の光は、早くも宮が乱鬢《らんびん》を掠《かす》めて顕《あらは》れぬ。※[#「※」は「口+阿」、387−14]呀《あなや》と貫一の号《さけ》ぶ時、妙《いし》くも彼は跂起《はねお》きざまに突来る鋩《きつさき》を危《あやふ》く外《はづ》して、
「あれ、貫一さん!」
と満枝の手首に縋《すが》れるまま、一心不乱の力を極《きは》めて捩伏《ねぢふ》せ捩伏《ねぢふ》せ、仰様《のけざま》に推重《おしかさな》りて仆《たふ》したり。
「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい――貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから一思《ひとおもひ》に殺して下さい!」
この恐るべき危機に瀕《ひん》して、貫一は謂知《いひし》らず自ら異《あやし》くも、敢《あへ》て拯《すくひ》の手を藉《か》さんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、空《むなし》く悶《もだ》えに悶えゐたり。必死と争へる両箇《ふたり》が手中の刃《やいば》は、或《あるひ》は高く、或は低く、右に左に閃々《せんせん》として、あたかも一鉤《いつこう》の新月白く風の柳を縫《ぬ》ふに似たり。
「貫一さん、貴方は私を見殺《みごろし》になさるのですか。どうでもこの女の手に掛けて殺すのですか! 私は命は惜くはないが、この女に殺されるのは悔《くやし》い! 悔い!! 私は悔い!!」
彼は乱せる髪を夜叉《やしや》の如く打振り打振り、五体《ごたい》を揉《も》みて、唇《くちびる》の血を噴きぬ。彼も殺さじ、これも傷《きずつ》けじと、貫一が胸は車輪の廻《めぐ》るが若《ごと》くなれど、如何《いか》にせん、その身は内より不思議の力に緊縛《きんばく》せられたるやうにて、逸《はや》れど、躁《あせ》れど、寸分の微揺《ゆるぎ》を得ず、せめては声を立てんと為れば、吭《のんど》は又|塞《ふさが》りて、銕丸《てつがん》を啣《ふく》める想《おもひ》。
力も今は絶々に、はや危《あやふ》しと宮は血声を揚げて、
「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つて、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さい」
又激く捩合《ねぢあ》ふ郤含《はずみ》に、短刀は戞然《からり》と落ちて、貫一が前なる畳に突立《つつた》つたり。宮は虚《すか》さず躍《をど》り被《かか》りて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、推隔《おしへだ》つる腋《わき》の下より後突《うしろづき》に、※[#「※」は「木+覇」、388−17]《つか》も透《とほ》れと刺したる急所、一声|号《さけ》びて仰反《のけぞ》る満枝。鮮血! 兇器! 殺傷! 死体! 乱心! 重罪! 貫一は目も眩《く》れ、心も消ゆるばかりなり。宮は犇《ひし》と寄添ひて、
「もうこの上はどうで私は無い命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方に赦《ゆる》された積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれでもう堪忍《かんにん》して、今までの恨は霽《はら》して下さいまし、よう、貫一さん。私がこんなに思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替《いきかはり》死替《しにかはり》して七生《しちしよう》まで貫一さんを怨《うら》みますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴方の口からお念仏を唱《とな》へて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」
朱《あけ》に染みたる白刃《しらは》をば貫一が手に持添へつつ、宮はその可懐《なつかし》き拳《こぶし》に頻回《あまたたび》頬擦《ほほずり》したり。
「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることは無いのですから、せめて一遍の回向《えこう》をして下さると思つて、今はの際《きは》で唯一言《ただひとこと》赦して遣ると有仰《おつしや》つて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その御詑《おわび》が為たいばかりなのですから、貫一さん、既往《これまで》の事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一さん、貫一さん!
