ぜん》として一涌《いちゆう》の鮮紅《せんこう》を嘔出《はきいだ》せり。心晦《こころくら》みて覚えず倒れんとする耳元に、松風《まつかぜ》驀然《どつ》と吹起りて、吾に復《かへ》れば、眼前の御壕端《おほりばた》。只|看《み》る、宮は行き行きて生茂《おひしげ》る柳の暗きに分入りたる、入水《じゆすい》の覚悟に極《きはま》れりと、貫一は必死の声を搾《しぼ》りて連《しきり》に呼べば、咳入《せきい》り咳入り数口《すうこう》の咯血《かつけつ》、斑爛《はんらん》として地に委《お》ちたり。何思ひけん、宮は千条《ちすぢ》の緑の陰より、その色よりは稍《やや》白き面《おもて》を露《あらは》して、追来る人を熟《じ》と見たりしが、竟《つひ》に疲れて起きも得ざる貫一の、唯手を抗《あ》げて遙《はるか》に留《と》むるを、免《ゆる》し給へと伏拝《ふしをが》みて、つと茂の中《うち》に隠れたり。
彼は己《おのれ》の死ぬべきを忘れて又起てり。駈寄《かけよ》る岸の柳を潜《くぐ》りて、水は深きか、宮は何処《いづこ》に、と葎《むぐら》の露に踏滑《ふみすべ》る身を危《あやふ》くも淵《ふち》に臨めば、※[#「※」は「革+堂」、394−9]鞳《どうとう》と瀉《そそ》ぐ早瀬の水は、駭《おどろ》く浪《なみ》の体《たい》を尽《つく》し、乱るる流の文《ぶん》を捲《ま》いて、眼下に幾個の怪き大石《たいせき》、かの鰲背《ごうはい》を聚《あつ》めて丘の如く、その勢《いきほひ》を拒《ふせ》がんと為れど、触るれば払ひ、当れば飜《ひるがへ》り、長波の邁《ゆ》くところ滔々《とうとう》として破らざる為《な》き奮迅《ふんじん》の力は、両岸も為に震ひ、坤軸《こんじく》も為に轟《とどろ》き、蹈居《ふみゐ》る土も今にや崩《くづ》れなんと疑ふところ、衣袂《いべい》の雨濃《あめこまやか》に灑《そそ》ぎ、鬢髪《びんぱつ》の風|転《うた》た急なり。
あな凄《すさま》じ、と貫一は身毛《みのけ》も弥竪《よだ》ちて、縋《すが》れる枝を放ちかねつつ、看れば、叢《くさむら》の底に秋蛇《しゆうだ》の行くに似たる径《こみち》有りて、ほとほと逆落《さかおとし》に懸崖《けんがい》を下《くだ》るべし。危《あやふ》き哉《かな》と差覗《さしのぞ》けば、茅葛《かやかつら》の頻《しきり》に動きて、小笹棘《をざさうばら》に見えつ隠れつ段々と辷《すべ》り行くは、求むる宮なり。
その死を止《とど》めんの一念より他《た》あらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地を踏む遑《いとま》もあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、壑間《たにま》の嵐《あらし》の誘ふに委《まか》せて、驀直《ましぐら》に身を堕《おと》せり。
或《あるひ》は摧《くだ》けて死ぬべかりしを、恙無《つつがな》きこそ天の佑《たすけ》と、彼は数歩の内に宮を追ひしが、流に浸《ひた》れる巌《いはほ》を渉《わた》りて、既に渦巻く滝津瀬《たきつせ》に生憎《あやにく》! 花は散りかかるを、
「宮!」
と後《うしろ》に呼ぶ声残りて、前には人の影も在らず。
咄嗟《とつさ》の遅《おくれ》を天に叫び、地に号《わめ》き、流に悶《もだ》え、巌に狂へる貫一は、血走る眼《まなこ》に水を射て、此処《ここ》や彼処《かしこ》と恋《こひし》き水屑《みくづ》を覓《もと》むれば、正《まさし》く浮木芥《うきぎあくた》の類とも見えざる物の、十間《じつけん》ばかり彼方《あなた》を揉みに揉んで、波間隠《なみまがくれ》に推流《おしなが》さるるは、人ならず哉《や》、宮なるかと瞳《ひとみ》を定むる折しもあれ、水勢|其処《そこ》に一段急なり、在りける影は弦《つる》を放れし箭飛《やとび》を作《な》して、行方《ゆくへ》も知らずと胸潰《むねつぶ》るれば、忽《たちま》ち遠く浮き出でたり。
嬉しやと貫一は、道無き道の木を攀《よ》ぢ、崖《がけ》を伝ひ、或《あるひ》は下りて水を踰《こ》え、石を躡《ふ》み、巌を廻《めぐ》り、心地死ぬべく踉蹌《ろうそう》として近《ちかづ》き見れば、緑樹《りよくじゆ》蔭愁《かげうれ》ひ、潺湲《せんかん》声咽《こゑむせ》びて、浅瀬に繋《かか》れる宮が骸《むくろ》よ!
