》さ! 貴方は一体水臭いんだ!!」
「おい、お静《しず》、水臭いとは誰の事だ」
色を作《な》せる男の眼《まなこ》は、つと湧《わ》く涙に輝けり。
「貴方の事さ!」
女の目よりは漣々《はらはら》と零《こぼ》れぬ。
「俺の事だ?! お静……手前《てめへ》はそんな事を言つて、それで済むと思ふのか」
「済んでも済まなくても、貴方が水臭いからさ」
「未《ま》だそんな事を言やがる! さあ、何が水臭いか、それを言へ」
「はあ、言ひますとも。ねえ、貴方は他《ひと》の顔さへ見りや、直《ぢき》に悪縁だと云ふのが癖ですよ。彼我《ふたり》の中の悪縁は、貴方がそんなに言《いは》なくたつて善く知つてゐまさね。何も貴方|一箇《ひとり》の悪縁ぢやなし、私だつてこれでも随分|謂《い》ふに謂《いは》れない苦労を為てゐるんぢやありませんか。それを貴方がさもさも迷惑さうに、何ぞの端《はし》には悪縁だ悪縁だとお言ひなさるけれど、聞《きか》される身に成つて御覧なさいな。余《あんま》り好《い》い心持は為やしません。それも不断ならともかくもですさ、この場になつてまでも、さう云ふ事を言ふのは、貴方の心が水臭いからだ――何がさうでない事が有るもんですか」
「悪縁だから悪縁だと言ふのぢやないか。何も迷惑して……」
「悪縁でも可ござんすよ!」
彼等は相背《あひそむ》きて姑《しばら》く語無《ことばな》かりしが、女は忍びやかに泣きゐたり。
「おい、お静、おい」
「貴方きつと迷惑なんでせう。貴方がそんな気ぢや、私は……実に……つまらない。私はどうせう。情無い!」
お静は竟《つひ》に顔を掩《おほ》うて泣きぬ。
「何だな、お前も考へて見るが可いぢやないか。それを迷惑とも何とも思はないからこそ、世間を狭くするやうな間《なか》にも成りさ、又かう云ふ……なあ……訳なのぢやないか。それを嘘《うそ》にも水臭いなんて言《いは》れりや、俺だつて悔《くやし》いだらうぢやないか。余り悔くて俺は涙が出た。お静、俺は何も芸人ぢやなし、お前に勤めてゐるんぢやないのだから、さう思つてゐてくれ」
「狭山《さやま》さん、貴方もそんなに言はなくたつて可いぢやありませんか」
「お前が言出すからよ」
「だつて貴方がかう云ふ場になつて迷惑さうな事を言ふから、私は情無くなつて、どうしたら可からうと思つたんでさね。ぢや私が悪かつたんだから謝《あやま》ります。ねえ、狭山さん、些《ちよい》と」
お静の顔を打矚《うちまも》りつつ、男は茫然《ぼうぜん》たるのみなり。
「狭山さんてば、貴方何を考へてゐるのね」
「知れた事さ、彼我《ふたり》の身の上をよ」
「何だつてそんな事を考へてゐるの」
「…………」
「今更何も考へる事は有りはしないわ」
狭山は徐々《おもむろ》に目を転《うつ》して、太息《といき》を※[#「※」は「口+句」、423−16]《つ》いたり。
「もうそんな溜息《ためいき》なんぞを※[#「※」は「口+句」]くのはお舎《よ》しなさいつてば」
「お前二十……二だつたね」
「それがどうしたの、貴方が二十八さ」
「あの時はお前が十九の夏だつけかな」
「ああ、さう、何でも袷《あはせ》を着てゐたから、丁度今時分でした。湖月《こげつ》さんのあの池に好いお月が映《さ》してゐて、暖《あつたか》い晩で、貴方と一処に涼みに出たんですよ、善く覚えてゐる。あれが十九、二十、二十一、二十二と、全《まる》三年に成るのね」
「おお、さうさう。昨日《きのふ》のやうに思つてゐたが、もう三年に成るなあ」
「何だか、かう全で夢のやうね」
「吁《ああ》、夢だなあ!」
「夢ねえ!」
「お静!」
「狭山さん!」
両箇《ふたり》は手を把《と》り、膝《ひざ》を重ねて、同じ思を猶悲《なおかなし》く、
「ゆ……ゆ……夢だ!」
「夢だわ、ねえ!」
声立てじと男の胸に泣附く女。
「かう成るのも皆《みんな》約束事ぢやあらうけれど、那奴《あいつ》さへ居なかつたら、貴方だつて余計な苦労は為はしまいし。私は私で、ああもかうも思つて、末始終の事も大概考へて置いたのだから、もう少しの間時節が来るのを待つてゐられりや、曩日《いつか》の御神籤通《おみくじどほり》な事に成れるのは、もう目に見えてゐるのを、那奴《あいつ》が邪魔して、横紙《よこがみ》を裂くやうな事を為やがるばかりに大事に為なけりや成らない貴方の体に、取つて返しの付かない傷まで附けさせて、私は、狭山さん、余《あんま》り申訳が無い! 堪《かん》……忍《にん》……して下さい」
「そりやなあに、お互の事だ」
「いいえ、私がもう少し意気地が有つたら、かうでもないんだらうけれど、胸には色々在つても、それが思切つて出来ない性分だもんだから、ついこんな破滅《はめ》にも成つて了つて、私は実に済まないと、自分の身を考へるよりは、貴方の事が先に立つて、さぞ陰ぢや迷惑もしてお在《いで》なんだらうに、逢ふ度《たんび》に私の身を案じて、毎《いつ》も優くして下さるのは仇《あだ》や疎《おろか》な事ぢやないと、私は嬉《うれし》いより難有《ありがた》いと思つてゐます。だものだから、近頃ぢや、貴方に逢ふと直《ぢき》に涙が出て、何だか悲くばかりなるのが不思議だと思つてゐたら、果然《やつぱり》かう云ふ事になる讖《しらせ》だつたんでせう。
貴方にはお気の毒だ、お気の毒だ、と始終自分が退《ひ》けてゐるのに、悪縁だなんぞと言れると、私は体が縮るやうな心持がして、ああ、さうでもない、貴方が迷惑してゐるばかりなら未だ可いけれど、取んだ者に懸り合つた、ともしや後悔してお在《いで》なんぢやな
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