今思へばあの時の不心得が実に悔《くやし》くて悔くて、私は何とも謂ひやうが無い! 貴方が涙を零《こぼ》して言つて下すつた事も覚えてゐます。後来《のちのち》きつと思中《おもひあた》るから、今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひながら何為《なぜ》あの時に些少《すこし》でも気が着かなかつたか。愚《おろか》な自分を責めるより外は無いけれど、死んでもこんな回復《とりかへし》の付かない事を何で私は為ましたらう! 貫一さん、貴方の罰《ばち》が中《あた》つたわ! 私は生きてゐる空《そら》が無い程、貴方の罰が中つたのだわ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。
さうしてとてもこの罰の中つた躯《からだ》では、今更どうかうと思つても、願なんぞの※[#「※」は「りっしんべん+(篋−竹)」、390−5]《かな》ふと云ふのは愚な事、未《ま》だ未だ憂目《うきめ》を見た上に思死《おもひじに》に死にでも為なければ、私の業《ごう》は滅《めつ》しないのでせうから、この世に未練は沢山有るけれど、私は早く死んで、この苦艱《くげん》を埋《う》めて了つて、さうして早く元の浄《きよ》い躯《からだ》に生れ替《かは》つて来たいのです。さう為たら、私は今度の世には、どんな艱難辛苦《かんなんしんく》を為ても、きつと貴方に添遂《そひと》げて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いて戴《いただ》き、又この世で為遺《しのこ》した事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にも悦《よろこ》ばれ、自分も嬉《うれし》い思を為て、この上も無い楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあんな不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。可《よ》うござんすか! きつと忘れずにゐて下さいよ。
人は最期《さいご》の一念で生《しよう》を引くと云ふから、私はこの事ばかり思窮《おもひつ》めて死にます。貫一さん、この通だから堪忍して!」
声震はせて縋《すが》ると見れば、宮は男の膝《ひざ》の上なる鋩《きつさき》目掛けて岸破《がば》と伏したり。
「や、行《や》つたな!」
貫一が胸は劈《つんざ》けて始てこの声を出《いだ》せるなり。
「貫一さん!」
無残やな、振仰ぐ宮が喉《のんど》は血に塗《まみ》れて、刃《やいば》の半《なかば》を貫けるなり。彼はその手を放たで苦き眼《まなこ》を※[#「※」は「目+爭」、391−3]《みひら》きつつ、男の顔を視《み》んと為るを、貫一は気も漫《そぞろ》に引抱《ひつかか》へて、
「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」
大事の刃を抜取らんと為れど、一念|凝《こ》りて些《ちと》も弛《ゆる》めぬ女の力。
「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為《なぜ》放さんのだ」
「貫、貫一さん」
「おお、何だ」
「私は嬉い。もう……もう思遺《おもひのこ》す事は無い。堪忍して下すつたのですね」
「まあ、この手を放せ」
「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、赦《ゆる》すと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」
血は滾々《こんこん》と益す流れて、末期《まつご》の影は次第に黯《くら》く逼《せま》れる気色。貫一は見るにも堪《た》へず心乱れて、
「これ、宮、確乎《しつかり》しろよ」
「あい」
「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」
「貫一さん!」
「宮!」
「嬉い! 私は嬉い!」