貫一は唯その上に泣伏したり。
吁《ああ》、宮は生前に於《おい》て纔《わづか》に一刻の前《さき》なる生前に於て、この情《なさけ》の熱き一滴を幾許《いかばかり》かは忝《かたじけ》なみけん。今や千行垂《せんこうた》るといへども効無《かひな》き涙は、徒《いたづら》に無心の死顔に濺《そそ》ぎて宮の魂《こん》は知らざるなり。
貫一の悲《かなしみ》は窮《きはま》りぬ。
「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺を為るさへ可哀《あはれ》なのに、この浅ましい姿はどうだ。
刃《やいば》に貫き、水に溺《おぼ》れ、貴様はこれで苦くはなかつたか。可愛《かはい》い奴め、思迫《おもひつ》めたなあ!
宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死では慊《あきた》らずに、二つ命を捨てた気か。さう思つて俺は不敏《ふびん》だ!
どんな事が有らうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけれども、この無残な死状《しにざま》を見ては、罪も恨《うらみ》も皆消えた! 赦したぞ、宮! 俺《おれ》は心の底から赦したぞ!
今はの際《きは》に赦したと、俺が一言《ひとこと》云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つたが、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した! 立派な悔悟だぞ!!
余り立派で、貫一は恥入つた! 宮、俺は面目《めんもく》無い! これまでの精神とは知らずに見殺《みごろし》に為たのは残念だつた! 俺が過《あやまり》だ! 宮、赦してくれよ! 可《い》いか、宮、可いか。
嗚呼《ああ》死んで了ったのだ!!!」
貫一は彼の死の余りに酷《むご》く、余りに潔きを見て、不貞の血は既に尽《ことごと》く沃《そそ》がれ、旧悪の膚《はだへ》は全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、己《おのれ》の為に捨てたる亡骸《なきがら》の、実《げ》に憐《あはれ》みても憐むべく、悲みても猶《なほ》及ばざる思の、今は唯|極《きは》めて切なる有るのみ。
かの烈々《れつれつ》たる怨念《おんねん》の跡無く消ゆるとともに、一旦|涸《か》れにし愛慕の情は又泉の涌《わ》くらんやうに起りて、その胸に漲《みなぎ》りぬ。苦からず哉《や》、人|亡《な》き後の愛慕は、何の思かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何《いか》なる恨をも繋《か》くるの忍び易《やす》きを今ぞ知るなる。
貫一は腸断《ちようた》ち涙連《なみだつらな》りて、我を我とも覚ゆる能はず。
「宮、貴様に手向《たむ》けるのは、俺のこの胸の中《うち》だ。これで成仏してくれ、よ。この世の事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、百歳《ひやく》までも添《そひ》、添、添遂《そひと》げるぞ! 忘れるな、宮。俺も忘れん! 貴様もきつと覚えてゐろよ!」
氷の如き宮が手を取り、犇《ひし》と握りて、永く眠れる面《おもて》を覗《のぞ》かんと為れば、涙急にして文色《あいろ》も分かず、推重《おしかさな》りて、怜《いと》しやと身を悶《もだ》えつつ少時《しばし》泣いたり。
「然し、宮、貴様は立派な者だ。一《ひとた》び罪を犯しても、かうして悔悟して自殺を為たのは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、天晴《あつぱれ》だぞ。それでこそ始て人間たるの面目《めんもく》が立つのだ。
然るに、この貫一はどうか! 一端《いつぱし》男と生れながら、高が一婦《いつぷ》の愛を失つたが為に、志を挫《くぢ》いて一生を誤り、餓鬼《がき》の如き振舞《ふるまひ》を為て恥とも思はず、非道を働いて暴利を貪《むさぼ》るの外は何も知らん。その財《かね》は何に成るのか、何の為にそんな事を為るのか。
凡《およ》そ人と謂《い》ふ者には、人として必ず尽すべき道が有る。己《おのれ》と云ふ者の外に人の道と云ふ者が有るのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と添ふ事が出来ん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、苟《いやし》くも男と生れた一生を抛《なげう》たうと云ふのだ。人たるの効《かひ》は何処《どこ》に在る、人たる道はどうしたのか。
噫《ああ》、誤つた!
宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済まん躯《からだ》だ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に愧入《はぢい》りも為《す》りや、可羨《うらやまし》くもある。当初《はじめ》貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、貴様の悔悟と共に俺も速《すみや》かに心を悛《あらた》めて、人たるの道に負ふところのこの罪を贖《つぐな》はなけりや成らん訳だ。
嗟乎《ああ》、然し、何に就《つ》けても苦《くるし》い世の中だ!
人間の道は道、義務は義務、楽《たのしみ》は又楽で、それも無けりや立たん。俺も鴫沢《しぎさわ》に居て宮を対手《あいて》に勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢のやうに考へてゐた。
あれが浮世なのか、これが浮世なのか。
爾来《あれから》、今日《こんにち》までの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でも無かつた。それで何が頼《たのみ》で俺は活きてゐたのか。死を決する勇気が無いので活きてゐたやうなものだ! 活きてゐたのではない、死損《しにぞくな》つてゐたのだ!!
鰐淵《わにぶち》は焚死《やけし》に、宮は自殺した、俺はどう為《す》るのか。俺のこの感情の強いのでは、又|向来《これから》宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲い思を為なければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層|苦《くるしみ》を受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。
人たるの道を尽す? 人たるの行《おこなひ》を為る? ああ、※[#「※」は「勞/心」、398−13]《うるさ》い、※[#「※」は「勞/心」]い! 人としてをればこそそんな義務も有る、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、一《いつ》の罪悪だと謂《い》ふ。或《あるひ》は罪悪かも知れん。けれども、茫々然《ぼうぼうぜん》と呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等《なにら》の益するところも無く、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末《みじまつ》だ。増《ま》して、俺が今死ねば、忽《たちま》ち何十人の人が助り、何百人の人が懽《よろこ》ぶか知れん。
俺も一箇《ひとり》の女|故《ゆゑ》に身を誤つたその余《あと》が、盗人《ぬすと》家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初《はじめ》に出損《でそくな》つたのが一生の不覚、あれが抑《そもそ》も不運の貫一の躯《からだ》は、もう一遍|鍛直《きたへなほ》して出て来るより外《ほか》為方が無い。この世の無念はその時|霽《はら》す!」
さしも遣る方無く悲《かなし》めりし貫一は、その悲を立《たちどこ》ろに抜くべき術《すべ》を今覚れり。看々《みるみる》涙の頬《ほほ》の乾《かわ》ける辺《あたり》に、異《あやし》く昂《あが》れる気有《きあ》りて青く耀《かがや》きぬ。
「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世《らいせ》で二人が夫婦に成る、これが結納《ゆひのう》だと思つて、幾久《いくひさし》く受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ」
さらば往きて汝《なんぢ》の陥りし淵《ふち》に沈まん。沈まば諸共《もろとも》と、彼は宮が屍《かばね》を引起して背《うしろ》に負へば、その軽《かろ》きこと一片《ひとひら》の紙に等《ひと》し。怪《あや》しと見返れば、更に怪し! 芳芬《ほうふん》鼻を撲《う》ちて、一朶《いちだ》の白百合《しろゆり》大《おほい》さ人面《じんめん》の若《ごと》きが、満開の葩《はなびら》を垂れて肩に懸《かか》れり。
不思議に愕《おどろ》くと為れば目覚《めさ》めぬ。覚むれば暁の夢なり。
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