貫一は唯胸も張裂けぬ可く覚えて、言《ことば》は出《い》でず、抱《いだ》き緊《し》めたる宮が顔をば紛《はふ》り下つる熱湯の涙に浸して、その冷たき唇《くちびる》を貪《むさぼ》り吮《す》ひぬ。宮は男の唾《つばき》を口移《くちうつし》に辛《から》くも喉《のど》を潤《うるほ》して、
「それなら貫一さん、私は、吁《ああ》、苦《くるし》いから、もうこれで一思ひに……」
と力を出《いだ》して刳《えぐ》らんと為るを、緊《しか》と抑へて貫一は、
「待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ」
「いいえ、止めずに」
「待てと言ふに」
「早く死にたい!」
漸《やうや》く刀を※[#「※」は「てへん+宛」、392−11]放《もぎはな》せば、宮は忽《たちま》ち身を回《かへ》して、輾《こ》けつ転《ころ》びつ座敷の外に脱《のが》れ出づるを、
「宮、何処《どこ》へ行く!」
遣《や》らじと伸《の》べし腕《かひな》は逮《およ》ばず、苛《いら》つて起ちし貫一は唯|一掴《ひとつかみ》と躍り被《かか》れば、生憎《あやにく》満枝が死骸《しがい》に躓《つまづ》き、一間ばかり投げられたる其処《そこ》の敷居に膝頭《ひざがしら》を砕けんばかり強く打れて、※[#「※」は「足+(殕−歹)」、392−14]《のめ》りしままに起きも得ず、身を竦《すく》めて呻《うめ》きながらも、
「宮、待て! 言ふことが有るから待て! 豊、豊! 豊は居ないか。早く追掛けて宮を留めろ!」
呼べど号《さけ》べど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は阿修羅《あしゆら》の如く憤《いか》りて起ちしが、又|仆《たふ》れぬ。仆れしを漸く起回《おきかへ》りて、忙々《いそがはし》く四下《あたり》を※[#「※」は「目+旬」、393−2]《みまは》せど、はや宮の影は在らず。その歩々《ほほ》に委《おと》せし血は苧環《をだまき》の糸を曳きたるやうに長く連《つらな》りて、畳より縁に、縁より庭に、庭より外に何処《いづこ》まで、彼は重傷《いたで》を負ひて行くならん。
磐石《ばんじやく》を曳くより苦く貫一は膝の疼痛《いたみ》を怺《こら》へ怺へて、とにもかくにも塀外《へいそと》に※[#「※」は「足+禹」、393−5]《よろぼ》ひ出づれば、宮は未《いま》だ遠くも行かず、有明《ありあけ》の月冷《つきひやや》かに夜は水の若《ごと》く白《しら》みて、ほのぼのと狭霧罩《さぎりこ》めたる大路の寂《せき》として物の影無き辺《あたり》を、唯|独《ひと》り覚束無《おぼつかな》げに走れるなり。
「宮! 待て!」
呼べば谺《こだま》は返せども、雲は幽《ゆう》にして彼は応《こた》へず。歯咬《はがみ》を作《な》して貫一は後を追ひぬ。
固《もと》より間《あはひ》は幾許《いくばく》も有らざるに、急所の血を出《いだ》せる女の足取、引捉《ひつとら》ふるに何程の事有らんと、侮《あなど》りしに相違して、彼は始の如く走るに引易《ひきか》へ、此方《こなた》は漸く息疲《いきつか》るるに及べども、距離は竟《つひ》に依然として近《ちかづ》く能はず。こは口惜《くちを》し、と貫一は満身の力を励し、僵《たふ》るるならば僵れよと無二無三に走りたり。宮は猶脱《なほのが》るるほどに、帯は忽《たちま》ち颯《さ》と釈《と》けて脚《あし》に絡《まと》ふを、右に左に※[#「※」は「足+易」、393−13]払《けはら》ひつつ、跌《つまづ》きては進み、行きては踉《よろめ》き、彼もはや力は竭《つ》きたりと見えながら、如何《いか》に為《せ》ん、其処《そこ》に伏して復《また》起きざる時、躬《みづから》も終《つひ》に及ばずして此処《ここ》に絶入《ぜつにゆう》せんと思へば、貫一は今に当りて纔《わづか》に声を揚ぐるの術《じゆつ》を余すのみ。
「宮!」と奮《ふる》つて呼びしかど、憫《あはれ》むべし、その声は苦き喘《あへぎ》の如き者なりき。我と吾肉を啖《くら》はんと想ふばかりに躁《あせ》れども、貫一は既に声を立つべき力をさへ失へるなり。さては効無《かひな》き己《おのれ》に憤《いかり》を作《な》して、益す休まず狂呼《きようこ》すれば、彼の吭《のんど》は終に破れて、汨然《こつ
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